【書籍】『致知』2026年3月号(特集「是の処 即ち是れ道場」)読後感
致知2026年3月号(特集「是の処 即ち是れ道場」)における自身の読後感を紹介します。なお、すべてを網羅するものでなく、今後の読み返し状況によって、追記・変更する可能性があります。
巻頭:後生、畏るべし。いずくんぞ来者の今にしかざるを知らんや―『論語』子罕第九 數土文夫さん(JFEホールディングス名誉顧問)p2
約二千五百年前、中国の春秋戦国時代に儒教の礎を築いた思想家、孔子。その深遠なる教えを収めた『論語』の中に、「後生、畏るべし(こうせい、おそるべし)」という一節があります。この言葉は、自分たちよりも後に生まれてきた若者、すなわち「後生」が将来どのような大人物や畏敬すべき存在になるかは計り知れず、無限の可能性を秘めているということを説いたものです。孔子は「我々の後に続く者が、今の我々に及ばないなどと、どうして断定できようか」と問いかけ、若者を決して侮ることなく、敬意と愛情を持って接すべきだと厳しく、かつ温かく教示しています。
この教えは、儒教の根幹をなす「仁」の精神に深く通じています。かつて孔子が愛弟子の仲弓から「仁とは何か」と問われた際、「己の欲せざるところ、人に施すなかれ」と答えたという有名な逸話があります。相手の立場に立ち、共感の念を持つこと。この精神が基盤にあれば、組織であれ教育の場であれ、あらゆる対人関係は円満になると孔子は考えました。
逆に、年長者が自らの主張や成功体験に固執し、後輩の斬新なアイデアや情熱を軽視して却下してしまえば、社会や学術の進歩は止まってしまいます。新しいものを知ること、すなわち「知新」の重要性を、孔子はその見識をもって示していたのです。
また、この言葉は若者に対する反語的な叱咤激励でもあります。一度や二度の否定や拒絶にあったとしても、簡単に引き下がらず、確固たる志と覚悟を持って自らの殻を破り、新境地を切り拓けというメッセージが込められています。孔子自身、三千人もの弟子を抱え、その中でも「六芸」に通じた者や「四科」に精通した多くの逸材を育て上げた人物でした。司馬遷の『史記』にも詳述されている通り、孔子は弟子たちの特質を的確に捉え、個々に応じた賞賛や助言を行うことで、健全な競争心と向上心を引き出すことに長けていました。弟子を育成することこそが彼の天職であり、その熱意こそが後の儒教の繁栄を支えたといえるでしょう。
現代において、この「後生、畏るべし」を体現する象徴的な存在が、メジャーリーガーの大谷翔平選手です。2025年末、彼は米『TIME』誌の「世界の顔」の一人に選ばれましたが、その魅力は野球の記録だけに留まりません。謙虚さ、不断の努力、周囲への細やかな配慮、そしてチームワークを第一とする姿勢など、その人間性そのものが畏敬の対象となっています。そして、彼を語る上で欠かせないのが栗山英樹氏の存在です。当時、周囲が否定的だった「二刀流」という若者の志を「その志や壮なり」と理解し、強力に支援し続けた指導者の風格こそが、大谷選手という稀代の才能を開花させる大きな力となりました。
また、2025年に2人のノーベル賞受賞者を輩出した京都大学の学風も、この精神を象徴しています。自由な議論を尊び、基礎研究を支える土壌には、師弟が共に学び高め合う「後生、畏るべし」の感覚が連綿と受け継がれています。深刻な少子化という難題に直面する二十一世紀の日本において、次世代を担う若者を健全に育成することは、もはや個人の問題ではなく、国家の命運を左右する大事です。若者の可能性を信じ、育てる文化を繋いでいくことこそが、未来への確かな希望となるに違いありません。
人事の視点から:可能性を解き放つ組織文化の醸成
この「後生、畏るべし」という視点は、これからの組織づくりにおいても極めて示唆に富むものと考えられます。経験豊かな世代が若手の持つ未知の可能性を「畏敬の念」を持って見つめることは、組織の停滞を打破し、新たな価値を創造するための第一歩といえるでしょう。自らの枠組みで相手を評価するのではなく、相手の志に共感し、その芽を摘まずに伸ばしていく姿勢こそが、今の時代に求められている気がいたします。
具体的には、孔子が弟子たちと問答を繰り返しながら互いに学んだように、教える側と教わる側がフラットに刺激し合える環境を整えたいところです。若手の斬新な発想や覚悟を「壮なり」と肯定し、共に挑戦を楽しむ伴走者のような在り方が、結果として個々の才能を最大限に引き出すことにつながるのではないでしょうか。それは、単なる育成スキルの問題ではなく、組織全体に流れる「仁」の精神の醸成とも考えられます。
一人ひとりの人間性を尊び、その成長を心から願う風土を築くことは、少子化という大きな波の中で、選ばれ続ける組織であるための根源的な力になるように思えます。未来を担う若者たちが、その無限の可能性を存分に発揮できるよう、我々がいかに謙虚に彼らから学び、敬意を持って接し続けられるか。その問いを常に持ち続けることこそが、次世代育成という国家的大事に対する、一つの誠実な向き合い方だといえるでしょう。
リード:藤尾秀昭さん 特集「是の処 即ち是れ道場」 p8
道元禅師がその生涯をかけて見出し、そして最期の瞬間まで唱え続けた「是処即是道場(ぜしょそくぜどうじょう)」という言葉には、私たちの生き方や働く姿勢を根本から問い直す深い響きがあります。道元は、鎌倉時代の初期に名門の家に生まれながらも、三歳で父を、八歳で母を亡くすという過酷な幼少期を過ごしました。この深い喪失体験が、彼を仏道へと駆り立てる転機となったのです。十四歳で比叡山に登り出家した道元でしたが、当時の仏教界が抱えていた「人は皆、本来仏性を持っているのになぜ修行が必要なのか」という根源的な疑問を解消できず、真理を求めて二十四歳で宋へと渡りました。
宋での修行中、道元は一人の老典座、つまり料理番との出会いによって大きな覚醒を経験します。それまでの道元にとって、料理や掃除といった日々の雑務は修行の妨げとなる「雑用」に過ぎないと考えていました。しかし、その老典座から「料理や掃除のすべてが修行であり、いつどこにいてもそこが修行の場である」と教えられたのです。これは道元にとって、自身の思い上がりを打ち砕く痛烈な警策となりました。その後、生涯の師となる如浄禅師と出会い、二十八歳の時に「身心脱落」の境地に至り、長年の疑問を氷解させたのです。
道元は後年、誰もが仏性を備えているが、それは自ら修行し、体認しなければ現れてこないものであると説きました。その教えを自らの死をもって示したのが、五十四歳での最期の姿です。病に侵され、苦しい死の床にありながら、彼は「こここそが自分を高めるための道場である」と記し、その言葉を唱えながら旅立ちました。いかなる過酷な状況であっても、いま自分が置かれている場所こそが魂を磨く場であるという「是処即是道場」の精神は、現代を生きる私たちにとっても、困難に立ち向かうための強い支えとなるはずです。
この精神を現代において体現しているのが、九十三歳になられた青山俊董師です。青山師は、脳梗塞や心筋梗塞、がんの転移、そして大腿骨の骨折といった、常人であれば心が折れてしまうような重病や怪我に見舞われながらも、病を「南無病気大菩薩」と拝み、その状況すらも自分を豊かにする「風景」として受け止めておられます。道元が遺した「四運を一景に競う」という言葉、つまり生老病死のすべてを人生の豊かな景色として受け入れるという教えを、青山師はその生き方を通じて証明しています。人生に起こるあらゆる出来事を自分を磨く修養の場と捉える覚悟こそが、困難を乗り越える真の力になるのだといえるでしょう。
人事の視点からの学び
道元禅師が示した「是処即是道場」や、日常の雑作すべてが修行であるという教えは、組織における個人の成長を考える上で非常に示唆に富んでいます。日々の業務を単なる作業やタスクの消化と捉えるのではなく、その一分一秒が自己の人間性を磨く場であるという視点をいかに育めるかが、組織の質を左右する一手になると考えられます。例えば、一見すると地味な事務作業やルーチンワークであっても、それが誰かの役に立ち、自分を形成する重要なプロセスであると認識できるような文化を育みたいところです。
また、青山俊董師が説く「四運を一景に競う」という考え方は、ライフステージの変化や予期せぬ困難に直面するメンバーへの寄り添い方にも通じるものがあります。病気や介護、あるいはキャリアの挫折といった厳しい状況も、その人の人生を豊かにする「景色」の一部として受け止める。そのような受容の精神を組織の根底に置くことで、一人ひとりが逆境を成長の糧へと変えていける環境が整っていくのではないでしょうか。
私たちは、単にスキルを習得させるだけでなく、働く場所そのものが「自分を磨く道場」であると感じられるような、精神的な柱を共有していくことを大切にしたいものです。言葉が魂に届いたとき、それは単なる知識を超えて、困難な時代を生き抜くための真の力へと変わります。目の前の仕事や置かれた環境を、かけがえのない修養の場として肯定的に捉え直すきっかけを提供し続けることが、これからの時代に求められる一つのあり方であるといえるでしょう。
一流への道はかくして拓かれた 坂井宏行さん(ラ・ロシェル店主)、後藤雅司さん(シャトー ラ・パルム・ドール オーナーシェフ)p10
伝説の番組『料理の鉄人』での対戦から約30年。フランス料理界の巨匠であり、83歳にして今なお現役を貫く「ラ・ロシェル」の坂井宏行氏と、三重県津市で「シャトーラ・パルム・ドール」を営む後藤雅司氏による対談は、単なる料理論を超えた深い人間学の記録となりました。20歳の年齢差がありながらも、修業時代の圧倒的な努力や、不退転の覚悟で窮地を乗り越えてきた二人の歩みには、驚くほどの共通点があります。料理人の人間性がそのまま皿に現れるという哲学を土台に、一流と呼ばれる人々がどのような景色を見てきたのかが、熱量を持って語られています。
坂井氏は83歳の現在も週2回のジム通いやロードバイク、和太鼓などを続け、トップが常に元気でいることの重要性を説きます。トップが病気がちでは部下は安心してついてこられず、自らが率先垂範して努力する姿を見せることが、組織を動かす原動力になると考えているからです。対する後藤氏も、25年間にわたり毎朝の神棚への拝礼を欠かさず、自身の律動を整えてきました。二人の習慣に共通するのは、自らを厳しく律し、常に高いエネルギーを維持しようとするプロフェッショナルとしての自覚です。
二人の原点は、決して恵まれたものばかりではありませんでした。坂井氏は3歳で父を戦死で亡くし、母の内職を助けるために小学生の頃から家族の食事を作っていました。一方の後藤氏も、中学生の時に母を交通事故で亡くし、一時は不良グループに入るほど荒れた時期を過ごしました。しかし、そこから立ち上がるきっかけとなったのは、周囲の大人たちの言葉や、自らの内に秘めた反骨心でした。後藤氏は、進路指導の先生から無理だと言われた高校に猛勉強の末に合格した経験を挙げ、負けじ魂が人を育て、敗者の気持ちが分かってこそ真の勇者になれると語ります。こうした逆境をバネにするガッツこそが、後の厳しい料理人の世界を生き抜く糧となったのでしょう。
修業時代の話になると、さらにその凄絶さが際立ちます。坂井氏が経験した「親方の靴磨き」や「灰で磨く銅鍋洗い」といった下積みは、現代では想像しがたい厳しさですが、彼はそれを「一流になるための技術を盗む時間」と捉えていました。特に印象的なのは、伝説の料理人・志度藤雄氏や人生の師・金谷鮮治氏から学んだ「物を大切にする心」です。道具や食材、あるいは一着のスーツを大切にできない人間は、スタッフやお客様を大切にすることはできない。この教えは、現在の坂井氏の経営哲学である「まずスタッフ、次に家族、最後にお客さん」という優先順位に深く繋がっています。
後藤氏もまた、27歳での単身渡仏中に足の指を3本骨折しながらも、休まず厨房に立ち続けるという壮絶な経験をしています。そのひたむきな姿を見ていたシェフが、後に二ツ星レストランを紹介してくれたといいます。一生懸命に取り組んでいれば、必ず誰かが引き上げてくれる。この実感が、後の独立への勇気となりました。38歳で独立した際、後藤氏は無担保で大金を貸してくれた恩人の存在や、吉田松陰の「動きながら考える」という覚悟に支えられました。バブル崩壊後の多額の借金に苦しみ、ビルの窓から飛び降りたいほどの絶望を味わった坂井氏も、「やるしかない」という不退転の決意でレストラン・ブライダルという新機軸を打ち出し、窮地を脱しました。逆境の時に腐らず、順境の時に浮かれず、常に足元を固めてきた二人の言葉には、実体験に裏打ちされた重みがあります。
対談の締めくくりに語られた「千分の一の法則」は、あらゆる職業に通じる真理といえるでしょう。1000人の調理師学校卒業生のうち、成功を収めるオーナーシェフになれるのはたった一人。その一人になるためには、懐が深く、いい意味で図々しく、そして自らのコックコート姿に惚れ込むほどの誇りを持つことが必要だといいます。夢は見るものではなく達成するもの。そのために自分を信じて諦めない。80代と60代の現役ランナーが語る「勇往精進」の精神は、困難な時代を生きる私たちに、一歩踏み出す勇気を与えてくれます。
人事の視点からの学び
組織において個人のポテンシャルをいかに引き出し、文化として定着させるかを考える際、今回の対談にある「人間性が皿に現れる」という言葉は、非常に示唆に富んでいると感じます。スキルやテクニックの習得はもちろん重要ですが、その根底にある「どのような姿勢で仕事に向き合っているか」という人間教育の重要性を改めて認識させられます。日々のルーティンワークや裏方の仕事にどれだけ誇りを持てるか。鍋磨きのような一見すると地味な作業に「自分の色」を出そうとする主体性を育む仕組みづくりは、エンゲージメントを高める上でも有効な一手と考えられます。
また、坂井氏が説く「スタッフを第一に考える」という姿勢は、現代のウェルビーイングの考え方にも通じるものです。リーダーが率先して心身を鍛え、エネルギーに満ちた姿を見せることで、メンバーに安心感と活力を与える。こうした心理的安全性と規律のバランスは、今の組織づくりにおいて特に大切にしたいところです。
採用や育成の場面では、整った経歴だけでなく、後藤氏のような「反骨心」や「逆境を乗り越えた経験」をどう評価し、その熱量を組織の推進力に変えていけるかが鍵になるのではないでしょうか。一%の可能性に賭けて猛勉強したときのような、あの「バチンとスイッチが入る瞬間」を、社内の至るところで生み出せるような環境を整えていきたいものです。
最後に、自分の制服や仕事道具に惚れ込むほどの誇りを持つという視点は、インナーブランディングの観点からも非常に重要です。自らの仕事に恋をし、その姿に自らが見惚れるほどのプロ意識を持つ人材が一人でも増えるよう、それぞれの役割の価値を再定義し、光を当てるような取り組みを検討してみたいと感じました。
人間ではなく仕事を前に出せ 河内國平さん(刀匠)p19
奈良県吉野の深い山中にある鍛錬場「無玄関」。そこには八十四歳のいまも現役で槌を振るい、魂を込めて刀を打ち続ける刀匠、河内國平氏の姿があります。六十年に及ぶその歩みは、鎌倉・室町時代以来、約五百年間ものあいだ途絶えていた技法「乱れ映り」を現代に再現し、刀剣界最高峰の「正宗賞」を受賞するという、まさに一道を極めた極致にあります。
しかし、これほどまでの偉業を成し遂げながらも、氏の日常は驚くほど謙虚で、規律正しい生活に貫かれています。朝は六時前に起き、決まった時間に食事を摂り、暴飲暴食を避け、酒も嗜まないという自己管理の徹底が、八十を超えてなお溌剌とした仕事ぶりを支えています。
河内氏が大切にしているのは、自身の感情や人間性以上に「仕事そのもの」を重んじる姿勢です。仕事で行き詰まった時や心身がしんどくなった時、氏は「アホになれ」と自らに言い聞かせると語ります。あれこれと理屈で考えるのではなく、ただ無心に体を動かし、仕事に没頭する。そうすることで、人間という自我が消え、作品が前に出てくるのだといいます。
また、氏は「仕事が好き」という言葉よりも「仕事場が好き」という表現を好みます。自分の手で作り上げた仕事場に身を置き、道具の一つひとつに愛着を持って向き合う。この飽くなき現場への愛こそが、何十年ものあいだ情熱を絶やさずにいられる源泉といえるでしょう。
その道への入り口は、不思議な運命に導かれたものでした。刀鍛冶の家に生まれながらも、戦後の混乱期に育った氏は、父から「刀の時代は二度と来ない」と言い渡され、当初は会社員を目指して法学部に進学しました。しかし、大学で出会った考古学者の末永雅雄氏との縁や、人間国宝・宮入昭平氏の著書に感銘を受けたことで、自身のルーツである刀鍛冶の道に生きることを直感的に決意したのです。宮入師匠のもとでの修業は、技術以前に人間としての「構」をつくる過酷なものでした。庭掃除や使い走りに明け暮れる日々の中で、仕事場に落ちている一本の釘や針金の切れ端すらも「鉄」として大切に扱うよう厳しく仕込まれました。この徹底した生活態度と鉄への敬意こそが、一流の職人としての土台を形作ったのです。
独立して数々の賞を手にした後も、河内氏の探究心は衰えるどころか、さらに燃え上がりました。四十二歳の時、自身の仕事に行き詰まりを感じた氏は、他流派である隅谷正峯氏のもとへ家族を連れて再び弟子入りするという、常識では考えられない決断を下します。安定した立場を捨て、収入が途絶える中で家族には苦労をかけましたが、この「他流派の技を盗む」という執念が、自身の相州伝に備前伝の良さを融合させる強みとなりました。こうした飽くなき向上心があったからこそ、現代科学でも解明できなかった「乱れ映り」の再現という奇跡を成し遂げることができたのです。そのヒントが、意外にも本職の包丁鍛冶が作る刀の「切れ味」の中にあったという事実は、真理を求める者が持つべき謙虚な視野の広さを物語っています。
河内氏にとって、本当の伝承とは単に形や技術を伝えることではありません。後世の人間が「自分もこれを超えてみたい」と挑みたくなるような、圧倒的な仕事を遺すことこそが真の伝承であると説きます。八十四歳にして「自分の目はまだ進化している」と語り、鎌倉時代の名工・正宗をライバルとして見据えるその姿は、生涯をかけて道を深め続けることの尊さを教えてくれます。「人間が前に出るな、仕事を前に出せ」という師の教えを胸に、今日も氏は鍛錬場に向かいます。その一振り一振りが、まさに「是の処即ち是れ道場」という、一瞬一瞬を修業として生きる人の誠実な祈りのようです。
人事の視点からの学び
河内氏の「是の処即ち是れ道場」という生き方は、組織における人材育成やキャリア形成のあり方にも、多くの温かな示唆を与えてくれます。特に、技術を習得する以前に人間としての「構(かまえ)」を身につけるという考え方は、現代のリスキリングやスキル習得の議論においても、土台となる仕事への向き合い方を整えることの重要性を再認識させてくれます。単なる知識の蓄積ではなく、一人の職業人としての土台をいかに育むかを支援することは、中長期的な成長を支える上で欠かせない一手といえるでしょう。
また、すでに実績のあるプロフェッショナルが、四十歳を過ぎてから他流派に学びに行くという柔軟な姿勢は、組織の壁を越えた越境学習や学び直しの理想的な姿です。一つの専門性に安住せず、異分野の知見を謙虚に取り入れる文化を醸成したいところです。効率やスピードが重視される時代だからこそ、あえて現場で泥臭く試行錯誤を繰り返す時間を尊重し、そこから生まれる「本物の気づき」を大切にする余裕を組織の中に持っておきたいと考えられます。
働く人々が、自らの「仕事場」に愛着を持ち、余計な自我を忘れて仕事そのものに没頭できるような環境をどう整えていくか。河内氏が語る、人間よりも仕事を前に出すという姿勢は、個人の成長が結果として組織の成果や社会への貢献に直結するという、健全で幸せな働き方の原点を示しているように感じられます。
今後の取り組みとして、現場のベテランが持つこうした「構」の哲学を、次世代へどのように言葉以外の形でも伝承していけるか、じっくりと対話を重ねていきたいところです。
困難を受け入れ、人生を輝かせる 東谷 瞳さん(脳性麻痺ライター)p38
三重県庁で18年にわたり勤務し、現在は作家や講演家として活動する東谷瞳さんの半生は、重度の脳性麻痺という困難を「受け入れる」ことから始まった、輝きに満ちた挑戦の軌跡です。生まれた時の仮死状態による後遺症で、右手足と言語に障がいを抱え、日常生活や会話にも制約がある中、彼女がいかにして自身の運命と向き合い、自らの道を見出してきたのか。その歩みには、単なる克服の物語を超えた、人間としての深い智慧が宿っています。
幼少期、彼女を支えたのは「女手一つで育ててくれた母」の強い信念でした。母は、東谷さんの将来の選択肢を狭めないよう、周囲の反対を押し切って普通学校への進学を選択します。保育園のかけっこで転んでも「走り切りなさい」と叱咤する厳しさは、周囲から「鬼母」と称されるほどでしたが、その裏には深い慈愛がありました。制服を一人で着られるようスナップボタンを付け、指が不自由でも吹けるリコーダーを全国から探し出す。母が用意してくれた数々の「便利グッズ」は、彼女が健常者と同じ環境で学び続けるための、文字通りの武器となったのです。
しかし、成長と共に周囲との差は顕著になり、いじめや差別に苦しむ時期が訪れます。当時の彼女にとって、最大の葛藤は「障がいを認めること」そのものでした。高校二年生の時、体力の限界から車いすの使用を決断しますが、それは「歩くことを諦める、逃げの選択」であると感じ、プライドが激しく傷ついたといいます。ところが、いざ車いすを使い始めると、移動に使っていた体力を授業や部活動に充てられるようになり、学校生活の彩りが劇的に変わりました。「できないことを受け入れ、折り合いをつけることで、新しい道が開ける」。この体験が、彼女のその後の生き方を決定づける大きな転換点となりました。
大学卒業後、養護学校の教員を目指したものの、採用試験では身体的な制約が壁となり、夢は絶たれます。答えの出ない問いに立ち止まった彼女が次に見出した道は、三重県庁への就職でした。特に大きな逆境となったのは、電話対応が主な業務となる部署への配属です。言語障がいゆえに電話が取れない自分に対し、周囲の目は厳しく、居場所を失いかけたこともありました。そこで彼女が実践したのが、鍵山秀三郎氏の提唱する「凡事徹底」でした。コピー用紙の補充や些末な雑務など、自分にできる最大限のことを一所懸命に積み重ねる。その誠実な姿勢と、同僚への細やかな配慮が、次第に周囲の信頼を勝ち取っていったのです。
私生活では結婚と出産を経験しますが、ここでも「母親らしいことができない」という新たな壁にぶつかります。娘を抱くことも、授乳することもままならない。自分を責め、自信を失いかけていた彼女を救ったのは、震える手で書き始めた一冊の「育児日記」でした。物理的な世話はできなくても、娘への想いを言葉に綴ることはできる。その日記は、母と娘を繋ぐ確かな証となり、彼女に「自分なりの母親のあり方」を教えました。どんな形であれ、親子の絆は繋がっている。その確信が、彼女の心に柔らかな光を灯しました。
東谷さんは今、松下幸之助氏の「順境も逆境も、その与えられた境涯に素直に生きる」という言葉を胸に、活動を続けています。障がいがあるから何もできないのではなく、障がいがあるからこそ見えてくる景色があり、伝えられる言葉がある。自らの著書『あきらめが生む輝き』に込めた想いは、困難の中で立ち止まっている多くの人々の背中を優しく押しています。自分の境遇を嘆くのではなく、与えられた場所を「道場」として全力を尽くす。その清々しい生き方は、真の強さとは何かを私たちに問いかけているといえるでしょう。
人事の視点からの考察
東谷さんの歩みから、組織において個々の能力をどう引き出し、輝かせるかという点について、多くの示唆を得ることができます。特に、彼女が直面した「配属先での電話対応」という逆境と、それを乗り越えた「凡事徹底」の姿勢は、適材適所という考え方を再考する上での重要な一手となり得ます。
個々の特性によって「どうしてもできないこと」が存在する場合、その欠損を埋めることに執着するのではなく、本人が「何に貢献できるか」を共に探る対話が、組織の心理的安全性を高めるのではないでしょうか。電話が取れないという制約があっても、他の雑務を率先して引き受けることで周囲の負担を軽減し、信頼を築いた彼女の行動は、画一的な職務記述書を超えた貢献のあり方を示しています。こうした「小さな貢献」を正当に評価し、見守る文化を醸成したいところです。
また、彼女が母から受けた「便利グッズ」による支援は、現代の職場における合理的配慮の本質を突いています。物理的なツールや環境を整えることは、単なる甘やかしではなく、本人が本来持っているポテンシャルを発揮するための「土俵」を作ることだといえるでしょう。
「あきらめる」という言葉は、本来「明らかに極める」という語源を持つといわれます。できないことを明らかにし、受け入れた上で、今できることに全力を注ぐ。そのような個人の姿勢を支え、適切な役割を提案し続けることが、一人ひとりの「境涯」を活かす組織づくりの第一歩になると考えられます。誰もが自分の「道場」で輝けるような、寛容で創造的な環境を目指したいものです。
相撲部屋 親方とおかみの「幸せ道場」~〝千年分の苦労〟を引き受けて~ 常盤山太一さん(第十七代常盤山部屋師匠)、モリムラルミコさん(第十七代常盤山部屋おかみ)p46
大相撲の世界で、ひときわ深く、そして温かな足跡を刻んできた常盤山部屋。この三月に師匠としての停年を迎える第十七代常盤山親方(元小結・隆三杉)と、その傍らで「千年分」とも称される波瀾万丈な苦労を共に乗り越えてきたモリムラルミコおかみさんの対談は、単なる成功譚を超えた、深い人間愛と教育の哲学に満ちています。平成二十八年、五十五歳という決して早くはない年齢で千賀ノ浦部屋を引き継いでから今日に至るまでの十年間は、まさに「中身の濃い」激動の歳月でした。もともと自分が部屋を持つタイプではないと考えていた親方にとって、この歩みは予期せぬ運命の連続でしたが、いまその表情には、愛弟子たちが運んできてくれた幸せを噛み締める、穏やかで晴れやかな充実感が漂っています。
部屋の運営が始まって間もなく、親方とおかみさんは大きな決断を迫られました。それは、閉鎖の危機に瀕していた貴乃花部屋から、力士や裏方さんたち全員を引き受けるということでした。一門の垣根を超えたこの異例の移籍は、世間の注目を浴びる一方で、親方の肩に重い責任を負わせることになります。しかし、親方の根底にあったのは「この子たちの行き場がなくなるのは可哀そうだ」という、極めて純粋で慈悲深い想いでした。「どの子も我が子」という信念を掲げ、血の繋がらない弟子たちを自らの子供として受け入れる覚悟を決めたのです。それは、かつて自身が「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花の下で、厳しくも情の深い指導を受けた経験が、時代を超えて受け継がれた瞬間でもあったといえるでしょう。
しかし、その先に待っていたのは、想像を絶する試練の連続でした。引き取った弟子たちによる暴力問題、そして新しく創設したばかりの部屋を揺るがした薬物事件。特に薬物事件の際は、解雇という最も重い処分に加え、親方自身も二階級降格という厳しい処罰を受けることとなりました。一睡もできない夜を過ごし、まさに断崖絶壁の突端に立たされるような絶望感の中で、おかみさんは自らに一つの決め事を課しました。それは「親方と一日一回、絶対に笑う」ということでした。食卓を囲み、他愛もない話をして無理にでも笑う。笑うことができれば、「まだ頑張れる」と思える。どん底の時ほど笑うことを手放さないその姿勢が、暗闇に沈みかけた部屋に再び光を灯したのです。おかみさんは、部屋の運営には直接携わらない曖昧な立場ながら、トイレ掃除を「健康祈願」の荒行として一心不乱に行い、言葉の力を信じて弟子たちに励ましのメールを送り続けました。その姿は、まさに「千年分の苦労」を引き受ける、覚悟に満ちたものでした。
こうした苦難の中で、弟子たちの成長が何よりの支えとなりました。なかでも、大関として四度の幕内優勝を果たした貴景勝(現・湊川親方)や、関脇まで昇進した隆の勝の活躍は、親方とおかみさんにとって「神様からのご褒美」のような喜びでした。貴景勝は優勝直後のインタビューで、自分が苦しい時でも懐で守ってくれた師匠とおかみさんへの感謝を口にしています。その素直な心こそが、彼を強くした大きな要因でした。親方は「見る」ことから教育が始まると説きます。弟子をよく見ているからこそ、彼らの心の機微に触れる言葉を投げかけることができる。足音一つで誰が帰ってきたかを当てるほどの深い関心と愛情が、一人ひとりの可能性を開花させていったのです。
常盤山部屋の壁には、事件を経て新たに作られた「部屋訓」が掲げられています。その第一項目は「嘘をつかない」です。過ちを犯した弟子が最後まで嘘をつき通した悲しみから生まれたこの教えは、人として最も大切にすべき誠実さの象徴です。今いる場所に感謝し、限りある時間を大切にする。仲間を想い、相撲道に精進する。当たり前のようでいて、最も実践が難しいこれらの言葉を、弟子たちは毎日の稽古の終わりに唱え続けてきました。試練は、自分たちを苦しめるためだけにあるのではなく、自分たちを磨き上げるための「道場」であったと、いま二人は振り返ります。
「是の処即ち是れ道場」という道元禅師の言葉の通り、置かれた場所をどう捉えるかで人生は大きく変わります。たとえそこが地獄のような過酷な環境であっても、一つひとつの稽古を積み上げ、周囲への感謝を忘れなければ、そこは「幸せ道場」へと姿を変えるのです。三月にバトンを渡す後継者の貴景勝もまた、この精神を受け継いでいくことでしょう。自らの責任を放棄せず、全体の幸せを願うことで、自らもまた宝石のような幸せの中に辿り着く。常盤山部屋が十年の歳月をかけて証明したその哲学は、困難に直面するすべての人々に、明日を生きる勇気と希望を与えてくれるはずです。
人事の視点からの考察
組織を支える一人として、この常盤山部屋の歩みから学ぶべきことは少なくありません。特に、個々の特性を深く「見る」ことから始める教育の姿勢は、対話の質を高めるための一手として大いに参考にしたいところです。相手を型にはめるのではなく、まずはその存在をありのままに受け入れ、理解しようと努める。その継続的な関心の積み重ねこそが、信頼関係という強固な土台を築くのだと考えられます。
また、危機に直面した際、あえて「笑う」ことで心の余裕を取り戻そうとしたおかみさんの姿勢は、心理的安全性を維持するための極めて高度な振る舞いといえるでしょう。深刻な状況であればあるほど、リーダー層が自然体でいること、そしてユーモアを忘れないことが、メンバーの不安を和らげ、前向きな行動を引き出すきっかけになるのかもしれません。
さらに、「嘘をつかない」という至極シンプルな規範を最優先に置くことは、組織の透明性を保つ上で非常に重要です。完璧さを求めるあまり、失敗や弱音を隠してしまう文化ではなく、誠実であることを何よりも尊ぶ文化を醸成していきたいものです。一人ひとりが「今居る場所に感謝する」気持ちを持てるよう、まずは私たち自身が現場の声を丁寧に拾い、それぞれの活躍を喜び合えるような、温かな居場所づくりに努めてまいりたいと思います。
倒れても、また歩き出せる 小池由久さん(日本経営ホールディングス名誉会長)、京谷忠幸さん(シンク・アイ ホールディングスCEO)p56
幾多の試練に直面しながらも、七転八起の精神で絶望の淵から立ち上がってきた二人の経営者がいます。
一人は、九歳で父を、十六歳で母を亡くすという波瀾万丈な少年時代を送りながら、裸一貫で創業した会社を百億円規模へと導いたシンク・アイホールディングスCEOの京谷忠幸氏。
もう一人は、病の苦悩を抱えながらも日本を代表する会計事務所グループを築き上げ、介護や薬局事業へと多角化を成し遂げた日本経営ホールディングス名誉会長の小池由久氏です。二人の歩みには、困難を糧にして自らの運命を力強く開いていく、人生と仕事の神髄が凝縮されています。
京谷氏の半生は、まさに試練の連続でした。父の死後、母は女手一つで兄弟を育てるために昼夜を問わず働き続けましたが、その母も京谷氏が高校一年の時にがんでこの世を去りました。残されたのは多額の借金と、信頼していた大人に裏切られたという深い絶望でした。一時は荒んだ生活に身を投じたこともありましたが、任侠の世界を垣間見た際、「このままでは人生が終わる」と背筋が凍るような思いをしたといいます。そこで京谷氏が取った行動は、亡き両親のルーツを訪ね歩くことでした。両親の知人たちから「よく働く、人を裏切らない人だった」という話を聞く中で、姿は消えても魂は人の心に残ることを悟り、正々堂々と生きることを誓ったのです。
この「正直に生きる」という姿勢は、経営者となってからも京谷氏を支え続けました。二十八歳で起業した後、ITバブルの崩壊やリーマン・ショックという荒波に飲み込まれ、売上が激減し、毎月多額の赤字を出す危機にも直面しました。しかし、リストラという安易な道を選ばず、自らが人の二倍働くことで会社を守り抜きました。さらに、商社からメーカーへと脱皮を図るため、五十代で博士号を取得するなど、飽くなき探究心で「ナノテクノロジー」という最先端領域を切り拓いてきました。六十歳で膵臓がんという大病を患った際も、その経験を「人は役割に生き、感謝して死ぬ」という気づきへと昇華させ、後進の育成に命を捧げる決意を固めています。
一方で、小池氏もまた、中学一年で発症したてんかんという持病と向き合い続けてきました。発作への不安から車の免許も持てないという葛藤を抱えながらも、その不自由さを「入念な準備」や「自分に負けない性根」を養うための試練として受け止めてきました。就職した会計事務所では、先輩たちが次々と独立していく中で「この事務所を日本一にしよう」と決意し、あえて資格を取らないことで経営に専念する道を選びました。その非凡な決断の裏には、創業者への恩義と、お客様のために会社を大きくしなければならないという強い使命感がありました。
小池氏の経営者としての真骨頂は、絶体絶命の窮地での振る舞いにあります。社長就任直後に発生した税務調査による多額の賠償問題では、法的責任はなくとも「道徳的責任がある」と断じ、三億五千万円もの金額を十年の歳月をかけて弁償し続けました。また、介護事業で起きた虐待認定やスタッフの大量離職、利用者の転落事故という三重苦に見舞われた際も、自らの傲慢さを省み、毎晩深夜に缶コーヒーを持って現場の施設を回り続けました。最初は拒絶されながらも、半年かけて従業員と心を通わせた執念が、現在のグループの発展を支える礎となっています。
両氏に共通しているのは、稲盛和夫氏の教えを心の支えとし、「誰にも負けない努力」を積み重ねてきた点です。京谷氏は、挫折で出遅れた分を熱意で取り戻せると信じ、小池氏は「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」の方程式を従業員一人ひとりと共有してきました。彼らにとって、人生の山も谷もすべては自己を磨くための「道場」であり、起こりうるすべての出来事に意味を見出してきたのです。
「倒れても、また歩き出せる。すべての挑戦は、次の挑戦への贈り物である」。この言葉は、単なる精神論ではなく、生死の境を彷徨い、倒産の危機を乗り越えてきた者だけが到達できる真理といえるでしょう。試練を成長の機会と捉え、良知に従って公明正大に歩み続ける二人の姿は、混迷を極める現代社会において、私たちがどう生き、どう働くべきかという問いに対して、力強い答えを示してくれています。
人事の視点から:個人のレジリエンスと組織の成長を繋ぐ一手
お二人の壮絶な体験談を拝読し、個人の「生き方」や「人格」が、いかに組織の命運を左右するかを改めて痛感いたしました。人事という立場からこの学びをどう活かしていくかを考えたとき、単なるスキルや実績の評価を超えた、人の「根っこ」の部分に寄り添うことの大切さが見えてきます。
まず、京谷氏が両親のルーツを辿ることで自らの指針を見出したように、社員一人ひとりが持つ「働く動機」や「人生の背景」を尊重する風土を醸成したいところです。キャリア開発において、目標管理といった外面的な数字だけでなく、その人が何を大切にして生きているのかという内面的な物語を共有できる場を持つことは、組織への深い帰属意識と困難に負けない強さを生む一手になり得ると考えられるからです。
また、小池氏が危機の中で見せた「現場に足を運び、対話を続ける」という姿勢は、心理的安全性を高めるための究極の解といえるでしょう。制度や仕組みを整えることはもちろん重要ですが、混乱の最中にこそ、対等な目線で対話を重ね、誠実に向き合う。こうした「逃げない姿勢」を人事が率先して示していくことが、結果として従業員との信頼関係を再構築し、組織の再生を促すことに繋がるのではないでしょうか。
さらに、試練を「成長の贈り物」と捉える考え方を、研修や組織開発のプログラムに織り込んでいきたいものです。失敗を単なるマイナスとせず、そこから何を学び、次へどう活かすかを問い直す「人間学」の視点を取り入れることで、困難を乗り越える力、すなわち組織としてのレジリエンスを高めることができるといえるでしょう。
個人の試練を組織の知恵へと昇華させ、誰もが「倒れてもまた歩き出せる」と信じられる環境を整えること。そうした一人ひとりの輝きを支える黒子としての役割を、これからも大切にしていきたいと感じております。
誠心誠意 井上和幸さん(清水建設会長)p86
清水建設会長の井上和幸氏は、1804年創業の老舗ゼネコンにおいて45年のキャリアを歩んできました。その歩みは「誠心誠意」という言葉に集約されますが、それは単なるスローガンではなく、幼少期の両親の教えや、新人時代の厳しい現場経験、そして社長就任直後の組織の危機を乗り越える中で磨き上げられた、揺るぎない信念です。技術者として出発し、営業や経営の荒波を経験した井上氏が、渋沢栄一の「論語と算盤」を指針に掲げ、いかにして社員一人ひとりの心に届く経営を追求してきたのか。その軌跡には、変化の激しい現代において、ものづくりの原点を見つめ直し、新たな価値を創造するための普遍的なヒントが詰まっているといえるでしょう。
「何をやるのでも、中途半端はいけないよ。自分が納得するまで、一所懸命やりなさい」という両親の教えは、井上氏の人生の土台となりました。税理士の父を持ちながらも、図画工作への愛着から建設の道を選び、早稲田大学大学院を経て清水建設の門を叩いたのは、同社の堅実な経営姿勢に惹かれたからだといいます。入社1年目、横浜の施工現場で味わった感動と衝撃が、その後の職業倫理を決定づけました。ようやく完成し、足場を解体して姿を現した建物が、西日に照らされた瞬間に外壁が波打って見えたのです。それを見た上司の一喝と、一切の妥協を許さずにやり直しを命じた峻烈な姿勢。この経験こそが、品質に対して臆病なほど謙虚になり、誠実にやり抜くという、清水建設に脈々と流れる「ものづくりの矜持」を井上氏の胸に深く刻み込むことになったのです。
現場技術者として21年のキャリアを積み、工事長として現場に寝泊まりするほど仕事に没頭していた45歳の時、突然の営業への異動という転機が訪れました。それまで「技術者」として顧客と向き合っていた立場から一転、名刺すら受け取ってもらえないような営業の厳しさに直面します。しかし、ここで腐ることなく足を運び続けたことで、井上氏は「技術的な知見を持つ営業」という独自の価値に気づかされます。顧客の悩みに対して技術者の視点から即座に的確な回答ができる強みは、後に支店長や社長を務める上での大きな支えとなりました。「人が道をつくり広めるのであり、道が人をつくり広めるのではない」という『論語』の言葉通り、意に沿わない環境であっても自らの力で道を切り拓く重要性を、身をもって学んだのです。
2016年に社長に就任した直後、井上氏はリニア中央新幹線の談合事案という大きな試練に直面しました。過去の経験から対策を徹底してきたはずの組織で、なぜ過ちが繰り返されたのか。その問いに対し、井上氏は「最後は個人の心次第である」という結論に至りました。規則や研修の強化だけでは限界があると考え、社員一人ひとりの心に深く届く指針として、同社の恩人である渋沢栄一の「論語と算盤」を社是に格上げしたのです。道徳と経済は一体であるという教えを、単なる知識ではなく全社員の「揺るぎない指針」とするため、自ら小冊子を監修して配布するなど、目に見える形での意識改革を推進してきました。こうした誠実な姿勢こそが、1万人を超える巨大組織に新たな息吹を吹き込む原動力となったのです。
現在、AIの進化が企業の在り方を問う時代において、井上氏は「超建設」というマインドセットを掲げています。これは、単にお客様の要望(wants)に応えるだけでなく、その根底にある真の目的(needs)を掘り下げて新しい価値を提供することを目指すものです。青森から旧渋沢邸を移築して開設された「温故創新の森 NOVARE」は、まさにその象徴といえます。50年、100年先を見据え、伝統を重んじながらも進取の精神を持って新たな価値を洞察できる人財を育てること。井上氏が心血を注いできた「誠心誠意」の精神は、これからの時代を生き抜くための最も強固な基盤として、次世代へと引き継がれていくに違いありません。
人事の視点からの学び
組織において、一人ひとりが自律的に高い倫理観を持ち、自らの仕事を「自分事」として捉える文化を育むことは、持続的な成長に不可欠な一手だと考えられます。井上氏が経験した「外壁の波打ち」に対する厳しい指摘のように、現場での実体験を通じて得られる「妥協しない姿勢」を、いかにして若手層へ継承していくかが重要でしょう。単にマニュアルを整備するだけでなく、心に響く言葉や象徴的なエピソードを共有し、組織のDNAを血肉化させるための環境づくりに注力したいところです。
また、本人の意向とは異なる異動であっても、そこで得られる多角的な視点が、将来的に「独自の強み」へと昇華される可能性を提示し続けることも大切です。専門性を深めるだけでなく、異なる職域での経験がどうキャリアに寄与するかを、中長期的な視点で見守る姿勢が求められます。
最終的に組織の質を決めるのは個人の心であるという信念に基づき、理念を形骸化させず、日々の判断基準にまで落とし込んでいく工夫が考えられるでしょう。社会の変化に合わせて「超建設」のような新しい価値観を提示しつつ、その根底にある誠実さを失わないよう、人財育成の拠点を軸にした息の長い取り組みを続けていきたいものです。
『致知』2026年3月号は現在講読中ですので、更新していきます。
