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なぜ、パフォーマンスの高い社員は運動を欠かさないのか? 哲学から学ぶ、心と体を最適化する人事戦略ー日経ビジネス記事より

 小川仁志氏の記事『哲学から学ぶビジネス思考力 仕事の疲れ、癒やしたいなら運動せよ 思考は活性化し哲学的にもオススメ』(日経ビジネス電子版、2025年8月18日)を拝読しました。

 近年、ビジネスの世界では「健康経営」という言葉が浸透し、従業員の心身の健康を経営課題として捉える企業が増えています。福利厚生としてジムの費用を補助したり、社内にトレーニングスペースを設けたりする動きは、もはや珍しいものではなくなりました。欧米のビジネスパーソンが出社前にジムで汗を流す姿は以前から知られていましたが、日本でも同様のライフスタイルが広がりつつあります。

 この記事では、こうした潮流を単なる健康志向ブームとして捉えるのではなく、哲学的な観点からその深い意味と価値を解き明かしています。著者は、ビジネスパーソンが運動に取り組むことは、個人の健康維持にとどまらず、思考を活性化させ、ひいては幸福な人生を送る上でも極めて重要であると主張します。本稿では、ヘーゲル、西田幾多郎、アダム・サンデルという3人の哲学者の思想を紐解きながら、運動が私たちの仕事や人生にどのような豊かさをもたらすのかを考察していきます。

労働と運動の本質的な違い:ヘーゲルが説く「自然との一体化」

 まず、著者が注目するのは近代ドイツの哲学者ヘーゲルの思想です。ヘーゲルは、労働と運動の本質は異なると指摘しました。彼によれば、労働とは、人間が自然を克服し、自らの目的を達成しようとする「闘い」の側面を持ちます。そこでは、納期や成果といった目標達成のために「必死」にならざるを得ず、時には自身の健康やプライベートといった他の要素を犠牲にしてしまうことも少なくありません。これは、自然か自分か、という二者択一の緊張関係にあると言えます。

 一方、運動は、自然を克服するのではなく、「自然と自分を一体化させる営み」であるとヘーゲルは捉えました。例えば、ランニングをしている時、私たちは風の抵抗を感じ、地面の起伏を足で捉え、自らの呼吸のリズムを整えようとします。そこにあるのは自然との対立ではなく、調和です。この営みには、労働における「必死さ」とは質の異なる、「高度な真剣さ」が求められます。真剣に自分の身体と向き合い、周囲の環境とリズムを合わせることで、初めて怪我を防ぎ、運動の効果を最大限に引き出すことができます。

 仕事で一方的にエネルギーを消耗し、心身のバランスを崩しがちな現代人にとって、運動は、この「自然との一体化」を通じて、人間本来の調和を取り戻すための重要な営みとなり得るのです。それは、仕事のストレスによって生じた心身の歪みをリセットし、再び健全な状態へと導くための、積極的な自己調整のプロセスと言えるでしょう。

身体を動かすことが思考を拓く:西田幾多郎の「行為的直観」

 次に、著者は日本の哲学者、西田幾多郎の「行為的直観」という概念に光を当てます。これは、行為(体を動かすこと)と思考(直観)は分離したものではなく、一体であるという考え方です。私たちはつい、思考とはデスクに座って頭だけで行うものだと考えがちです。しかし、西田は、世界を外から客観的に眺めるだけでなく、自らがその世界の中に入り込み、身体を通じて対象と関わる動的な思考態度こそが重要だと説きました。彼自身が京都の「哲学の道」を散策しながら思索を深めたというエピソードは、この思想を象徴しています。

 この「行為的直観」の考え方は、私たちの日常経験にも通じるところがあります。例えば、企画に行き詰まった時に散歩をしたら良いアイデアが浮かんだ、ジョギング中に複雑な問題の解決策が閃いた、という経験を持つ人は少なくないでしょう。これは、体を動かすことで脳が活性化され、固定観念から解放されるためだと考えられます。

 ビジネスの現場で上司が部下に「とにかく手を動かせ」と指示することがありますが、これも単なる精神論ではなく、西田哲学の観点から見れば一理あると言えます。手を動かし、試作品を作ったり、顧客の元へ足を運んだりする中で、頭の中だけでは見えてこなかった課題や新たな可能性が直観的に理解できることがあります。

 したがって、ビジネスパーソンが日常的に運動をすることは、単なるリフレッシュにとどまらず、創造性や問題解決能力を高めるための思考トレーニングとしても極めて有効なのです。運動後の頭がスッキリとした状態で、新しいアイデアが次々と湧き出てくる感覚は、まさに「行為的直観」がもたらす恩恵と言えるでしょう。

幸福はプロセスの先にある:アダム・サンデルの「活動するための哲学」

 最後に、著者はハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデル教授の息子であり、自身も哲学者かつ懸垂のギネス世界記録を持つアスリートであるアダム・サンデルの哲学を紹介します。彼は、現代人が陥りがちな「目標達成至上主義」に警鐘を鳴らします。目標を掲げること自体は悪くありませんが、それがあまりに強すぎると、目標に至るまでのプロセスが単なる苦痛な手段となってしまい、心が満たされない状態に陥ると指摘します。

 サンデルが提唱するのは、目標達成そのものではなく、「目標に向かって進む道のり(プロセス)」で培われる「美徳」こそが重要だという考え方です。彼は、自身の専門である懸垂運動を例に、3つの美徳を挙げます。

 一つ目は「自己統御」。トレーニングにおける怪我を乗り越えたり、できない自分を受け入れたりする中で、精神的な強さが養われます。

 二つ目は「友情」。共にトレーニングに励むパートナーとの関わりを通じて、協力や競争、相互理解の大切さを学びます。

 三つ目は「自然との触れ合い」。懸垂においては、常に存在する重力という自然の法則と向き合い、それとどう関わるかを身体で学んでいきます。

 これらの美徳を意識しながら活動に没頭することで、私たちは結果だけでなく、プロセスそのものから深い満足感と幸福感を得ることができるのです。これは、ヘーゲルの言う「高度な真剣さ」を持って運動に取り組む姿勢とも重なります。

 仕事においても、成果や目標達成だけを追い求めると、日々の業務が色あせて見え、燃え尽きてしまう危険性があります。しかし、運動を通じてプロセスの中に価値を見出す訓練を積むことで、仕事においても日々の努力や仲間との協働、困難の克服といったプロセスそのものを楽しみ、そこに満足感を見出すことができるようになるかもしれません。

 このように、運動は、仕事の疲れを癒やすだけでなく、私たちの思考を活性化させ、さらには幸福な人生観をもたらす可能性を秘めています。著者は、休息こそが疲れを癒すという旧来の考え方を問い直し、むしろ積極的な運動こそが、ストレスフルな現代社会を生きるビジネスパーソンにとって不可欠な処方箋であると結論づけています。

企業人事の視点から、この記事をどう活かすか

 この記事は、企業にとっても、単なる「健康経営」のアイデア集にとどまらない、極めて重要な示唆を与えてくれます。これまで多くの企業が取り組んできた健康増進施策は、どちらかといえば「対症療法」的なアプローチが中心でした。健康診断の受診率向上、メタボ対策、長時間労働の是正など、これらはもちろん重要ですが、いわばマイナスをゼロに近づけるための取り組みです。

 しかし、この記事が提示する哲学的な視点は、運動を「マイナスをゼロにする」だけでなく、「ゼロからプラスを生み出す」ための能動的な活動として捉え直すことを可能にします。それは、社員の心身のコンディションを整えるだけに留まらず、創造性、エンゲージメント、そして幸福感といった、企業の持続的成長に不可欠な無形の資本を育むための、いわば組織のウェルビーイングを司る「OS(オペレーティングシステム)」そのものをアップデートするような、根源的なアプローチです。人事として、この視点を取り入れ、施策を再構築していくことが必要でしょう。

「健康経営」の再定義:コストから「知的資本」への投資へ

 ヘーゲルの哲学は、私たちが福利厚生として提供している運動機会の意味を再定義するヒントを与えてくれます。これまで、ジムの費用補助や社内フィットネス設備の設置は、社員の離職防止や採用力強化のための「コスト」として認識されがちでした。しかし、ヘーゲルの視点を借りれば、これらは社員が仕事という「闘い」のモードから離れ、心身のバランスを取り戻す「自然との調和」の時間を提供する、極めて重要な「投資」であると位置づけることができます。

 人事としては、この哲学的背景を社内に積極的に発信していくべきです。ただ「健康のために運動しましょう」と呼びかけるのではなく、「仕事で張り詰めた心と体をリセットし、自分本来のバランスを取り戻すために、会社として運動の機会を支援します」というメッセージを伝えるのです。これにより、社員は運動を「やらされ感」のあるタスクではなく、自分を大切にするための権利として捉えるようになります。

 また、この視点は、特に精神的な負荷が高い職種や、常に高いパフォーマンスを求められるリーダー層のメンタルヘルス対策としても有効です。彼らが意図的に「闘い」の場から離れ、「真剣さ」をもって運動に取り組む時間を確保できるよう、業務量の調整やカルチャーの醸成を支援することは、燃え尽き症候群を防ぎ、長期的な活躍を促す上で不可欠な人事の役割となるでしょう。

人材開発・組織開発への展開:「行為的直観」が育むイノベーションの土壌

 西田幾多郎の「行為的直観」は、人材開発や組織開発のプログラムに新たな切り口をもたらします。私たちは研修というと、会議室に集まって座学でインプットし、グループディスカッションでアウトプットするという形式を思い浮かべがちです。しかし、「行為=直観」であるならば、もっと身体性を伴うプログラムを積極的に導入すべきです。

 例えば、新しい事業アイデアを考えるブレインストーミングを、会議室ではなく、緑の多い公園を散歩しながら行う「ウォーキングミーティング」形式で実施してみてはどうでしょうか。環境を変え、体を動かすことで、固定観念から解放された斬新なアイデアが生まれやすくなる可能性があります。実際に、シリコンバレーの企業などでは、こうした形式のミーティングが積極的に取り入れられています。

 また、チームビルディング研修においても、単に懇親会を開くだけでなく、全員でスポーツに取り組んだり、アウトドアでアクティビティを行ったりする方が、より効果的かもしれません。身体を動かしながら協力し合う経験は、座学では得られない一体感や相互理解を育みます。特にリモートワークが普及し、オンライン上のコミュニケーションが中心となる中で、意識的にこうした「身体性を伴う共体験」の機会を創出することは、組織の一体感を維持・向上させる上でますます重要になるでしょう。

 人事部門としても、こうした「行為的直観」を促す仕掛けを、研修プログラムや日常の働き方のガイドラインの中に組み込んでいくことで、組織全体の創造性や問題解決能力の向上に貢献できるはずです。

エンゲージメント向上と組織文化の醸成:「活動の哲学」を実装する

 アダム・サンデル氏の哲学は、成果主義や目標管理制度(MBO)の運用を見直す上で、非常に重要な視座を提供してくれます。もちろん、企業である以上、成果や目標達成は重要です。しかし、それが行き過ぎると、社員は結果ばかりを気にしてプロセスを楽しめなくなり、仕事へのモチベーションや満足度が低下してしまいます。これがエンゲージメント低下の大きな要因の一つです。

 サンデル氏の言う「プロセスで培われる美徳」を組織文化に実装することが、これからの人事の課題です。例えば、目標設定の面談(1on1)において、結果の達成度だけでなく、「その目標に取り組む過程で、どのような困難を乗り越えたか(自己統御)」「誰と協力し、どのような学びがあったか(友情)」「どのような新しい挑戦をしたか(自然との触れ合いと解釈できる)」といった、プロセスの価値を問いかけ、評価する仕組みを導入することが考えられます。

 また、社内のサークル活動や部活動を積極的に支援することも、この哲学の実践と言えます。そこでは、仕事上の役職や役割を離れ、純粋に活動そのものを楽しみ、仲間との交流を深めることができます。こうした活動を通じて得られる満足感や連帯感は、社員のエンゲージメントを高め、組織への帰属意識を育む上で計り知れない価値を持ちます。人事としては、活動費用の補助だけでなく、活動の成果発表会や社内報での紹介などを通じて、プロセスを楽しむ文化を称賛し、全社に広めていく役割を担うべきです。

 仕事の疲れを癒し、エンゲージメントを高めるのは、豪華な福利厚生や高い報酬だけではありません。日々の活動のプロセスそのものに価値を見出し、没頭できるような環境と文化を整えることこそが、社員の幸福感と企業の持続的成長を両立させる鍵となるのです。この記事は、そのための具体的なアクションを考える上で、哲学という揺るぎない羅針盤を与えてくれると言えるでしょう。


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