【書籍】効率化の先にあるもの『答えを急がない勇気』が示す、AI時代に人事が育むべき「人間らしい能力」
枝廣淳子著『答えを急がない勇気 ネガティブ・ケイパビリティのススメ』(イースト・プレス、2023年)を拝読しました。
現代は「VUCAの時代」と呼ばれ、不安定・不確実・複雑・不明瞭な状況が続いています。このような時代背景から、私たちの社会はかつてないほど「素早さ」「問題解決」「わかりやすさ」を重視するようになりました。
効率を求め、物事を単純化し、すぐに「答え」に飛びつく。この傾向は「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉に象徴されています。このような時代に重宝されるのが、情報を収集し、分析し、計画を立て、実行する能力、すなわち「ポジティブ・ケイパビリティ(問題解決能力)」です。
私たちは幼少期から「早くしなさい」と急かされ、学校でも職場でも、いかに素早く正解にたどり着くかを問われ続けます。まさに「生まれてから死ぬまでポジティブ・ケイパビリティ」の時代といえます。
しかし、このポジティブ・ケイパビリティだけでは、従来の前提が通用しない複雑な問題や、そもそも「答えのない問題」には対処できません。対症療法や部分最適に陥り、かえって問題を悪化させる危険性すらあります。
ネガティブ・ケイパビリティとは何か:「しないでおく」能力
そこで本書が提示するのが、もう一つの大事な能力、「ネガティブ・ケイパビリティ」です。
この概念は、19世紀のイギリスの詩人ジョン・キーツが提唱し、後に精神分析医のウィルフレッド・ビオンが再発見しました。キーツは、シェイクスピアのような偉大な仕事(創造)を成し遂げる人物の特質として、この能力を挙げました。
ネガティブ・ケイパビリティとは、「不確実さとか不可解さとか疑惑の中にあっても、事実や理由を求めていらいらすることが少しもなくていられる状態」を指します。
もっと平易に言えば、「わからない」という状態のまま、不安や焦りに耐え、性急な判断や結論に飛びつかずに「しないでおく」能力です。
例えば、友人から複雑な悩み相談を受けた時、居心地の悪さから「こうすればいいよ」と安易なアドバイスをしてしまうのは、ネガティブ・ケイパビリティが発揮されていない状態です。逆に、結論を急がず、相手の行ったり来たりする話に寄り添い、「待つ」ことができるのが、この能力が発揮されている状態です。
ポジティブ・ケイパビリティとの関係性:車の両輪としての二つの能力
ネガティブ・ケイパビリティは、単なる「優柔不断」や「思考停止」とは異なります。それは、新しい思考や認識が出現するのを「待つ」ために、意思と目的を持って立ち止まる勇気です。
本書は、ポジティブ・ケイパビリティとネガティブ・ケイパビリティを「車の両輪」に例えます。アクセル(ポジティブ)だけでは暴走してしまい、ブレーキ(ネガティブ)だけでは前に進めません。
私たちが「わかっている」領域の中だけで考えても、新しい発想は生まれません。「わかっていること」と「わかっていないこと」の狭間(エッジ)で辛抱強く吟味するネガティブ・ケイパビリティがあってこそ、新たな洞察が生まれ、その洞察をポジティブ・ケイパビリティによって具体化できるのです。
「わからない」不安を受け容れる:「散らす」衝動と「器」の重要性
私たちが「わからない」状態に耐えられないのには理由があります。本書では、ネガティブ・ケイパビリティを理解する上で重要な二つのキーワードが紹介されています。
一つは「散らすこと(dispersal)」です。「わからない」ことから生じる不安や居心地の悪さに耐えられず、そこから逃避するために、安易な結論に飛びついたり、気を紛らわせたり、誰かのせいにしたりする防衛的な行動を指します。
もう一つは「器(containment)」です。不安やモヤモヤを「散らす」のではなく、それらを「受け容れる」ための心理的な器を持つことです。「受け入れる(同意する)」のではなく、ただ「ああ、自分は不安なんだな」と、その感情を否定せずにそのまま保持することです。この「器」の大きさこそが、ネガティブ・ケイパビリティの大きさとも言えます。
ネガティブ・ケイパビリティがもたらすもの:AI時代に必要な「人間らしい力」
ネガティブ・ケイパビリティを高めることで、私たちは「ありたい自分」に近づき、他者の言葉を決めつけずに聴くことで深く共感し、寛容になることができます。そして、安易な答えに飛びつかないことで、物事の本質により深く近づいていけます。
特に、AI(人工知能)の時代において、この能力の価値は一層高まります。「情報を収集する」「分析する」といったポジティブ・ケイパビリティの多くはAIに代替される可能性があります。しかし、理解や判断をあえて「しないで置いておく」ネガティブ・ケイパビリティは、AIには持ちえません。
他者への共感や支援といった「社会的知性」や、既存の枠組みを疑う「創造性」は、コンピュータ化が最も困難な領域であり、これらはすべてネガティブ・ケイパビリティに支えられています。
能力を高めるために:日常生活で意識すべきこと
この能力は生まれつきのものではなく、意識して学ぶ(鍛える)ことができると本書は説きます。
日常生活の中では、「ペースを落とす」「間(ま)を意識する」「違和感・不快さを感じたら立ち止まる」「自然に触れる」「美術や文学に親しむ」といったことが訓練になります。
また、「ひとりブレスト(判断せずアイデアを出す)」「ひとりディベート(あえて反対の立場から考える)」「システム思考(目先のできごとでなく構造を考える)」「瞑想(判断せずにあるがままを観る)」といったツールも有効です。
他者との関わりにおける実践:人を「育てる」のではなく「待つ」姿勢
この能力は、他者を育成する場面でも極めて重要です。特に子育てにおいて、大人は「早くしなさい」とポジティブ・ケイパビリティを押し付けがちです。
しかし、子どもは本来、時間を忘れて熱中するなど、豊かなネガティブ・ケイパビリティを持っています。大人がすべきことは、子どもの「育つ」力(自動詞)を信じ、大人の都合で「育てる」(他動詞)のではなく、発酵を「待つ」姿勢を持つことです。この「待つ」という大人のネガティブ・ケイパビリティが、子どものレジリエンス(しなやかに立ち直る力)を育みます。
VUCA時代のリーダーシップ:組織における「立ち止まる」仕組み
この「待つ」姿勢は、ビジネスにおける人材育成やリーダーシップにも共通します。VUCA時代のリーダーに求められるのは、「すべてを知っている」強いリーダーではなく、「完璧ではないこと」「わからないこと」を受け容れられるリーダーです。
本書で紹介される「タイレノール危機」の事例では、当時のCEOが「原因不明」という不確実性の中で、拙速な犯人捜しや責任逃れ(=散らすこと)をせず、顧客最優先という理念に基づき全品回収という判断を下しました。これは、ネガティブ・ケイパビリティとポジティブ・ケイパビリティを見事に両立させた創造的リーダーシップの好例です。
組織としても、あえて反対意見を述べる「ネガティブ・チーム」を設置したり、未来予測を一つに絞らない「シナリオ・プランニング」を導入したりするなど、「ちょっと待てよ」と立ち止まる仕組み(ネガティブ・ケイパビリティ発揮装置)を組み込むことが重要です。
おわりに:本当に大事なものを見失わないために
本書は、東洋思想の叡智、例えば老子の「無為(何もしないことに全力を傾注する)」や、沢庵禅師の「心の置き所(何にもとらわれない)」とも、ネガティブ・ケイパビリティは通底していると指摘します。
ネガティブ・ケイパビリティは、目に見える幹や花(ポジティブ・ケイパビリティ)を支える、目に見えない「根」のようなものです。スピードと効率がすべてを支配するように見える現代だからこそ、この「根」を育み、「留まる」勇気を持つことが、本当に大事なものを見失わない「人間らしい生き方」につながるのだと、本書は力強く説いています。

人事の視点から、本書をどう活かすか
本書を拝読し、私たちが日々直面している「人」と「組織」の課題の多くが、まさにこのネガティブ・ケイパビリティの欠如、あるいはポジティブ・ケイパビリティへの過度な偏重によって引き起こされているのではないかと、深く考えさせられました。
人事部門は、経営目標達成のために「効率化」「最適化」(ポジティブ)を推進する役割と同時に、「人の感情」「組織風土」といった「答えのない、わからないもの」(ネガティブ)を扱う役割を併せ持っています。
人事視点から、この「ネガティブ・ケイパビリティ」を組織に実装するための具体的な活用法を考察します。
1. 【採用】「即戦力」の呪縛から逃れ、「曖昧耐性」を持つ人材を見極める
現代の採用活動は、「即戦力」という名のポジティブ・ケイパビリティ偏重に陥りがちです。「課題解決能力」「実行力」は確かに重要ですが、それだけではVUCAの時代を乗り切れません。
本書の概念を採用に活かすとは、「曖昧耐性」や「傾聴力」といったネガティブ・ケイパビリティを新たな評価軸に据えることです。
面接の場面で、単に「成功体験(=答えが出た話)」を聞くだけでなく、以下のような問いが有効でしょう。
「これまでで最も『答えが出ない』と感じた困難な状況はどのようなものでしたか?」
「その時、結論が出ないことに焦りを感じたと思いますが、どのように向き合い、行動しましたか?」
「あなたの意見と全く異なるメンバーと協働しなければならなかった時、まず何をしましたか?」
ここで見るべきは、彼らが「散らす」行動(他者を非難する、途中で投げ出す、無理やり結論を出す)をとったのか、それとも「器」として機能し、状況や他者の意見を受け容れ、粘り強く本質を探ろうとしたのか、という点です。
2. 【人材育成】「解決力」研修から「傾聴・内省」研修へ
多くの企業研修は、「ロジカルシンキング」「問題解決」(ポジティブ)に偏っています。しかし、本当に必要なのは、その手前で立ち止まる力です。
ネガティブ・ケイパビリティを養う研修プログラムを意図的に導入するのも一手でしょう。
傾聴・対話(ダイアログ)研修
多くの管理職は、部下の相談に対し、ポジティブ・ケイパビリティを発揮してすぐに「解決策(アドバイス)」を与えてしまいます。そうではなく、判断やアドバイスを「保留(サスペンド)」し、相手の言葉や沈黙を「器」として「受け容れる」訓練が必要です。内省(リフレクション)研修
「やりっぱなし」を防ぎ、経験から学ぶ力を養います。本書でも紹介されている「推論のはしご」を使い、自分がなぜその結論に達したのか、どのような思い込み(メンタルモデル)に囚われていたのかを客観視する訓練は、ネガティブ・ケイパビリティの核となります。システム思考研修
目の前の「できごと」(例:売上減少)に反応して対症療法(例:檄を飛ばす)に走るのではなく、「ちょっと待てよ」と立ち止まり、その背景にある「構造」を考える思考法です。これは組織におけるネガティブ・ケイパビリティの実践的なツールとなります。
3. 【リーダーシップ】「答えを待つ」リーダーが、部下の「育つ」力を引き出す
人事として、VUCA時代の新しいリーダー像を組織に提示する必要があります。それは、何でも知っている「強いリーダー」から、「わからない」と認められるリーダー、「完璧ではないこと」を受け容れられるリーダーへの転換です。
本書が「子育て」を「育てる(他動詞)」から「育つ(自動詞)」のを「待つ」姿勢へと転換すべきと説いたように、人材育成も同じです。
1on1ミーティングの質の転換
1on1を、進捗確認や課題解決(ポジティブ)の場から、部下のモヤモヤや不安、葛藤を「散らさず」に聴く(ネガティブ)の場へと再定義します。リーダーが「器」となることで、部下は安心して内省でき、自分で答えを見出す力(=ネガティブ・ケイパビリティ)を育んでいきます。コーチング文化の醸成
ティーチング(答えを与える)からコーチング(答えを引き出すのを待つ)への移行は、まさに組織的なネガティブ・ケイパビリティの推進です。リーダーが「待つ」スキルを持つことは、部下の主体性を育む上で不可欠です。
4. 【組織開発】「わからない」と言える心理的安全な「器」をつくる
個人の能力開発だけでは不十分です。ネガティブ・ケイパビリティが発揮されるためには、それを受け止める組織的な「器」=心理的安全性が不可欠です。
「わからない」と言うことが許されず、「早く答えを出せ」という圧力(=散らす圧力)が強い職場では、誰も立ち止まろうとしません。
人事部門は、この心理的な「器」を醸成するために、以下の「ネガティブ・ケイパビリティ発揮装置」を組織に組み込むことを主導できます。
「結論を出さない会議」の意図的な設定
すべての会議が意思決定(ポジティブ)を目指す必要はありません。「ブレスト」「対話」など、あえて「結論を保留」し、多様な視点を「受け容れる」ことだけを目的とした場を設けます。「ネガティブ・チーム」の導入
本書で紹介されている、あえて主流派の意見に「ちょっと待てよ」と異議を唱える役割のチーム(または「陰の理事会」)を設けることで、組織の「散らす」衝動を制度的に抑制し、思考の多様性を確保します。
おわりに:ポジティブとネガティブの「両利き」の組織を目指して
人事部門は、とかく効率化や最適化というポジティブ・ケイパビリティの要請に追われがちです。しかし、組織の持続的な成長、イノベーション、そして何よりも働く人々の「人間らしい」あり方を守るためには、ネガティブ・ケイパビリティの視点が不可欠です。
短期的な成果(ポジティブ)を追求する力と、答えのない複雑性(ネガティブ)に耐え、本質を探究する力。この「両利き」の組織文化を育むことこそ、VUCA時代を乗り越えるための人事戦略の一つであると感じました。

