「相談してよかった」と社員が思える職場にしなければならないーハラスメント対応を"リスク管理"から"企業価値創造"に変える人事戦略ー日経トップリーダー記事より考察する
日経トップリーダー 2025年6月号所収の記事「困った社員の事件簿 ハラスメント対応 起きてからでは遅い」(島田直行氏)を拝読しました。
現代の企業経営において、ハラスメント問題への対応は、その企業の姿勢が問われる極めて重要な経営課題です。特に、社員が勇気を出して被害を相談したにもかかわらず、企業が「軽く注意した」「気にするな」といった不誠実な対応で済ませてしまうケースは、深刻な事態を招きかねません。このような対応は、被害者に「相談しても無駄だった」という深い失望感を与え、精神的な不調や職場への不信感といった「二次被害」を生み出します。二次被害は、当事者の退職に留まらず、労災申請や訴訟へと発展する可能性を秘めています。

さらに、「この会社は守ってくれない」という認識が他の社員にも広がれば、職場全体の士気は低下し、組織の生産性にも悪影響を及ぼします。SNSの普及した現代では、こうした企業の不適切な対応が瞬く間に外部へ拡散し、企業のブランドイメージを著しく損ない、採用活動にも深刻な打撃を与えるリスクがあることを、経営者は強く認識する必要があります。
「備え」の重要性:なぜ事前準備が不可欠なのか
ハラスメント対応の理想と現実には、しばしばギャップが存在します。例えば、中小企業においては、被害者から「加害者と同じ空間では働きたくない」と訴えられても、人員の制約から配置転換が容易ではないという現実があります。結果として、被害者が我慢を強いられるか、退職を選ばざるを得ない状況に追い込まれることも少なくありません。だからこそ、問題が実際に発生する「前」の備えが決定的に重要になるのです。
多くの企業では、ハラスメント防止研修の実施や相談窓口の設置といった対策を講じていますが、残念ながらそれだけでは不十分です。制度を設けるだけでなく、その制度が有事の際に確実に機能するための「実行力」と「判断力」こそが真に問われています。形骸化した研修や、誰も利用しない相談窓口では意味がありません。「いざというときに、誰が、どのように動くのか」という具体的な運用ルールと、それを担う人材の育成が不可欠なのです。

実効性を高める具体的な打ち手
では、実効性のある「備え」とは具体的にどのようなものでしょうか。記事では、三つの有効な打ち手が示されています。
第一に、初動対応の要となる管理職への実践的な教育訓練です。単なる知識のインプットに留まらず、部下から相談を受けた際の具体的な対応方法を体験的に学ぶロールプレイング研修などが効果的です。「とりあえず黙っていてほしい」といった不適切な初期対応を防ぎ、パニックにならず冷静に対処できるスキルを養います。
第二に、ハラスメントが発覚した場合の処分方針をあらかじめ明確に定め、社内に明示することです。「どのような行為が、どの程度の懲戒処分に該当するのか」を具体的に示すことで、会社としての毅然とした姿勢を全社員に伝え、強力な抑止力となります。また、実際に処分を下す際の客観的な根拠ともなり、公平な判断を助けます。
第三に、社内の人間関係に配慮して相談しづらい社員のために、外部の弁護士や社会保険労務士と連携した「第三者相談窓口」を設置することです。これにより、社員は安心して悩みを打ち明けられるようになり、問題の早期発見と解決につながります。

信頼を築く誠実な姿勢こそが企業の礎
ハラスメントの問題を完全にゼロにすることは、現実的には困難かもしれません。しかし、問題が発生したときに企業がどう向き合い、どのような対応をとるかによって、社員からの信頼は大きく左右されます。社員が安心して働ける心理的安全性の高い環境は、個々のパフォーマンスを最大化させ、定着率や生産性の向上に直結します。これは、最終的に企業の競争力を高めることにもつながるのです。
ハラスメント対応は、単なるリスク管理のための消極的な義務ではなく、より良い組織文化を醸成し、持続的な成長を遂げるための積極的な投資と捉えるべきです。一つ一つの事案に誠実に向き合う姿勢こそが、社員との信頼関係を築き、企業の社会的評価を支える揺るぎない礎となるのです。
企業人事の視点から:ハラスメント対策を経営戦略に昇華させるために
この記事は、ハラスメント対応における「事前準備」と「誠実な実行」の重要性を明確に示しており、企業人事の担当者として、自社の取り組みを改めて見直す多くの示唆を得ました。人事部門としては、ハラスメント対策を単なる「守りのコンプライアンス活動」と捉えるのではなく、社員のエンゲージメントと組織の生産性を向上させる「攻めの経営戦略」の一環として位置づけ、主導していく必要があります。以下に、記事の内容を人事の実務にどう活かしていくか、具体的な視点を考察します。
1. 研修の再設計:「知っている」から「できる」への転換
多くの企業でハラスメント研修は実施されていますが、その多くがeラーニングや座学形式に留まり、「知識のインプット」で終わってしまっているのが実情ではないでしょうか。記事が指摘するように、真に重要なのは「いざというときの判断力と実行力」です。これを養うためには、研修プログラムの抜本的な見直しが不可欠です。
具体的には、「体験型研修」の導入を強力に推進すべきです。特に、初動対応を担う管理職向けには、以下のようなロールプレイングが有効です。
シナリオ1:部下からの相談受付
被害を訴える部下役に対し、管理職役が傾聴し、共感を示し、次のステップを具体的に説明する。プライバシー保護の重要性や、安易な同調・否定をしないといった注意点を実践的に学びます。シナリオ2:加害者とされる社員へのヒアリング
高圧的になったり、逆に及び腰になったりせず、中立的な立場で冷静に事実確認を進めるスキルを訓練します。予断を持たずに双方の言い分を聞く姿勢の重要性を体感させます。シナリオ3:人事部への報告・連携
どのような情報を、どのタイミングで、どのように人事部に報告・相談すべきかをシミュレーションします。自己判断で抱え込ませないための連携プロセスを体に覚えさせます。
これらの研修は、弁護士や社会保険労務士といった外部の専門家をファシリテーターとして招き、実践的なフィードバックを得ることで、さらに効果を高めることができます。研修のゴールを「テストで100点を取ること」から、「有事の際に適切に行動できること」へと再設定し、知識レベルから行動レベルへの昇華を目指すことが、人事部門の重要な役割です。
2. 規律の可視化:就業規則と懲戒処分の戦略的運用
記事で提言されている「処分方針の明示」は、組織の規律と公平性を担保する上で極めて重要です。人事としては、これをさらに一歩進め、就業規則と懲戒処分を戦略的に運用していく視点が求められます。
まず、自社の就業規則におけるハラスメント関連規定を見直し、現代の状況に合わせてアップデートする必要があります。セクシュアルハラスメントやパワーハラスメントだけでなく、マタニティハラスメント、SOGIハラスメントなど、多様なハラスメントを禁止行為として具体的に列挙します。そして、それぞれの行為に対して、どのような懲戒処分(譴責、減給、出勤停止、諭旨解雇、懲戒解雇など)が科されうるのか、その基準を明確に規定します。
重要なのは、この規定を「可視化」し、全社員に「周知徹底」することです。入社時研修での説明はもちろんのこと、社内ポータルサイトへの常時掲示、半期に一度の全社メールでのリマインド、管理職研修での再確認など、あらゆる機会を通じて繰り返し発信します。これにより、「知らなかった」という言い訳を許さない環境を作り上げます。
この取り組みは、単に社員を罰するためではありません。会社がハラスメントを絶対に許さないという「毅然とした姿勢」を明確に示すことで、潜在的な加害者への強力な抑止力となります。同時に、被害者や周囲の社員に対しては、「この会社は本気で取り組んでいる。何かあってもきちんと対応してくれる」という安心感と信頼を醸成する効果があります。公平かつ透明性の高いルールの運用こそが、健全な職場秩序の基盤となるのです。
3. 相談体制の複線化と機能強化:心理的安全性の最後の砦
社員が安心して相談できる体制の構築は、問題の早期発見・早期解決の生命線です。記事が指摘するように、直属の上司や人事部だけでは相談しづらいケースも多々あります。そこで、相談ルートを「複線化」し、社員が自分にとって最も話しやすい窓口を選べる環境を整備することが不可欠です。
具体的には、以下のような多層的な相談体制を構築します。
ラインケアの強化
直属の管理職が第一の相談窓口として機能できるよう、前述の体験型研修を通じてスキルアップを図ります。人事部相談窓口
人事部門に専門の担当者を配置し、守秘義務を徹底した上で、全社的な視点から対応します。ハラスメント相談員制度
人事部以外の部署から、人望が厚く、傾聴力のある社員を相談員として任命し、身近な相談相手としての役割を担ってもらいます。外部相談窓口(EAPなど)
記事でも推奨されている通り、提携する弁護士、社会保険労務士、あるいはEAP(従業員支援プログラム)サービス機関による第三者窓口を設置します。社内の人間には話しにくい内容も、完全な外部の専門家になら安心して相談できるというメリットは絶大です。
さらに重要なのは、これらの窓口の担当者の「機能強化」です。相談を受ける側にも専門的なスキルが求められます。傾聴のトレーニング、関連法規の知識アップデート、二次被害を防ぐための適切な言葉選びなど、定期的な研修を実施し、相談対応の質を担保し続ける努力が必要です。相談者が「勇気を出して話してよかった」と思えるような、温かく、かつプロフェッショナルな対応ができる体制を築くことこそ、人事部門が主導すべき心理的安全性の砦作りなのです。
まとめ:ハラスメント対策を「企業文化」へと昇華させる
ハラスメント対策は、もはや単発の施策や規則で対応できる問題ではありません。それは、企業の価値観そのものであり、「企業文化」として組織の隅々にまで浸透させるべきものです。人事部門は、経営層に対して、ハラスメント対策にかかる費用が単なる「コスト」ではなく、社員の定着率向上、生産性向上、企業ブランドの維持・向上に資する未来への「投資」であることを、具体的なデータや事例をもって説得していく責務があります。
今回拝読した記事が示すように、「問題をゼロにする」ことは難しいかもしれません。しかし、問題とどう向き合うかという「誠実な姿勢」は、必ず社員に伝わります。人事部門がハブとなり、研修、制度、相談体制といったハードの側面と、信頼、安心、毅然とした態度といったソフトの側面を両輪で回していくこと。それこそが、すべての社員が尊厳をもって安心して働ける職場環境を実現し、企業の持続的な成長を支える原動力となるに違いありません。

