【愛でも喰らえ】#33 「ひとつ血の 胸くれなゐの 春のいのち」
「ーわかりました」
黒木は携帯を切り、鞄から書類を取り出し紺野の前に差し出した。
離婚届、という文字を見た途端紺野は息を呑んだ。
「藤岡先生は離婚を希望しておられます。又、今後は先生との連絡は私を通して行われることとなります」
「えっ……!」
紺野は身を乗り出した。
「ちょっと、待って下さい。突然すぎます。紅緒さんはそれでいいと言っているんですか?彼女の体調は誰が見るんですか?」
「藤岡先生が望まれているのです。もう二度と顔を合わせないと。先生の体調は私をはじめ、医療スタッフが全力でサポートします。家のことは有能な家政婦を雇うことに致しました。ご自宅の紺野さんのお荷物は、私か成田にお伝えくだされば、業者に依頼して送付先にお送りいたします」
「そんな……そんな急に…………紅緒さんとはもう会えないのですか?」
「頭が追いつかないのはとても分かります。ですがこの一年、先生は非常に悩まれました。悩んだ末、もっとも皆が健やかになれる決断をとられたのです」
「どうか先生の気持ちをお察し下さい。……長年心から信頼してきた伴侶に裏切られる喪失感を」
「……………………」
そうだ。裏切ったのは自分だ。何も言えまい。
しかしこんなに突然に終わるとは。今まで培ってきた安心は何だったのだと呆然としつつも、堂々巡ってその安寧を破った張本人は自分だと思い知りこの世に生まれてから最も強力な嫌悪感を自身に抱いた。
机に目を落とし、まだ心が受け入れられない紺野の前に、黒木は小さな乳白色の別珍ケースを差し出した。
「先生から、お返しします、とのことです」
紺野はケースを開けた。
それは二十二年前に紅緒に贈った結婚指輪だった。
まだ入社したばかりの若手社員だった史緒は、とても高額なものには手が出せず悩んでいた時、紅緒がペアで一万五千円のものを選んで決めたものだ。
史緒の頭にシュトルムの「みずうみ」の一説が走った。
ー『あなたはもう二度といらっしゃらないのね』とついに彼女は言った。『わたしにはわかっていますわ。嘘はおっしゃらないでください。あなたはもう、二度といらっしゃらないのね。』ー
主人公の初恋の女性エリザーベトは、紅緒によく似ていた。
「ひとつ先生から言伝がございます。『お義母様のバラの株は分けるので、新居でも育ててほしい。残りのバラは、大切に管理する』とのことです」
庭のバラは、紺野の母親が育てていたものを引き継いだものだった。
守るべき小さなお嬢さんと思って結婚した相手は、いつしか自分と同じ位置に並び、知らぬ間にひと巡りもふた巡りも追い越していた。
随分前から目が合っていないことはわかっていた。自分は同じ方向をみていたつもりだったが、向きを変えたのは史緒の方だった。この時になって妻の方向へ振り返っても誰もいないことがわかった。
もう二度と見ることが出来ない愛しい夢を幾度も反芻するように、窒息するほどの狂おしさが喉に込み上げてきた。
男は目を閉じて、涙をこらえた。
「ーそれで、あんたはんにお願いしたいことがあるんや」
神妙な面持ちで、紅緒は詩乃に語った。
「これでほとんどの問題はカタがついた。最後に一つ、どうしても詩乃さんの協力なしでは成り立たんことがある」
「なんでしょうか……?」
「紺野の立場や」
「あれは、紺野は、二十年以上うちを献身的に支えてきてくれた。その恩義は絶対に忘れん。うちから紺野にしてやれることは、今回の件で社会的制裁を受けんようにしてやることや」
不貞の果てに男女が罵詈雑言を受ける日本では、当事者は犯罪者と同じように見下される。紅緒の懸念はとてもわかった。
「はい。私で出来ることでしたら、何でも」
「紺野のキャリアは、あれが努力して一から積み上げてきたもんや。それを崩したくはない。わかるかな」
「はい」
「それでな、紺野の周辺や会社関係はこちらでどうにかする。離れたこともうちが少しづつ伝えてゆけばいい。ただ、問題は素人じゃ。素人に足を救われるとどないもならん。それであんたはんにお願いしたいんじゃ」
「紺野の前妻がうちということは口外せずにしてくれへんか。誰かは適当に答えてくれて構わん。うちの名前は出さんといて欲しいんじゃ」
「はい」
「あんたはんのご両親にも、ご家族にも、誰にも秘密で通せるか?」
「はい。お約束いたします」
絶対だ。詩乃は紅緒の瞳をみて応えた。
紅緒は一息入れた。
「ありがとう。これで一安心かな」
「お茶、飲み」と勧められ、詩乃は静かに啜った。
ちょうど肌と同じ温度だった。
紅緒は振り返るように語った。
「……十年以上前かな、紺野は会社を辞めてうちのマネージャーになろうとしとった」
「ほなけどまだ作家として完全には保証できん状態やったし、うちも長生きできるとは思えんかった。身体が健康な間は自立して勤め続けるようお願いしたんよ」
紺野をみていると、昔の「絶倫」という言葉がしっくりくる。
世界中に読者がいる作家を支える体力と器量を持つだけでも大変なのに、雑誌という船の舵取りも担っているのだ。プレッシャーは相当だと思う。
「ほんまは、もちろん支えて欲しい気持ちはあった。あれも、会社とうちの世話で随分苦しいと思った。幾分かでも楽にできたら、と悩んだわ。ほやけど無理にでも突っぱねてよかった。今、あの時の強がりは間違いではなかったと思える」
「………………」
二人の間で、どれほどの長い労りが繰り返されたのか、詩乃には計り知れない。夫婦にしかわからない暗号や空気、間や呼吸は積年の特別な功だ。その濃密なはざまに自分が入る隙はないと思った。
「紺野はうちには戻らんようにしてある。図体はデカいけど、気は弱い男じゃ。あんたが強う出て幸せにしてほしい。よろしゅう頼みます」
立って去ろうとした紅緒に、詩乃は思い切って引き止めた。
「あの…………」
「先生は本当にそれでいいんですか?…………本当に、これで、いいんでしょうか?」
紅緒は笑った。
「紺野はあんたを好いとるんじゃ」
「あれは一番若くて気力も未来も未知数だった時期を全て投げ打って、うちに注いでくれた。それが紺野にとって幸せだったかはわからん。うちとおる限り、お嬢を心配する母親役を続けるやろう。紺野を愛しとるのは変わらん。あれが心から幸せになれるように動いただけじゃ」
「…………だから、後生じゃ。もうお互いがお互いを偽ることはやめてくれ。こんなことをして、おまはんらが最も失うもんは、何やと思う?」
「…………信頼でしょうか」
紅緒は首を振った。
「誇りじゃ。どうか二人健やかに長う生きておくれ。お天道さんのもとで堂々とな」
詩乃は深く頭を下げた。
この存在には一生超えられない。
藤岡紅緒には、敵わない。
詩乃が紅緒の立場なら、愛する男を奪った相手と冷静に話すことなど出来ないし、長い年月をともに過ごしたのなら、よけいに青二才なぞに譲ることなどできない。激しさは表面的なもので、この人の真の像は空観ではないだろうか。
静かに、跡形もなく天女は立ち去った。
しん、とした和室に詩乃一人きりが残された。
頭を上げると、先ほどのことが嘘だったかのように和部屋の変わらぬ光景が広がった。
ほのやかな甘子色の玉響な照明をぼんやり眺めていると、こらえていた疲労感が一気に押し寄せた。頭がガンガンと痛む。
今日は朝から消化しきれない喧騒ばかりだ。
まず心身を落ち着かせようと詩乃は布団にばふん、と倒れた。
あともう一息で眠りに落ちそうな時だった。
「コンコン」という堅い音が聞こえた。
暫く目を閉じていると、やはり「コンコン」と聞こえる。
詩乃は半開きの瞼で重い身体を起こして、「はい?」と戸口へと向かった。
「私です」
ハッとして扉を開けた。
肩を落とし憔悴しきった、居処のない大型犬のような瞳の紺野がいた。
今までみたどの紺野より頼りなかった。
「皆は帰りました…………全て区切りをつけました」
ボロボロになった男をみて、詩乃の瞳からぼたぼたと大粒の雫が溢れた。
「…………あなた、馬鹿ですよ…………」
そう呟くとすぐに目の前の情けない男を力強く抱きしめた。
渾身の力で抱いた。
「ええ、大馬鹿者です。ついでにいうと、家もありません。マンションが見つかるまで、しばらく身を寄せてもいいですか?」
「……あんなところで良ければどうぞ。事故物件ですが」
「ええっ」
たじろく様子に詩乃は思わず笑った。
それでも涙が絶え間なく流れた。自分だって子供のようであった。
男は詩乃の背中を優しく抱き寄せた。泣きしゃっくりをあげる詩乃を落ち着かせるように、囁いた。
「…………私はこのように、とても臆病で狡くて弱い人間です。けれど後悔はしていません」
紺野の鼓動が、詩乃に伝わってきた。
生き物が息づく、生温かい響きを詩乃は嗅いだ。
「あなたが好きです。詩乃さん。愛しています」
(次回)
(マガジン)
