【愛でも喰らえ】#32 「われと燃え 情火環に 身を捲きぬ」
二時間ほど車を走らせ、詩乃が降りたところは都外の山深いホテルだった。雪が積もり、東京とは別世界の白銀の風情を醸していた。
ホテルのすぐ側は岩壁の川が寒々しく流れ山裾には線路が通っている。
十七時頃になるとすでに辺りは暗く、東京より一層肌寒い。
ここまで運転してくれた黒木という女性も降り、「こちらです」とホテルへと促した。
二時間前ー
黒木は名刺を詩乃に丁寧に差し出した。
「藤岡紅緒の使いで参りました。あなたと紺野さんの関係について、藤岡がお尋ねしたいことがあるそうです。一緒に来て頂けますか?」
ばれた…………!
青い顔で硬直した詩乃をみて、黒木は優しく声をかけた。
「お苦しい気持ちはわかります……ですが、藤岡は話し合いを望んでおります。ご帯同願えませんか?」
詩乃は腹を括った。
ばれてしまった以上、自分には妻である紅緒に頭を下げる義務がある。
身の危険も感じたが、チャップリンと乙女さんのご飯を念の為用意するのを待ってくれた黒木の雰囲気から堅気であると察知したし、自分が犯した行動の責任を取るという想いで車に同乗したのだ。
黒木がチェックインを済ましている間、詩乃は豪奢な広いフロアを眺めた。
中央にパイプオルガンが設置され、ガラス張りのエレベーターが聳え立つ。まるでバブル期にタイムスリップしたかのような華やかさだ。
「こちらです」
黒木に促されて十四階ゆきのエレベーターに乗った。
ガラスからは入り口からお客が入っている様子がみえる。
十四階につき廊下を歩くと、1407の番号の扉の前で黒木は携帯で「今部屋の前に着きました」と伝えた。
そしてドアを開けた。
詩乃が部屋に入ると、温かい焚き火色の照明がいくつかあつらわれ、檜机がある和室の奥に長い窓が広がっていた。その前の藤椅子に男女が向かい合わせで座っている。一瞬長年連れ添った老夫婦のように感じた。
史緒と藤岡紅緒だった。
男は詩乃の方に顔を向けると、哀しい瞳のままみた。
詩乃も男の気持ちを十分察し頭を下げた。
一人、また若い女性が入ってきた。黒木と話している。スタッフだろうか。
「揃ったな」
場を制圧するような低い声で藤岡紅緒が言った。
立ち上がってゆっくりと紅緒は詩乃を見た。
詩乃はぞくり、と鳥肌が立った。
藤岡紅緒だ。
想像よりずっと小さかった。
顔も小さく、喪服から人形のような白い肌が覗き、瞳はどこまでも黒かった。どこかこの世のものではない異界から舞い降りたかのような特殊な存在感だ。現代人というより写真でみる幕末や明治期の厳かさを持った佇まいでじいっと詩乃を見つめ続けた。
一秒が一時間のように長く感じた。
紅緒の大きく吸い込まれるような瞳は詩乃を捉えて離さず、まるで見ぐるみ剥がされ、心の奥底まで暴かれているかのようだ。
詩乃は緊張で呼吸が荒くなってきた。
「北川詩乃はん、いいましたな」
やっと口を開いた紅緒に、どっと背中に汗をかきながら詩乃は緩んだ。
「はい…………」
「うちの旦那はんと、通じ合っていたことは間違いないかな」
若い女性が「中をご確認下さい」と茶色い封筒を差し出した。
詩乃は書類と写真をみて、息を呑んだ。寒水を背中から浴びせられたような衝撃を受けた。
ー調査報告書ー
そこには詩乃と紺野が二人で写っている写真が数多く印刷されていた。
お花見の時、乙女さんを抱いているスーツ姿の紺野さんと隣にいる自分。
GWで、自宅の前でレンタカーから降りる自分と、荷物を運ぶ紺野さん。
夏休み中、近所を乙女さんのお散歩する二人。
北千住のパン屋さんに入る瞬間。
自宅へ二人で帰ってゆく後ろ姿。
自宅の玄関から朝出かける紺野さん。
二人でレンタカーに乗る瞬間。
あの時、あの時。あの時。
自分たちが密やかに積み上げてきた逢瀬が、まるで道化芝居のように欺かれ晒されているかのような羞恥心が襲った。
「この写真に写っとる女性はあんたはん、ってことで間違いはないか?」
静かな低い声で紅緒は詩乃に確認をとった。
「はい…………」
紅緒は詩乃の瞳をまた探るようにじいっと見た。
「人の旦那に手を出したってことは、相応の覚悟があるってこっちゃな?」
その時、紺野が椅子から立ち上がった。
「紅緒さん、彼女は既婚者だと知って線を引こうとしました。すべて私が悪いんです。あの時……」
言い終わらぬ前に紅緒は紺野の元に勢いよく詰め寄った。
力の限り彼の左の頬を平手打ちした。
「裏切りもんが口出すなッ!!二人して羽化登仙の極致に陥ったかッ!」
場が凍りつく間も無く、今度は彼の右頬を勢いよく打った。
「やめて下さい!」
詩乃は紺野の前に座り、頭を突っ伏して土下座をした。
「私の責任です!私が言い寄りました。お願いします、私を殴って……」
「じゃかあしいわッ!!」
紅緒は詩乃の肩をむんずと掴み、放り投げた。
鬼の面で牙を剥いた。
「土下座して、もう終わりましたからって何事もないようにできるかッ
お前が言える立場かっ!この盗人めがッ!!」
すぐさま、先ほどの二発以上の力で紺野の頬を打った。
何も抵抗しない紺野の胸ぐらを掴み、にゅっと顔を接近させた。
そして、口をつけた。
目の前の二人の光景に、詩乃の視界は歪んだ。
生々しい言い争いの只中なのに、二人の接吻は浄化した天使のようだった。
そっと離した後、井戸の奥のような底のない眼差しで男の目を射た。
「今度、裏切ったらあんたを呪う」
二人は時が止まったかのように見つめ合った。
「刺す。ええか、覚えとけよ」
紺野にとっては、弱腕の紅緒のビンタなど受け身より柔らかいものだった。しかし、彼女がここまで憎しみをあらわにした表情を見たのは初めてだった。
まだ学生の時分に初めて出会った頃は、自身の身体の不調と孤独感を律しきれなかった紅緒はいつも不機嫌で、そのとばっちりは側にいた紺野が受ける羽目にあった。
八つ当たりも随分されたが、顔を張られたことはない。
彼にとって繊細で気高く、もう成人もすぐなのにガラスの心そのままの十四歳の敏感さを保ち続けていた小さく恐ろしいほど賢い女性は、どこか畏怖する存在であり孤独であり守るべき対象となった。
小説を書くようになって、紅緒は自身がこれまで耐え続けていた肺気腫という宿痾への憤りや、どうやっても周囲と同等に馴染めない物悲しさを受け入れるようになり、どんどん成長し安定してきた。
紺野はすぐ目の前にある人間を通り越した黒い瞳をみつめた。
そして、彼女の言葉どおり、うなづいた。
紅緒はふ、と目を外して、
「隣に部屋をとってある。あんたはんは行ってくれ。黒木はん、お願いします」
はい、と受けた黒木は紺野に「こちらへ」と促し、もう一人の女性も出た。
隣部屋の1406号室に入り、黒木は座布団を机の前に置き、「どうぞ」と促した。
紺野は憔悴したため息をついて座ると、黒木が前に座った。
もう一人の助手がお茶を入れて二人の前に置いた。
「いつから…………?」
紺野の問いに、黒木は申し訳なさと呆れた複雑な表情でため息をついて微笑んだ。
「紺野さん、あなたは隙がありすぎです。ご自身が周囲から好感を持たれているのを、全くお気づきではない」
「は……?」
「きっかけは一昨年の十二月です。逸見社の側の喫茶店で私一人で仕事をしていた時です」
黒木は、黒衣のウェイトレス同士が後片付けをしながら談笑している会話を聞いてしまった。
「ねえねえ!今日きたよ!紺野さん」
「ええッ!うそ、見たかった〜」
「新しい携帯持ってた。なんか古い機種っぽかったけど、綺麗なショコラ色の革のケースだったー」
「プライベート用かなあ。恋人とか、いるよねえ」
心に引っかかった。
「ブック・オブ・ザ・イヤー」の受賞までは、紅緒と夫婦であることは口が堅い親密な者しか知らなかった。ウェイトレスや、受付、若手編集者は女っ気がなく指輪もしていない彼を狙っていた者もとても多かった。
そのような話を聞くたびに、念の為紅緒に伝えていたが、今回茶革のケースをつけた古い機種の携帯の存在は、黒木は紺野が持っているのを見たことがない。
携帯変えたんですね、と紅緒に尋ねると彼女も知らないと言う。
紅緒が知っている紺野の携帯はまず会社用携帯。
そして夫婦、家族、友人らとつながる個人携帯の二本である。
会社用携帯、個人携帯共に新型で一方は革、もう一方は木目調でいずれも黒色のカバーであった。
しかしウェイトレスは古い機種で、ショコラ色の革ケース、と言ってた。
三本目の携帯の存在は、紅緒には見つけられなかったし、探り出そうという気持ちにもなれなかった。
しかし、黒木に押されて興信所に依頼して、すぐに月に一度の頻度で会いに行く五反野に異性の存在がいるらしいという足が取れた。
紺野は愕然とした。
「ではこの一年ずっと紅緒さんは黙っていたんですか…………」
黒木は頷いた。
三本目の携帯は、詩乃と連絡するために持った。
会社と家では出さず念の為LINEは使用せずにSMSにし、通信通話履歴は消していたのだが。自分が及ばないところで跡がつくとは……隙が甘すぎた。
黒木は紺野に向かって語り始めた。
「……個人的な意見で恐縮ですが、私は紺野さんを責める権利はありません」
「…………」
「私も、同じ過ちを犯した人間です」
紺野は黒木を見た。
彼女のように、正義感が強く薄汚いことを嫌う女性は不貞などとは対極の位置にあると思っていたからだ。
「しかも、もっとタチが悪い。相手は妻子持ちでした」
「………………」
「お腹に子供を宿した時、別れを切り出されました。どうやっても相手の家族には敵わない。それでも生みたかった。もう同じ会社にいることは出来ず、退職して日本に帰国したのです」
「黒木さん……」
「切迫流産で絶対安静を言い渡され一人ぼっちで寝たきりだった時、藤岡紅緒の本を読み漁りました。救われたんです。主人公が絶望を受け入れる心の先に、自身が受けた絶望と同じ人物が現れる。主人公はその相手を命をかけてでも守り抜く葛藤や自己治癒力に」
「子供が生まれた時に、先生がマネージャーを探していることを知って、無理を承知で押しかけました。先生は私のワークライフバランスを汲み取ってくださり、子育てを優先して働けるようにしてくれました。子供が一番可愛い時期に十分に接していないと、後々必ず後悔するからと」
「子供を海外に連れて知見を増やすことも出来ましたし、大変な時は成田ちゃんにも助けられました。……今は本当に、これでよかったと思っているんです」
成田ちゃんと呼ばれたアシスタントの女性は恥ずかしそうに笑った。
「そうでしたか…………」
紺野は、黒木があえて自分の話をすることで落ち着かせようとしてくれているのではないか、と感じた。自身の苦しい過去を正直に話してくれた聡明さに、申し訳ない思いと共に改めて屈服した。
一方、1407号室には紅緒と詩乃だけが残された。
床に落ちて目を俯いたままの詩乃に、紅緒が膝まづいて手をとった。
「どついて悪かったな。怪我はしとらんか?」
「………………」
「喉乾いたやろ。お座り。お茶入れるわ」
紅緒は壁側にあるポットの湯で、緑茶を入れた。
和室の机の前に座った詩乃に、湯呑みを置くと、向かい側に慣れた所作で正座した。
「北川詩乃さん」
「……は、はい…………」
「いくつか聞きたいことがある。本心で教えて欲しい。正直に答えてくれるか?」
「はい…………」
「紺野からすでに聞いてある。あんたはんは、紺野のことをまだ好いとるのか?」
詩乃は紅緒を見た。
紅緒は先ほどと同じ瞳でじいっと詩乃を見ていた。
隠してはいけない、と思った。
「はい…………ごめんなさい…………」
詩乃はどうしようもなく、目を瞑って顔を俯けた。
「うん。ほな、次に質問じゃ。あんたは今作家として生計を立てとるんかな」
「はい……」
「福田喜子先生の賞も受賞された。これからが頑張りどころや」
「………………」
「ほな聞くが、もし小説と紺野、どちらかを取れ、と言われたらどっちを取る?」
詩乃は顔を上げた。
紅緒は詩乃を見つめたまま問いた。
「一つしか選べん。どちらを取る?」
「紺野さんです」
迷いはない。
詩乃の答えに暫く紅緒は見つめたあと、頷いた。
「うん……うん、わかった。よう、わかった」
「ところで、あんたはんは、健康体か?」
「あ……はい。昨年受けた健康診断と婦人科検診では異常はなにも」
「それはええな。年はおいくつだったかな」
「四十です」
「紺野と身体を通じて、嫌なことはないか?」
「えっ……」
どう答えて良いのか返答に困っていると、優しく紅緒は諭した。
「正直に教えてほしい。これはとても大事なことなんや」
全く奇妙なことだったが、紅緒の瞳に詩乃はなぜか心を預けたくなった。
「何も…………ありません。嫌なことは何も」
「…………うん、わかった」
紅緒は立って、携帯をかけた。
「黒木はん、そのまま進めて下さい」
(次回)
(マガジン)
