なぜ関西では納豆文化が根づかなかった?東西で違う食の歴史
前回の徳川家康と納豆についての記事では、
たくさんの方に読んでいただき、
「納豆ってやっぱり気になるテーマなんだな」と改めて感じました。
好きで毎日食べている方もいれば、健康を意識して食卓に取り入れている方も多いですよね。
手頃な価格で続けやすいのも、納豆の魅力だと思います。
もちろん、「ちょっと苦手…」という方がいらっしゃるのもよく分かります😊
実は、私は西日本の香川県出身です。
子どもの頃、納豆を食べる機会は学校給食くらいで、家の食卓に並ぶことはほとんどありませんでした。
初めて食べたときは、「なんだこれは…!」というのが正直な感想でしたね(笑)
でも、大人になって管理栄養士になってからは、納豆を食べる機会が自然と増えました。
今回は、気になって調べてみたらとても面白かった、東日本と西日本の納豆文化の違いについてお話ししていきたいと思います。
そこには単なる好き嫌いでは片付けられない、歴史や気候、食文化の違いがあり、「なるほど、そういう背景があったのか」と驚きました。
納豆が好きな方も、ちょっと苦手という方も、気軽に読んでいただけたら嬉しいです♪
気候の違いも大きかった?
昔は、発酵を今のように細かくコントロールすることができませんでした。
東日本と西日本では、気候の違いが納豆づくりにも影響したと考えられています。
東日本、とくに関東や東北の一部では、冬の低温環境を利用して納豆づくりが行われてきました。
そのため、大豆を稲わらに包んでおくと、納豆菌がゆっくり働きやすく、糸引き納豆ができやすい環境だったといわれています。
一方、西日本は冬でも比較的暖かく、湿度が高い地域が多くあります。
こうした気候の違いから、昔は温度や衛生環境を細かく管理することが難しく、地域によって納豆づくりの条件に違いがあり、糸引き納豆を安定して作るのが難しかったとも考えられています。
もちろん、納豆文化の違いは気候だけが理由ではありません。
関西ならではの食文化も、納豆の広まり方に影響したと考えられています。
納豆文化がなかったわけではなく、京都では徳川家康も好んだ、大徳寺納豆などの塩辛納豆が古くから親しまれていました。
つまり、関西の人にとって「納豆」といえば、糸を引くものではなく、塩味のある発酵食品だったということです。
そこへ東日本の糸引き納豆が入ってきても、なかなか受け入れられなかったのも自然な流れだったのかもしれません。
だし文化が育んだ味覚の違い
大きかったのが、東西の味覚の違いです。
関東では濃口醤油を使った、しっかりした味付けが親しまれてきました。
一方、関西では昆布だしを中心に、素材の風味を生かしたやさしい味わいが好まれてきました。
そのような食文化の中では、糸引き納豆の独特な香りや粘りは、関西の人には少し個性が強く感じられたのかもしれません。
実際に、だしの香りを大切にする食文化の中では、納豆の風味が好みに合いにくかったとも考えられています。
もちろん、関西の人がみんな納豆を苦手だったわけではありません。
ただ、その土地で育まれてきた味覚や食文化の違いが、糸引き納豆の広まり方にも影響した可能性があるということです。
江戸では朝になると納豆売りが町を歩き、できたての納豆を届けていました。
一方、関西には、この文化がほとんどありませんでした。
売っていないから食べない。
食べないから売られない。
そういった積み重ねも、東西の違いを大きくしたのでしょう。
魚文化も影響していた?
もう一つ考えられているのが、東西で食材を手に入れやすい環境が違っていたことです。
当時は、今のように物流が発達していませんでした。
東日本は、地域によっては魚を安定して手に入れることが難しく、大豆や豆類が貴重なたんぱく源として活用されてきました。
保存性にも優れた納豆は、日々の食卓を支える食材の一つだったのでしょう。
一方、西日本は海に面した地域が多く、さらに江戸時代には「天下の台所」と呼ばれた大阪を中心に、魚やさまざまな食材が集まる物流の拠点がありました。
魚からたんぱく質を摂る機会が比較的多く、納豆が日常食として広がる背景は東日本とは少し異なっていたのかもしれません。
東日本では大豆製品が、西日本では魚介類が、食文化を支える存在だったのでしょう。
それぞれの地域の環境が、食文化の違いを育んできたのだと思います。
実は、関西でも糸引き納豆は食べられていた?
ここまで読むと、
「昔から関西の人は糸引き納豆が苦手だったんだな」
と思いますよね。
でも、実はそうとも言い切れないんです。
江戸時代の初め頃には、京都や大阪でも糸引き納豆を使った「納豆汁」が食べられていたと伝えられています。
当時は、納豆をご飯にのせるのではなく、細かくたたいて味噌汁に溶かし、旨味を引き出す"調味料"のような存在でした。
まだ昆布やかつお節のだしが今ほど一般的ではなかった時代、納豆汁は手軽にコクを加えられる料理だったと考えられています。
茶人・千利休が茶会で振る舞ったという話も残っており、冬のごちそうとして楽しまれていたようです。
つまり当時は、納豆は庶民の朝ごはんというより、冬のごちそうとして楽しまれていた時代もあったということです。
その後も、温度管理が難しかったため、江戸時代中期まで、納豆は冬限定の食べ物でした。
そして、江戸では中期頃から技術が進み、夏でも「納豆売り」が年中売り歩くようになります。
東日本では納豆をご飯にのせて食べる文化が広まり、日常食として定着していきます。
一方、関西では冬の納豆文化がそのまま日常食として定着することはありませんでした。
江戸中期以降、カツオと昆布だしが庶民の家庭や飲食店にまで広く普及したことに加え、気候などの要因が重なり、関西では糸引き納豆が日常食として広く定着しにくかったと考えられています。
同じ納豆でも、時代と地域によって食べ方も役割も変わっていったんですね。
実は、関西や西日本で糸引き納豆が広く食べられるようになったのは、平成に入ってからともいわれています💡
では、長年親しまれなかった納豆は、どうやって関西の食卓に広まっていったのでしょうか。
メーカーの開発秘話もとても興味深かったので、近々、ご紹介したいと思います✨
まとめ
管理栄養士として感じるのは、「体に良い食べ物」は一つではなく、その土地で手に入る食材を生かしてきた背景があるということです。
東日本には納豆があり、西日本には魚やだし文化がありました。
どちらが正しいという話ではなく、それぞれの地域が育んできた知恵なんですね。
今では関西のスーパーにも納豆が当たり前に並んでいます。
でも、その当たり前の裏側には、何百年も受け継がれてきた食文化があります。
今日食べる納豆も、その長い歴史の中で受け継がれてきた食文化の一つです。
そんな背景に思いを巡らせながら味わうと、いつもの一パックも少し違って見えてくるかもしれませんね😊
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