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第二話ソファーの向こう側​── 傷を抱えたまま、生き直す

​【第2話:否定】── 泥舟の査問委員会と、光らない電球

​私の携帯電話は、夜中だろうが休日だろうが鳴り響く「いつ爆発するか分からない爆弾」だった。逃げ場なんてどこにもない泥舟の上で、私は死んだ魚の目をして漕ぎ続けていた。

​そんなある日、決定的な事件が起きた。私が目をかけていた若手社員が、過酷なシフトとプレッシャーに耐えかねて、勤務中に過労で倒れ、救急搬送されたのだ。

​会社は現場の責任者である私一人にすべての泥をかぶせようとした。本社の人事部長による、警察じみた冷徹な取り調べ。これまで家庭を犠牲にしてまで現場を守ってきた私を、組織は使い捨ての歯車のように扱った。

​「その役職の、役を演じろ」

​冷酷に私をガン詰めしてきた人事部長。当時は憎んでさえいたけれど、53歳になった今なら少しだけ分かる。彼もまた、会社という組織を守るために、あの冷酷な「悪役」を、自分の心を殺して必死に演じさせられていただけだったんだと。彼もまた、あの泥舟の中で必死に生きようとしていた、孤独な男だったのかもしれない。

​役割というお面を被り、自分の生身の心を消して生きる場所なんて、やっぱり何かが歪んでいる。

​私はお面を脱ぎ捨てて、この泥舟から降りる決意をした。長年、右腕として現場を支えてくれた後輩の佐藤が、ある朝、震える声で退職届を差し出してきた。白髪が増えた彼の目を見たとき、私は引き留める言葉を持たなかった。

​泥のように疲れ果ててアパートに帰り、あの20年物のソファーに倒れ込む。

天井を見つめながら、私は心の中で、自分のこれまでの半生を完全に否定していた。

「俺の50年の人生は、一体何だったんだ。ただ消費され、捨てられただけじゃないか」

​その時だった。

「──ふん、相変わらず情けない面(つら)をしとるな」

​暗闇の中から、パチパチと機械がショートしたような火花が散り、どこか懐かしいオイルと鉄の匂いが漂ってきた。

​驚いて顔を上げると、ソファーの向かい側に、油にまみれた作業着を着て、白髪を爆発させた老人が座っていた。その手には、不格好に配線がむき出しになった、一本の試作電球が握られている。

​かつて私が若い頃、現場で寝泊まりしながら「伝説の鬼工場長」と呼ばれ、数々の製品を生み出してきた、あの懐かしい背中──。現場の人間からは畏敬を込めて「ドク」と呼ばれていた、叩き上げの老技術者の幻影だった。

​「ドク……? 私を笑いに来たのか。見ての通りだ。私は会社のためにすべてを捧げて、最後は犯人扱いされて追い出される。私のやってきた努力は、全部『失敗』だったんだ」

​自嘲気味に吐き捨てた私を見て、ドクはフッと鼻で笑った。

​「失敗? 違うな。それはただの『実験データ』だ」

「……実験データ?」

​「そうだ。俺たちが新しい機械や製品を一つ世に出すために、どれだけの試作を重ねて、どれだけの不良品を出してきたか忘れたか? 周りはそれを『何千回もの失敗』と呼ぶが、俺は一度だって失敗したなどと思ったことはない。なぜなら、『この設計では動かない』『この素材では壊れる』という、価値あるデータを何千通りも見つけたからだ。物作りも人生も同じだ。不良品を出さなきゃ、正解にはたどり着けねえんだよ。

​お前たちの世代は、実にもどかしい時代を生き抜いてきたな。若い頃は上からのパワハラに耐え、いざ自分が教える番になれば、今度は手のひらを返したように『コンプライアンス』だと若手に腫れ物のように気を遣わされる。それだけじゃない。必死に身体に叩き込んできたアナログな職人技を、ある日突然『デジタル』という大波でやり直しさせられた。目まぐるしく変わる時代のルールに、置いていかれないよう必死にしがみついてきたはずだ。

​だがな、タカ。その激変する時代の狭間で、上と下の理不尽な板挟みに耐え、周囲の顔色や機嫌を最速で察知してきたお前たちには、生き残るために極限まで磨き上げられた、とてつもない『場の空気を調整する力』が備わっている。相手の痛みを一瞬で汲み取り、現場のズレを調律するその大人の気配りこそ、理不尽な令和を生き抜いてきた、お前たちの立派な勲章だ」

​ドクは立ち上がり、私のボロボロのソファーの足元を指差した。

​「お前が組織の冷酷さを知ったことも、仲間を失った痛みも、すべては『どうすれば人間が潰れてしまうか』『どんな歪んだ仕組みが現場を不幸にするか』という、痛烈で、しかし泥臭くリアルな実験データなのだ。

​人生という名の壮大な実験において、お前がその身を削って蓄積してきたデータに、無駄なものなど一つもない。それを『失敗だった』の一言で終わらせるな。お前はその身を挺して、誰もが欲しがる一級品のデータを手に入れたんだ。

​その生きたデータを、お前は次のステージでどう使う?」

​彼の言葉が、冷え切っていた私の胸の奥に、じわじわと熱を帯びて染み渡っていく。

​理不尽に詰められた会議室の空気も、すべてはこれからの人生を新しく組み立て直すための、愛おしいデータ……。

​気がつくと、老人の姿は消えていた。

しかし、私の心には、彼が残していった小さな電球が、確かに灯り始めていた。

​(第2話・終)

​次回 第3話:挑戦 ── 34,210円の崖っぷちと、あたたかい草履


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