見出し画像

姉とのふたり暮らし〜東京・野方と葛西での8年間

1994年から8年間、私は姉と東京でふたり暮らしをしていた。

大学2年の春、2つ上の姉が看護学校を卒業して病院に勤めることになったのをきっかけに、私は1年間住んでいた学生会館を引き払って、ふたりで住む東京都中野区野方に引っ越した。

野方の家は、環線ぞいの野方ホープという有名なラーメン店から、妙心寺川沿いに住宅地に入って割とすぐのところだった。

野方ホープにはいつでも行列ができていたけれど、結局一度も食べには行かなかった。

妙心寺川には夕方になるとコウモリがたくさん飛んでいて、私はコウモリはここで初めて見たのだった。
東京はすごい、と思った。
いまだにコウモリを見かけるとなんだかワクワクして、妙心寺川を思い出す。

アパートは大家さんの家の隣にあって、大家さんとは調味料を貸し借りするような間柄であった。
隣とか階下に誰が住んでいたかとかは覚えていない。
あまりかかわらなかったのだろうか。


私と姉は、実家にいるときあまりよい関係ではなかった。

姉はなにかときちんとできる人で、私はだらしなかった。

姉はフワフワした花柄のスカートを好み、私はカジュアルウェアを好んだ。

姉は勉強ができて、私は勉強はあまりよくできなかった。

小学生の時の私は出っ歯で下ぶくれ、背も一番小さくてコンプレックスだらけだったけれど、姉はおでこが広く鼻が高くて卵型、背も高く、私にとっては器量よしな姉だった。

ただ、姉は私にはいつも暴力的で、歯向かえば叩かれ、姉の部屋に入っては叩かれ。その理不尽さによく泣いた。

そんな姉なのに、私は姉の真似ばかりしていて、高校も姉と同じところを選び、部活も姉と同じギター・マンドリン部を選んだ。

姉がちょうど思春期どまんなかのときに親の不仲や別居などがあったので、その反抗期はすさまじく、姉の機嫌を皆で気にするような空気がいつでも家に流れていた。

だから、実を言えばそんな姉との共同生活は私には恐ろしくて仕方なかった。


案の定、少しだらしなくすれば姉に叱られ、縮こまって生活していた。

それでも姉と、野方の洋食屋さんに行ったり。
一緒に餃子を包んだり。
西武新宿線の線路沿いを歩いたり。
友達が遊びに来たときは一緒にエビフライを揚げたり。

洋食屋さんはアップルポットといって、赤いギンガムチェックのテーブルクロスのかかったテーブルが並び、家族でやっているようなアットホームなお店だった。

いるだけでほっとする雰囲気だったので、何回かそこにはふたりで出かけた。

残念ながら、コロナ期にここは閉店してしまったらしい。

私がちょっと朝帰りなどしたときは母にごまかしてくれていたりもして、それなりに楽しく過ごしてはいたのだった。

中央線で大学や仕事場に通っていたので、飯田橋あたりの桜はそれはそれは美しくて、春の通学通勤はほんとうに幸せだった。

野方には、6年ほど暮らした。


ふたりの関係が大きく変わったのは、姉が保健師の資格を取るために看護大学に編入したため、家賃の安い住まいに引っ越してからだった。

2つめの家は、江戸川区の中葛西にあった。

混みすぎて足が浮いてしまうような東西線の満員電車はよく覚えているけれど、私は仕事が忙しく、街並みも暮らしぶりもあまり覚えていない。
夜寝るためだけに帰っていたような家だった。

私と姉は当時、ある女性向けサイト(cafeglobe.com/現在は倒産のため廃刊)にはまっていて、その掲示板では解禁されたばかりの低用量ピルの是非について侃々諤々(かんかんがくがく)議論が行われていた。
※cafeglobeに関する記事も書いたことがあった。

それで、私は副作用も懸念されていた低用量ピルについて姉の見解を求めた。

姉はそのとき「ホルモンをいじるのは怖い」と言った。私には看護師である姉の言葉は強く響き、以来「ホルモンをいじるのは怖い」は頭にこびりついた。

いまはもっと幅広く考えられるけれど、当時の私は、自分の頭で物事を考えるだけの情報収集能力も処理能力も経験もなかった。
人は未知なことに、必要以上に警戒してしまうものだ。

その話をしていた晩に、私は姉に思い切って話しかけた。
「小さい時ね、実家には性的な話題を避ける雰囲気があると思ってた。まるで悪いことみたいな」
姉はそれに大きく頷いた。

本当のところ、姉の同意は少し意外にも思った。
私の言うことに頷くことさえ珍しかったのだ。

事実、初潮の報告にも母には戸惑った顔をされたきりだから、私は生理すら悪いもののように感じていたのだ。

さらに私は重ねる。
「なんかさ、家は、見た目はきれいなんだけど、実はとても冷え切ってて、いびつじゃなかった?それが、嫌だったんだよね」

すると姉は「そう。それがほんとうに嫌で。だから私は早く実家を出たかったの」と苦い顔で言った。

その夜、たぶん生まれて初めて、私たちは腹を割って話した。

仮面夫婦のような両親の雰囲気、見栄を気にする祖母、性的なものへの嫌悪感をもっていた母、ふたりとも案外と似たようなことに憤りや違和感を抱いていたようだった。

話はさらに私と姉との関係にも及んだ。

「〇〇ちゃん(姉の名)のことは、怖かったんだ。それになんでもできるし器量もいいし。うらやましかった」
と私が言ったら、姉はすかさず答えた。
「なに言ってるの。ずっとうらやましかったのは私の方だよ」

聞けば姉は、自由奔放にやりたいように生きて、時には朝帰りしたり、なんでも心の内を母に話したり、だらしなくしたりできる私のことを、小さな頃からうらやましく感じていたのだという。

そんなこと、思いもしなかった!

その日を境に、私たちはほんとうに仲良くなったのだった。


葛西で2年過ごしたあと、私と姉はほぼ同時に結婚が決まった。
2002年に同居は終わりを迎え、その年に姉が、翌年に私がそれぞれ結婚した。

「ゆるのひとり暮らしはなにかと心配だよ」と常々姉は言っていたので、結婚が決まったのはうれしいようだった。
それはそれで心配してはいたけれど。

結婚後も何度となく電話で話し、結婚生活について、配偶者について、子どもの育ちについて、たくさんの情報を共有した。

いま兄も含めたきょうだいで話すのはひとり暮らしの母のこと。少し前は改築のこと、実家の去就のこと、いまは母の心臓にかかわる持病のこと。

姉は唯一都内に住む子どもとして、看護師として、母に付き添い話を聞いて、時には叱咤激励してくれている。
ありがたい。

私のなかでは姉はいつまでも小さな時のふたりであり、東京で同居していた時のふたりであるのに、環境はどんどん変化して、心を向ける対象も光のような速さで移り変わっている。

いつかそれぞれの子育ても終わってゆっくりできるようになったら。

ふたりで温泉とか、旅とか、いや、そんなに大仰でなくてもいい、ソファに並んで座ってコーヒーを飲んだりするのも、いいよね。

なにに闘ってきたのかわからないけれど、私たちはたぶん、壊れかけた家庭という戦場で生まれて、一緒に新しい家庭を作ろうとしてもがいていた戦友とも言えて、私たちの思いは私たちにしか分からない。

ふたり暮らしの日々はそんなに長くはなかった。でも私にはあの数年間はとても貴重で、そんな戦友ができたのを、心強く思っている。

いいなと思ったら応援しよう!