宮崎の愛のスコールは、強敵カルピスソーダと戦うためにコカコーラの自動販売機内の四角いジャングルに移籍した
コカコーラの創始者は、薬剤師です。
1886年、アメリカのジョージア州アトランタの薬剤師ペンバートンが、ワインとコカの葉とコーラの実の成分からつくったカラメル色のシロップをつくります。
もともとは、
モルヒネ中毒の処方薬として開発されました。
ペンバートンは、
このシロップを水で薄めて売ることを考えます。
ペンバートンが、あるとき水と炭酸水を間違えて薄めたところ、これが好評でした。
こうして完成した「コカ・コーラ」は、1杯5セントで販売されました。
ペンバートンの売り出したコカコーラは、
特許も取得して、人気もあり、
売れることは間違いありませんでした。
ところが、ペンバートンはなぜか、
企業家のキャンドラーに
その権利を売り渡してしまうのです。
ペンバートンは麻薬中毒になっており、
麻薬を買う金欲しさに売ったとか、
息子が勝手に売ってしまったとか
いろいろな説があります。
しかし、キャンドラーの手に渡ったことが、
コカコーラの運命を変えました。
今でも見られる190mlの瓶に詰めて売ったのは、キャンドラーのアイデアです。
さらに、アメリカ国民の中で、コカの成分への懸念があったことから、コカインを除去しました。
これにより、黒い炭酸水は、アメリカの国民飲料となったのです。

さてさて、コカコーラは日本には大正時代に入ってきているそうです。
作家の芥川龍之介が飲んで友人への手紙に「コカコラ」と書いたり、詩人の高村光太郎が「コカコオラもう一杯」と詩に書いたとのこと。
戦後、進駐軍とともにコカコーラは日本に大々的に入ってきました。
昭和31年にコカコーラの原液の輸入の許可がおりました。
昭和33年に、「ファンタ」が販売されます。
昭和40年には、缶入りコカコーラが販売されました。
昭和50年に、「ジョージアコーヒー」が販売されます。
昭和58年には、「アクエリアス」が販売されました。
大学のときに、バレーの練習の後に、冷えたアクエリアスが届けられて、爆飲みしたことがあります。
まだコマーシャルが始まる前でした。コカコーラの販売戦略だったのだと、感心した次第です。
その影響でしょうか、私はポカリスエット派ではなく、アクエリアス派です。

コカコーラの国内の自動販売機の数が100万台、販売所は100万件あるそうです。
コカコーラ社はマーケティングとコカコーラの原液の提供を担い、製造と流通はボトラー社が担っているとのこと。
さて、コカコーラの乳酸飲料として開発された商品が「アンバサ」でした。
乳酸飲料での最大のライバルが
「カルピスソーダ」でした。
コカコーラの販売作戦会議では、
自社の「アンバサ」では弱すぎて、
「カルピスソーダ」とは戦えないと
結論付けました。
対抗できる他社製品の乳酸飲料を
ぶつけるしかない
と判断します。
国内で製造販売されている乳酸飲料を
徹底的にリサーチしました。
王者「カルピスソーダ」に勝てる製品として、
宮崎県都城にある南日本酪農協同販売株式会社が
製造販売している「スコール」に目を付けます。
コカコーラは、
南日本酪農協同販売と製造販売契約を結び、
コカコーラの自動販売機でのスコールの販売
を実現させました。
このため、コカコーラの自販機に宮崎県民がこよなく愛する「愛のスコール」が入っているのです。
自動販売機のスコールは、コカコーラ社が製造したもので、
コンビニなどで売られているスコールは、
南日本酪農協同販売が製造したものとなっています。

私は、スコールはついにコカコーラに身売りしたのかと、宮崎に帰ってきて涙を流したものでしたが、そうではありませんでした。
強敵カルピスソーダと戦うために、
コカコーラの自動販売機内の
赤い四角いジャングルに移籍したのです。
まるで、巨人の4番打者ゴジラ松井を封じるために、ワンポイントで熊本県出身の左腕の遠山を起用した、タイガースの野村監督のようです。
たとえが怪しいですが、がんばれスコール!
今日の記事は、南日本酪農協同株式会社の方々の話がもとになっています。
世界最強のコカコーラの
マーケティングチームが、
宮崎のスコールを見いだした慧眼に
敬意を表する所存です。
私は、椎葉村から出て来て、
宮崎西校の自動販売機で
初めて愛のスコールを飲んで以来、スコール派です。
もしかして、これって
宮崎県だけのまことしやかな話かも。
だったらすいません。
昨日から、宮崎西校出身の東村アキコさんが原作の映画「かくかくしかじか」が公開されましたね。
この週末、見に行きます!
「まるさんかくしかく」の4巻も、あいかわらずの宮崎ネタが炸裂して、宮崎県関係者には超おすすめですよ。
