昔は、夕刊売りの母子を散髪中の鏡で見て、その親子がどのような生活をしているのかと思いを巡らす知事がいた
大正7(1918)年の秋の夕暮れ時に、大阪の淀屋橋の理髪店で、大阪府の林市蔵知事が散髪をしておりました。
40歳くらいの母親と娘が、新聞の夕刊を売っている姿が鏡に映っておりました。
散髪が終わった後に、林知事は夕刊を買って、母親と話しをしました。
その後、近くの交番に立ち寄りました。
林知事は、交番の巡査に、夕刊売りの母子の家庭状況の調査を命じました。
後日、巡査から調査結果の報告を受けました。
母親は、夫が病に倒れ、3人の子どもがおり、夕刊でやっと生計をたてている。
子どもたちは、学用品も買えず、学校にも通っていない。
林知事は、このような貧困の家庭は、ほかにもたくさんあるはずだと、区域内の住民の生活状況を調べて、その情報に基づき、援護が必要な者に対して支援を行おうと考えました。
そのために、方面員の制度を設けて、地域できちんとニーズを把握し、援護が必要な人に適切な援助を届けるようにしました。
同じような取組は、岡山県でも始まり、やがて全国的に広がっていきました。
昭和11(1936)年には、「方面員制令」が制定され、全国的な制度となりました。
大阪の淀屋橋には、この夕刊売りの母子のエピソードを踏まえた林市蔵知事の碑が建っています。
熊本城にも林市蔵の碑があります。不思議に思っていたら、林市蔵知事は熊本出身でした。

ちなみに、林市蔵の娘婿に、重光葵がいます。
終戦時の外務大臣です。昭和20年9月2日に、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印をしました。
重光葵は大分県出身です。
外務省の外交官で、中国に赴任していたときに上海で爆弾テロにあい、右足は義足でした。
同じように外務大臣で爆弾テロにあって右足が義足だったのが、佐賀県出身の大隈重信です。
大隈重信が爆弾テロにあった直後に、宮崎出身の高木兼寛が現場を通りかかって応急処置をしています。
九州のつながりは強いですね。

100年以上も続く民生委員は、担い手が不足して難しくなっています。
善意のボランティアに頼るのではなく、給料を払うべきではないかという議論も出ています。
百年以上も続く制度を維持することはとても難しいことだと思います。
昔は、夕刊売りの母子を鏡で見て、その親子がどのような生活をしているのかと思いを巡らす知事がいました。
戦前までは内務省から派遣された知事です。

厚生労働省もまた、
内務省から分かれてできました。
私が入省したばかりのときに、旧内務省の三惚れ主義を聞かされたことがあります。
①仕事に惚れよ
②女房に惚れよ
③地域に惚れよ
①は今の仕事に全力を尽くすように、
②は家族を大事にするように、
③は転勤が多いが住んだ地域を好きになって仕事をするように
ということです。
4月から新しい職場に異動になった方もいるでしょう。
三惚れ主義に徹し、
新しい職場での飛躍と活躍を祈念しております。
