後藤新平が宮崎県知事になっていたら医学校を創設して、今の医師不足はなかった
相良治安と同じような
境遇になった人物がいます。
内務省衛生局長の後藤新平です。
福島の医学校を出て、愛知県の県立病院の医師として就職します。
西南戦争のときには、
大阪に設置された陸軍臨時病院に
外科医として勤務し、
陸軍省の石黒忠悳(後の軍医総監)
の知遇を得ました。
愛知県から内務省衛生局に採用され、
長与専斎衛生局長の懐刀として
動くことになります。
ドイツに留学して、帰国後に、
念願だった内務省衛生局長となりました。
ここまでは順風満帆の人生です。
ところが、好事魔多し。
精神障害者のお世継ぎをめぐる
「相馬事件」に巻き込まれます。
相馬藩の藩主の家で、
相続をすべき当主が
精神障害者として
座敷牢に閉じ込められているのは違法だ
と裁判に訴えた執事に対して、
衛生局長の後藤は支援をしました。
中立を保つべき行政官が片方に手を貸すことは問題となりました。
収賄の疑いもあり、
後藤は逮捕収監されて、
内務省衛生局長の地位を失います。
後藤は最終的には裁判で無罪となりましたが、
無職となってしまいます。
今まで、ひっきりなしに面会に来ていた人々が、潮が引いたように全く誰も来なくなりました。
局長となって天狗になっていた後藤は、
鼻をへし折られてへこんでしまいました。
そんな中で、
かつての上官である陸軍省の石黒から、
話がしたいと連絡がありました。
失意の後藤は、石黒にことの顛末を話しました。
「今度ばかりは、全くまいりました……」
それを見た石黒は、
「これを、あるお方に渡してもらいたい」
と後藤に言いました。

後藤は、石黒から渡されたものを持って、
住所地の長屋を訪ねました。
そこは、相良治安の家でした。
石黒からあずかったものを渡した後藤は、
相良としばらく話しをしました。
「自分は、昔は文部省の局長をしていた。性格が災いして今はこのようになってしまった。自分のようにはならないように心がけよ」
後藤は、
生まれて初めて人の話をじっくりと聞きました。
自信家の後藤は、
それまでは人の話を聞くことは
ほとんどありませんでした。
陸軍省の石黒に報告をしました。
「貴方がいわんとすることがよくわかりました。相良さんの話は大変勉強になりました。このような機会をつくっていただき感謝します」
後藤は、石黒から陸軍のエースである
児玉源太郎少将に会いにいくように言われました。
児玉のところに行き、
相談されたのは、
日清戦争に出征した兵士が、
日本に帰国する際の検疫についてでした。
西南戦争が終わったときに、
検疫の体制があったのですが、
兵士らは検疫を拒否して
上陸してさっさと国に帰っていったのです。
九州の戦場から帰還してきた兵士によって、
日本中にコレラと赤痢が
ひろがってしまいました。
日清戦争では、23万人の兵士が出征しており、これを検疫もせずに故郷に復帰させると
さらに国内に感染症が蔓延してしまいます。
ただ、こうした大規模な検疫は、
まだ世界のどの国も行ったことがありません。
後藤は、児玉に100万円かかると言いました。
すると児玉は、
「それで国内への伝染病が防ぐことができれば安いものだ。さっそく貴殿に企画してもらいたい」
と言いました。
後藤は考えました。
出征兵を直接本土には上陸させずに、
島に集めて検疫を実施し、
その後に本土に上陸させるというものでした。
島であれば、検疫を拒否して逃げても、
海があるので国内に上陸することはできません。
一日も早く故郷に帰りたい兵士は、
島での検疫を受けないと
故郷に帰れないと判ったら、
すすんで検疫を受けるようになる
と踏んだのです。
後藤は、企画は考えましたが、
自分がこの検疫事業に関与することは
断りました。
陸軍には優秀な軍医がたくさんおり、
彼らをさしおいて
無職の医師が検疫をすると
差し障りがある。
しかし、児玉は、
後藤を検疫対策本部の次長に任命して、
検疫の実務を任せました。
後藤を信頼して、「丸投げ」したのです。
検疫所は、彦島(山口県)、似島(広島県)、桜島(大阪府)の3つの島に設けられました。
史上最大の検疫作戦は、見事に成功して、
その後、国内でのコレラや赤痢などの
伝染病の蔓延はありませんでした。
この功績が認められ、
後藤は古巣の内務省の衛生局長
としてカムバックします。

児玉は後に台湾総督となり、
民政長官として後藤を任命します。
この決定に、内務省内では激震が走りました。
県知事を経験していない医師の後藤が、
台湾の長官などできるはずがないと、
内務省内で噂されたのです。
「うまくいくはずがない。後藤にできるのは、せいぜい宮崎県知事くらいだ」
台湾総督の児玉は、まったく意に介さず、
後藤を信頼して、行政事務は丸投げしました。
後藤は、それまで誰もなしえなかった
台湾の極悪な衛生状態を改善し、
アヘンが蔓延していた地域を一変させました。
サトウキビの栽培などにより産業育成で
砂糖などの製品が輸出されるようになり、
新たに税収が生み出されるようになったのです。

後藤はその後、
外務大臣、内務大臣、東京市長(都知事)、
関東大震災後の復興大臣などの要職をつとめ、
伯爵にまでなっています。
局長になったことまでは同じですが、
逮捕収監された後に、
誰からの支援もなく、町の易者となった
相良治安とは真逆の人生を歩みました。
後藤には、
石黒や児玉など応援する人がいた
からでしょうね。
しまった!
後藤新平が台湾ではなく
宮崎県に知事として赴任しておれば、
医学校くらいは創設していたかもしれません。
そうすれば、今の医師不足はなかったかも。
宮崎県は九州唯一の医師不足県です。
宮崎県と宮崎大学医学部と宮崎県医師会が、
力を合わせて医師確保に取り組んでいます。
