長崎街道歩いてみた【2回目/肥前古賀~大村 後編】
長崎街道歩きを始めました。2回目は長崎県肥前古賀から大村まで約30㎞。前編を読んでない方は以下リンクからご覧ください。
〇ルート図(前編分含む)
〇セブンイレブン諫早市小船越町店~鈴田峠入口(約4㎞)
肥前古賀から諫早まで初夏の日差しの中、午前中に約13㎞歩き続けた体にはセブンイレブンでの昼食はだいぶ休息となりました。
午後の部スタートです。セブンイレブンから数百mの場所にある永昌宿(えいしょうしゅく)跡へ。宿場跡と言うと通常歴史を感じさせる古民家や神社があったりするものなのですが、ここは写真にあるような石柱が住宅地の道路脇にあるのみ。たぶん長崎街道の宿場跡ではいちばん往時の面影が残ってない場所かと。

この永昌宿跡は諫早の城下中心部から西へ2㎞ほど離れた場所にあります。当初は城下中心部に宿場があったそうですが、長崎から大村方面へ向かう早回りの道が出来たため永昌宿が新しい宿場となったそうです。しかし本陣などは城下にあり、旅籠なども規模が大きく、そちらを利用する者が多かったらしい。そのため、この永昌宿は数軒の旅籠と幾らかの商家で、それ以外は農家がほとんどだったとか。

永昌宿跡が古い面影が残っておらず寂しかったので、多良街道ルートを通って市街地中心部を訪問したいところですが、既に時間は14時近く、まだ大村まで距離を残しているため、先を急ぐことにします。
永昌宿跡から500mの場所に茶屋跡もありましたが、ここも往時を示すのは石柱ですが、茶屋の名前「岩茶屋」の由来ともなった、茶屋庭先の亀甲紋の岩も残されています。

茶屋跡から住宅地の中をさらに2kmほど北上を続け、鎮西学院高校・大学横を通過します。北バイパスを横切るとだんだん人家も減って、また農村部の風景に変わりました。ここ破籠井(わりごい)地区は、かつて平家の落人が開拓した場所で「平家の里」とも言われているらしい。
諫早市街地を好天の中、アスファルトの照り返しを受け歩き続けたことで、だいぶ体力が消耗してきました。休憩兼ねて道端の自動販売機でペットボトル購入、10分ほど道路に座り込み休憩、これからの鈴田峠越えに備えます。


〇鈴田峠入口~武士の墓と馬の墓(約2㎞)
鈴田峠入口から峠を目指します。道はうっそうとした林に囲まれ、登山道みたいなゴツゴツとした岩が露出した峠道を進むことに。長崎県で鈴田峠と言うと、国道34号の諫早市と大村市の境界にある標高約90mのあまり大したことのない峠がイメージにあったのですが、長崎街道の鈴田峠は標高約200m。ちょっとした登山となりそうです。

峠道はまだ15時ぐらいですが薄暗く、連休中だと言うのに行きかう人は全く見かけません。そしてイノシシなどの獣道となっているのか、ところどころ掘り返された跡があり、排泄物の匂いも。そして多数のコバエが顔にまとわりついてきます。手で払えど、次から次に襲ってくるので自然に速足とならざるを得ません。
途中分岐した山道が出てくるのですが標識などはなく、途中何度か間違った道を進みながら戻るを繰り返します。万が一ここで遭難したり倒れたら、誰にも気づかれずに行方不明となってしまうのでは・・・との変な考えも頭をよぎります。



多数のまとわりつくコバエを手で追い払いながら、速足で上り続け30分ほどで、なんとか峠らしい場所につきました。
鈴田峠と明確に記載したものはありませんが、「大渡野(おおわたの)番所跡」や佐賀藩諫早領と大村藩境の目印となる「鬼の足型石」、大名が休憩した「籠立場(かごたてば)跡」などがあるので間違いないようです。昔は人通りもそれなりにあり、街道周りの木々も今ほどウッソウと茂ってなく、もっと眺めが良かったのではと思われます。それにしても、道に迷いながらも、なんとか鈴田峠に辿りつけたので一安心です。



峠を過ぎ登山道下りに入ると、途中から街道跡が送電線ルートと一緒になります。さすがに送電線ルートについては九州電力が定期的に周りの木々の伐採するので見晴らしが良いですね。それにしてもコバエが相変わらず顔にまとわりついてきます。道はずっと緩やかな下り、コバエを避けるためトレイルランのように走ってくだることに。
峠から10分ほど下りやっと舗装路となりました。舗装路となってすぐの道沿いに「武士の墓と馬の墓」。この墓は戦国時代に大村藩主が天草の謀反に対し送った使者「渡辺伝弥久(でんやく)」の墓で、使命を果たせず帰路でここで大雪に遭い、無念ながら馬とともに亡くなったらしい。


〇武士の墓と馬の墓~大村宿道標(約6km)
武士の墓と馬の墓を過ぎて、しばらくすると大村市の鈴田地区が眼下に見えてきました。この頃にはコバエもいなくなり、畑横の農道をやっとノンビリ歩いて下りて行けます。大神宮(だいじんぐう)神社に16時近くになり到着。これで大村宿跡まではやっと平坦な道を歩くことができると思ったのですが・・・これはしばらくすると裏切られたと気づくことに。


大村市鈴田地区に入りました。これまで人気のない山道を、夕暮れ近くなり一人で歩くのは心細かったので、周りに人家が有り人の声が聞けるのは一安心です。鈴田地区も史跡が色々あるみたいですが、大村宿までは明るいうちに着きたいので先を急ぎます。途中に「一里塚跡」の案内書や「鈴田番所跡・下鈴田庄屋跡」の石碑は有るのですが、街道沿いには往時の面影があるような古民家や神社などはあまりないようです。




ちなみに鈴田番所跡を過ぎると「日置峠」という小さな峠が現れます。ただ、峠のピークはトンネル工事により寸断され通行困難なので、峠道のすぐ横には平坦な県道を今は通ります。なぜ昔はわざわざ峠道を通っていたのか、これは峠のすぐ横を流れる鈴田川の影響で、昔は今のように治水が発達していなかったので、険しくても安全な山道を選ぶことが多くありました。
ちなみに地名の鈴田は、水が溢れたことを「すずれた」と言う方言があり、鈴田は「すずれた」の当て字(漢字の本来の意味に関係なく、音や訓を借りてあてはめた漢字)のようで、過去水害が多かった地域みたいです。地名に刻まれた先人の教訓が感じられます。


【参考】鈴田地区史跡名所案内マップ(PDFファイル)
https://michinoeki-suzutatouge.com/contents/data/suzutamap.pdf
鈴田地区を過ぎ大村市街地まで地図上ではあと2kmほど、大村城横のJR大村線沿いの平坦なルートを通ると思っていたのですが、目の前には長崎医療センター横を通る峠道が現れました。自家用車ならなんと言うことはないのでしょうが、疲れた体には最後の峠はつら過ぎました。

長崎医療センター近くの峠を過ぎ、町の外れの広大な墓地の中を下り、大村護国神社前を過ぎ、17時過ぎになんとか大村宿跡である本陣通り商店街になんとか到着しました。
なお長崎街道が大村城近くを通らないのは以下の二つの理由らしいです。
・防衛上の理由:街道を通る他藩や幕府からの情報遮断、海に突き出した城「大村城」が敵軍に攻め込まれるリスクを減らすため。
・地理的・構造的な理由:前述の鈴田地区のルートと同様ですが、川沿いや低地は洪水のリスクが高く、雨により街道が寸断されることを防ぐため。


〇大村宿道標~新大村駅(約5km)
大村宿跡である本陣通り商店街から大村駅までは1kmたらずでしたが、西九州新幹線の停車駅である新大村駅までJR大村線で2駅あり、乗換待ち時間・乗車時間が必要なこと、次回の街道歩きを新大村駅から始めた方が距離短縮できることから、もうひと頑張りして新大村駅まで歩くことにします。
本陣通り商店街のアーケード内には本陣跡の碑をはじめ、いたるところに長崎街道についての説明や看板があったらしいのですが、帰る時間が気になりあせっていたたことから写真など撮影してませんでした。(以下写真は長崎と天草地方のキリスト教関連歴史文化遺産群ウェブサイトから)

長崎と天草地方のキリスト教関連歴史文化遺産群ウェブサイト「おらしょ」 https://oratio.jp/p_burari/oomurasyukukarasuzutabansyoatotoitiridukaatohe
なお、大村市の南側には大村城と武家屋敷が広がっていたのに対して、宿場跡がある市中心部は、明治以降には軍都として栄え、そのため鉄道は早い段階で開通したのですが、太平洋戦争の空襲により街が破壊されてしまいます。中心部に古い家が残っていないのはこれが理由のようです。なお大村のアーケード街も全国同様にシャッター商店街となり、高度経済成長時代の賑やかさはなくなってるようです。
本陣通り商店街のアーケードを過ぎ、長崎街道ルートを北上を続けます。だんだん帰る時間が気になり出したので、本陣通り商店街から2㎞程の場所で街道ルートに別れを告げ、新大村駅まで陸上自衛隊大村駐屯地横の最短ルートを通ることに。
新大村駅に着いたのは18時過ぎ。まだ新しい洗面所は、この時間帯あまり利用される方がいなかったことから汗まみれのTシャツを交換。新大村駅から西九州新幹線「かもめ」で武雄温泉駅まで、そして武雄温泉駅から特急「リレーかもめ」に乗り継いで博多まで。結局、前回同様に20時過ぎにはなんとか自宅に辿り着きました。
西九州新幹線で1駅区間ちょっと、走行時間ではせいぜい10、15分程度なのですが、昔の方々が歩いた長崎街道ではまる一日。あらためて江戸時代の方々の大変さを実感できました。次回の3回目は、今回ゴール地点の新大村駅からスタート。大村宿跡からさらに北、彼杵(そのぎ)を経由し佐賀県を目指します。また次回も険しい峠が次々ありそうですが、それもまた街道歩きの楽しみのようです。
