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中世都市から安らぎの田舎町へ【等身大のイギリス⑦】ノッティンガムシャー

せっかくイギリスに行くなら、農村部を見てみたい。そう考えた私は、ノッティンガム地方の農家のもとで5日間滞在させていただくことにした。ノッティンガムはペニン山脈の東側に位置する地方都市で、周辺にはのどかな農村地帯が広がっている。中世以来の城が残る市内を観光した後、お世話になる農場を訪ねた。耕地や牧場が広がるイングランドの農村部には、都市にはない安らぎとローカルなコミュニティが広がっていた。


前回はこちら:


アクセントと地域いじり

旅行を始めて8日が経った。雨上がりの朝、小鳥のさえずりを聴きながらバスターミナルまでの道を歩く。3泊お世話になったマンチェスターの街を離れるのは少し寂しい。今日はバスに乗って中央の山地を超え、ノッティンガムという街をめざす。

ノッティンガムの位置

時間通り発車したバスは、東を目指してぐんぐんと進んだ。都市を離れると景色は一変し、薄茶色の平原や耕地が広がるようになる。グレートブリテン島は古期造山帯のため、山地といっても急峻な箇所は少なく、カーブを描くようななだらかな丘が続く。

グレートブリテン島の中央部を東へ抜ける

バスに揺られながら、隣の席に座っていた男性と打ち解けた。会話のきっかけは彼がカバンにつけていたクライミングシューズ。私も趣味でボルダリング・クライミングをするので、それが最初の話題になった。優しい声が印象的な彼は、現在24歳の社会人。職場ではまだ下っ端なので、ミスをして会社に損失を与えないかビクビクしながら仕事をしているという。

イギリスを旅行する楽しみの一つは、やっぱり英語のアクセント(訛り、方言)だ。イギリスには地域ごと・都市ごとにそれぞれのアクセントがあるので、1時間ちょっと車で移動するだけで、ローカルな人々の話し方に違いが出てくる。例えば、同じイングランド中央部でも、リヴァプール、マンチェスター、シェフィールドはそれぞれのアクセントがある。マンチェスター出身の彼の場合は、リヴァプールの英語が異質で気に食わないという。

せっかくなので、一風変わったリヴァプール訛りを紹介しておこう。次の動画の中でインタビューを受けた男性は"world"を「ウェールド」のように発音しており、取材クルーが思わず笑ってしまうと、「なんで笑ってるんだ?俺は真面目だぞ」と切り返している。ちなみに、"world"が「ウェールド」になるのは(同じくリヴァプール出身である)ビートルズの曲でも確認できる(Polythene Pam)。

私の隣に座っていた彼もリヴァプール訛りをバカにしていたが、こういう地域間のいじり合いは非常にイギリスらしい文化だ。彼はマンチェスター・ユナイテッドのサポーターであり、リヴァプールFCを毛嫌いしていたので、フットボールクラブのライバル関係も地域間の感情に関係しているかもしれない。

一方、マンチェスターのアクセントについては「Oasisのリアム・ギャラガーみたいな、南部の発音が本物だ」という。同じマンチェスター都市圏の中でも、北部生まれと南部生まれとでは違いがあり、南部の方がオーセンティックなマンチェスター訛りなのだという。なかなか厳しい世界だ。

こんな話をしているうちに彼はどんどん心を開き始め、最後は恋愛の話題にまでなった。つい最近彼女と別れてしまったらしく、悲嘆に暮れている。「別れたとき電話すらしなかったんだ、ただチャットで別れたいって言われて」「まだ俺の家には彼女の置いてったものが残っているんだ!」など、どんどん話が出てくる。そんなことまで僕に話して良いのかと思ったが、赤の他人だからこそ話しやすかったのだろう。彼の方が年上なのに、なんでも話してしまう純朴さが可愛らしく思えて、少しおかしかった。


何にもないだって?とんでもない。

到着後、滞在先のホステルで荷物を預け、市内の散策に向かった。歩き始めてすぐに気がついたことが一つ。今まで観光してきたどの都市よりも、白人の割合が高いのだ。ロンドンやバーミンガムではアジア系や黒人とすれ違うことがとても多いが、ノッティンガムに着いてから、道ゆく人の多くは大抵白人だ。実際、統計を見ても、白人の割合はロンドンが53.8%、バーミンガムが48.7%、マンチェスターが56.8%であるのに対し、ノッティンガムでは65.8%となっている。ロンドンやバーミンガムなど、南部の都市圏から離れるほど移民が少なくなるのだろう。

ノッティンガムはそれほど大きな都市ではない。人口はおよそ30万人ほどでイングランドの中でも比較的小さい都市に分類される。しかし学生が多いこともあって中心部には活気があり、市内に残された古い建築との対比が印象的だ。赤や白を基調とする重厚な街並みを、多くの歩行者が早足で抜けていく。市内にはスタイリッシュなデザインのトラムが走っており、ドイツやスイスなど大陸ヨーロッパのようでもある。

市内をトラムが走る

中心部の広場(Old Market Square)では、ウクライナとの連帯を呼びかける市民の集会が開かれていた。青と黄色のウクライナ国旗があちこちではためく。日本にいるとウクライナの戦争は遠いことのように思われがちだが、ロシアの侵攻を現実的な脅威として認識するヨーロッパ各国にとって、ウクライナとの連帯は自国にとっても重要な意義を持っている。また、ウクライナからイギリスに入国した避難民は数十万人を超えており、こうした難民の存在も社会の側から声が上がりやすい背景の一つと言えるだろう。参加者の掲げるプラカードには、「これはウクライナだけの話ではない」「明日はあなたの国の子供の話かもしれない」と書かれていた。

ウクライナとの連帯を呼びかける市民の集会

その後、近くの本屋や古着屋、教会をまわり、すっかりこの街の光景に惚れ込んでしまった。古臭い街並みなのに活気がある。ロンドンやマンチェスターのようにいきなり高層ビルが見えることもない。旅の道中、「ノッティンガムなんて何にもないぜ」と言われたが、とんでもない。私にとって、伝統的な建築が残るノッティンガムはとても美しい街に感じられた。

石造りやレンガ造りの重厚な建物が連なる


中世都市の名残

ノッティンガムの歴史を語るには、中世に目を向ける必要がある。中世初期、イングランド各地にはゲルマン系に起源を持つアングロ・サクソンの王朝があったが、11世紀になると大陸(フランス)にいたノルマン人がドーヴァー海峡を超えて侵入し、イングランドの全域を征服・鎮圧することに成功した。いわゆるノルマン・コンクェストである。以来、ノッティンガムにはサクソン人とノルマン人が同居することになったのだが、二民族はそれぞれの区域に分かれて暮らしていた

その証拠は市内の広場でも確認できる。現在、広場の中央には市庁舎に向かってカーブを描きながら続く手すりがあるが、実はこのライン上にはかつてノルマン系の土地とアングロ・サクソン系の土地を分かつ壁があったのだという。征服民と在来民の境界と言ってもいい。

広場を縦に走るラインが街の分断線だった

こうしてみると、イングランドがいかに「征服された側であるか」が思い知らされる。近代以降の歴史を勉強すると、イングランドといえば世界に出ていって各地を征服する帝国だが、中世においてはフランスからやってきたノルマン系に侵略された側なのである。

薬局でビタミン剤を買った帰り、広場に寄ると、ノッティンガム市庁舎は紫色にライトアップされていた。すっきりと晴れた夜空には真っ白な月が浮かぶ。雨上がりの街は気分がいい。しっとりした地面を、風が撫でるように乾かしていく。夜のおやつにプリンを買い、ホステルに戻った。

夜のノッティンガム


高台の城

翌朝、町の高台にあるノッティンガム城を訪れた。この城も中世に起源をもち、ノルマン・コンクェストを成し遂げたウィリアム征服王の命で建設されたと伝わっている。市内から階段や坂をいくつか登り、城跡を目指す。頂上に辿り着くまでにいくつか洞窟型の部屋があったが、この城の立つ岩山は砂岩質のため掘削が容易だったのだという。

展望台から見下ろすと、城の高さがよくわかった。眼下に広がる街は平野のように広がっており、城のある丘だけがひときわ高く盛り上がっている。こうした地理的特性もあって、歴史上、戦闘の舞台となってきた。

ノッティンガム城(右手側)

特に有名なのは17世紀中頃のピューリタン革命だ。スチュアート朝の国王が専制政治を敷き、議会を無視して課税を決定したことで、地方の名望家(ジェントリ)が反発を強め、王政を打倒すべく起こした内戦である。議会派と王党派に分かれた激しい戦いが巻き起こり、最終的に議会派のクロムウェルが共和政を樹立した。この過程において、ノッティンガム城ははじめは王党派が軍隊を組織する拠点の一つに、その後は議会派の拠点となって、周囲からの攻撃に晒された。

ノッティンガム城内の展示。議会派が王党派に銃を向けている

ノッティンガム城は近代にも散々な目にあっている。19世紀前半には、選挙権の拡大を求める労働者らが(選挙法改正に反対していた)ニューカッスルの公爵に反感を抱き、彼の所有下にあったノッティンガム城に火を放った。炎に包まれた城は全壊し、その後数十年にわたって放置されていたという。現在のノッティンガム城はすっかり再整備され、ミュージアムまで併設されているが、かつては流血と戦火にまみれたイギリス史の舞台だったのである。


農場へ

さて、ノッティンガム城を離れた私は、その足で近くの駐車場に向かった。ホームステイ先のご主人と合流するためである。今日から5日間、ノッティンガム地方(ノッティンガムシャー)の農家のご家庭にお邪魔して、農作業のお手伝いをする。利用したのはWWOOFというサービス。ボランティアが農業のお手伝いをし、農家さんは寝泊まりする場所とご飯を提供するという仕組みだ。宿泊費や給与などのお金のやり取りは発生しない。一般に、こうした体験を「農業体験泊(ファームステイ)」と呼ぶらしいので、以下この「ファームステイ」という言葉を用いる。

この日、ご主人がちょうど車で市内に来ていたので、私はその帰りに同乗させていただくことになった。簡単な挨拶をして、(英語も拙い)私を受け入れてくださることに感謝を告げる。日本語なら「よろしくお願いします」と言いたいところだが、それがないのがもどかしい。一緒にお昼を食べながら、私の旅の目的やご主人の経歴などについてあれこれ話した。

ご自宅(兼農場)までは、車で40分ほどかかる。その間、景色は歩行者の多い都市から、少し寂れた住宅街、そして農村へと移り変わっていくが、ノッティンガムは中心を外れると急に治安が悪くなる。落書きや割れた窓は少なくないし、かつては銃犯罪が多いことから「ショットリンガム」とさえ呼ばれていたという。車を停める時間帯にも気をつけなければいけない。よくあることだが、都市と農村に挟まれた郊外が最も治安が悪いのだろう。

ノッティンガムの郊外

郊外を抜けて農村部に入ると、雰囲気はガラリと変わりはじめた。なだらかな丘の連なる台地に、ポツンポツンと石造りの家が建っている。敷地を区切るものといえば緑の生垣くらいで、その向こうには農場や牧場が広がっている。牧歌的な風景だ。

農村部

上下に揺れながら坂を超え、遠くの景色を眺めていると、あっという間にご自宅に到着した。今日からここで5日間お世話になる。ご主人と玄関を開けると、飼い犬のボーダー・コリーが尻尾を振りながら待っていた。奥様と3歳のご子息にも挨拶をする。坊やには、日本からヨックモックのお菓子の詰め合わせを持ってきた。滞在前の打ち合わせのとき、日本からのお土産としてリクエストされたものだ。3歳の坊やは、小さな手で青い缶を開け、縁までいっぱいにつまったクッキーをじっくり眺めていた。ボーダー・コリーも尻尾を振って興奮に乗っかる。

コーヒーをいただいた後、ゲストルームを案内してもらった。私が一人で使うには贅沢なほど大きな部屋で、中央に立派なベッドが置かれている。ここを好きに使っていいと言っていただいたが、大きな空間を使い切るわけもなく、荷物は端っこに置いて窓の外を眺めた。珍しく晴れ間が見えており、午後の光がガーデンの植物を照らし出している。ずっと都市のホステルを転々としてきた自分には新鮮な景色で、思わず、はぁと息を吐いた。

農作業は、基本的にご主人と2人で行う。雨が続く冬の農地は地面がぐちゃぐちゃとしており、足が沈んで歩きにくいが、ご主人は慣れた足取りでスタスタと進んでいく。この日の作業は羊を移動させ、彼らの餌となる干し草を準備すること。紐で縛ってある干し草の塊を解いてほぐし、台車で運んで専用のケージにふわふわと入れていく。夏の間は農地が草で生い茂るので不要だが、栄養が不足しやすい冬は干し草を与えなければいけないという。

羊の食べる干し草を用意する。奥にまばらにいるのが羊たち。

時々、ご近所さんが通りかかった。この辺りの農地には一般の人も通れるような歩道(フットパス)が整備されている。農地や牧場の一部を開放し、誰でも歩けるようになっているのだ。作業をしていると、何組かのご近所さんが顔を出して「今日の調子は?」と会話が始まる。私もご主人と並んで、「日本から来て、今日からここでお世話になってます」とご挨拶をする。こうして地元の人と立ち止まってお話しするのもファームステイならではだろう。みな優しい人ばかりで、「頑張って」「よく日本からここまで来たね」などと声をかけてくださった。

農業は意外と重労働だ。私は自分の祖父母が営む畑のお手伝いをしたことがあるのでなんとなく想像はついていたが、腰を下ろして作業したり重いものを持ち上げたりと、結構な運動になる。ご主人はホッケーを趣味にしており地元の消防団にも入るほど堅牢な身体をお持ちなので、どれも難なくこなす。私も一応登山をやっている意地でどうにか貢献しようと一生懸命働いた。

仕事がひと段落して家庭に戻ると、奥様が夕食を用意してくださっていた。地元の肉を使っているという自家製のローストビーフに、シュークリームの皮のようにフワッとしたヨークシャー・プディングと、温野菜、ローストポテトという組み合わせだ。色とりどりで栄養たっぷり。肉汁ベースのグレービーソースをかけていただいた。グレービーソースの塩味がどの食材にもマッチしてどんどんフォークが進む。4人で食卓を囲み一緒に食べるので、まるで私も家族の一員だ。初日から感謝してもし尽くせない。

夕食

夜はご主人と犬の散歩に出かけた。真っ暗なので懐中電灯は必須だ。ボーダー・コリーは日中も元気に走り回っていたのに、夜も有り余るエネルギーを十数分の散歩にぶつけて動き回っている。部屋に戻ってきたらやっと落ち着きを取り戻し、私の足元で眠るように目を閉じた。私もシャワーをお借りし、早々に眠りについた。


ローカル・コミュニティ

2日目。ボーダー・コリーも3歳の坊やもすっかり僕のことを覚えて懐いてくれるようになった。ご主人によればこんなにすぐに懐く相手ばかりではないので、僕には彼らから好かれる何かがあるようだ。坊やとはにらめっこをしながら遊ぶようになった。朝ごはんはオートミール。エン麦を水と共に加熱し、お粥のようにクリーミーにしたものだ。そこにジャムやシロップなど好みの味付けをしていただく。準備が簡単で、朝が忙しい農家にはぴったりなのだろう。

この日の動きは少し変則的で、農作業は午後から。午前中は、お子さんを習い事に送り届けなければいけないので、私はお昼まで自由に散歩をしてよいということになった。そこで、道中のサウスウェルという町で車から下ろしてもらい、教会や地元の商店などを巡ってみることにした。サウスウェルは低層の住宅や商店が連なる田舎町で、中心には大きな塔を持つ教会がある。地元の方が犬の散歩をしていたり、ご近所さん同士で立ち話をしていたりと、流れている時間はゆっくりと感じられる。

サウスウェルの街並み

まずはこの町の教会にやってきた。曇天のせいもあって、まるで映画に出てきそうな重苦しい雰囲気がある。冴えない緑色の芝生に傾いた墓石がぽつぽつと立っている。訪れる人は必ずしも多くない気がするが、外観も内装もとても立派なものだ。

教会

実は、この教会には16世紀前半にヘンリ8世の寵臣(トマス・ウルジー)が滞在したり、17世紀にはピューリタン革命で処刑されることになるチャールズ1世が生前に訪れたりと、何かと歴史的なイベントに縁がある。ただ、ウルジーもチャールズ1世もここを訪れたのは投獄先であるロンドンに向かう道中であり、前者は途中で病死、後者は投獄され処刑という末路を辿っている。重苦しい雰囲気は見た目だけではなさそうだ。

公園を突き抜け、こぢんまりとした本屋を覗いた。普通の本屋ではなく、地元などから寄付された本を集めた古本屋だ。積み上がった本の先には高齢の白人店主がおり、私の求める本を一緒に探してくださった。私の他にも何人かの客が出入りし、店主と世間話を交わす。数十分滞在し、1冊購入した。その間、近くのパン屋には焼きたてのパンを求めて人だかりができており、賑やかな笑い声が聞こえてきた。こうした商店が地元のコミュニティとなっていることがよく分かる。

古本屋

昼までは時間があるので、片道1時間ほどの道のりを歩いて帰ることにした。サウスウェルを離れると農場や牧場が広がるようになる。動物の臭いが漂ってくると、放牧されている馬が何頭か目に入った。放牧地は比較的広く、のびのびと暮らしているように見える。

ただの観光客ではなかなかこうした景色は見れないだろう。なんの変哲もない田舎だからこそ、ここに来てみたかった。都市にいたらわからないイギリスの側面をいろいろと垣間見れるような気がして、生垣の前で背伸びしながら足を進めた。


つづく・・・。


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