劣等感まみれのくよくよ少年と製造元の父と母【私が自分を好きになれた日までの話】
私は今50代の男だ。
私が今回投稿する文章にnote内での需要はない。
50代の男が発信する内容ではない気もする。
しかし過去の私、20歳前後だった頃の私はこういう手記を求めていたのではないかと思う。
「自分はこの後どうなるのか。どうすればいいのか」
そういうことを知りたくて藁をもつかむ気持ちでいたのは、そうあの頃の私だ。
だからここに書き残すことにする。
noteとは関係なく私のこういう文章を求めているようなごく一部の若者の目に留まり何かの足しになるようであればうれしく思う。
若かった頃の私が自分の中で常に重く抱え込んでいたもの。
「自信がない。私がこれほどまでに自分に自信がないのはなぜなのか」
若かった当時の私がそれを突き止めようとして辿ったその時点までの「たったそれっぽっちの人生」
その時に思い出した両親とのあれやこれ。
今回の投稿はただそれだけの内容だ。
「たったそれくらいのことで?」と思っていただけるのだとしたら、それはそれで良い。
私の両親は決してひどい親ではなかった。
私の親と違ってもっとひどい親もっとひどい環境で育った人は憎みたいという気持ちがあるのなら心置きなくそれらを憎めば良いと思う。
それを責めることは誰にもできないと私は思う。
今風に言えばどうにもこうにも「生きづらかった私」は20歳前後にある心理学者の本に出会った。
「あなたが今そうである原因はあなたの親です。こんなことやあんなこと、ありませんでしたか?
もしそうだったのだとしたらあなたは親を嫌いなさい。憎みなさい。その気持ちを自分に許しなさい。
全てはそこから始まるのです」
私がざっくりと意訳すれば、その方の著書全てがそういう論調だったように思う。
そして、例として挙げられていた色々について、私は「確かにそういうの、あったよ…..」と思ったのだった。
その一つずつを書いていってみようと思う。
(ただ、ここで一つだけ言い訳をさせてほしい。
私は今からそういうことを書くが、私は両親を断罪したいわけではない。
産み、育ててくれたことに感謝している。良い親だったと思っている。
万が一両親がこれを読んだ場合に悲しい思いをさせることが私の目的ではない。
それだけは書いておきたかった。)
私が生まれた日。
私と母は二人して死んでいてもおかしくなかったそうだ。
出産予定日までまだ日があった頃、母は当時でいう妊娠中毒症(今でいう妊娠高血圧症候群)で緊急搬送された。
下手したら胎児である私共々死んでいた恐れがあったそうだ。
その日その晩、父は知人たちと徹夜でマージャンをしていたそうだ。
今と違って携帯電話もなく、まさかそんなことになるとは思っていない父としてはどこでマージャンするかまでは伝えていなかったのだろう。
現代とは色々背景が違うので、たまたまその日に父が不在だったことは不運な面もあったと思う。
母からは「あんたが生まれた日、お父さんは死にそうになっていた私たちをほったらかして遊んでいたんだよ」というのを度々聞かされた。幼少の頃から。
母としては愚痴の一つも言いたい日が多かったということだ。
そんな父だが、第一子である長女(私の姉)が生まれた時は大層喜んだそうで、姉の写真を財布に入れて常に持ち歩いていたそうだ。
「写真がボロボロになっても肌身離さず持っていたんだよ」
親類の集まりがあると伯母が私の姉によくその話をしていた。
私が生まれた後に父が私の写真を持ち歩いていたという話は一度も聞かなかったので、子ども心に複雑な心境ではあった。
多分、伯母は姉を喜ばせてあげたかったのだと思う。
幼児の頃、私はものすごくかわいかった。
幼児の頃の姉は(当時の写真を見る限り)私に比べるとかわいくなかった。
もちろんそういうのは人それぞれ好みがあるから、私が決めつけて良いことではないが大方の評価はそうだっただろうと思う。
当時は世間全般にデリカシーが欠けていたと思われ、私たち姉弟を見た人の中には「お姉ちゃんと弟くん、男女逆だったらよかったのにね」というようなことを言う人がたくさんいたのではないかと思われる。
そういう時代だったのだ。
きっと姉は傷ついていただろう。
そういう姉を喜ばすために、親戚のおばちゃんがボロボロ写真エピソードを優しく語りかけていたのだと思う。
小学生時代の姉は親類が集まる度に「私がお母さんのおなかにおちんちんを忘れてそれが弟にくっついた。だから私が女になって弟が男になったんだ」という鉄板フレーズで親類から笑いをとっていた。
姉は自らピエロになることで、より深く傷つけられることを避けていたのだと思う。
でも私も自分のおとなしさを揶揄されているようで、その場にいる人全員がそのネタの前提を理解し事実認定しているというその状況が嫌で、姉がその鉄板フレーズを言う度に消え入りたい気持ちになっていた。
成人した後にこのことを憶えているか姉に聞いたら全く憶えていなかった。
姉はすごく笑った。でも、私への申し訳なさが感じられる笑いだった。元々恨みはなかったが今も当然恨みはない。
姉は成人するまで「両親は(特に母は)私よりも弟の方が好きなような気がする」という思いを抱いていたようだった。本人がそう感じていたということについては誰も否定はできない。本人にとってはそうだったのだ。
ちなみに姉は美しい娘に成長した。美人になった。
近年目にするようになったルッキズムの問題からすると「美人」という単語を使うことに問題があるのかもしれないが、それ以外に表現のしようがないのでご容赦いただきたい。
中学生になった姉はある運動部に入ってそれまでよりもスリムになり、眼鏡をコンタクトレンズに変えて変貌を遂げた。
(私の母はその世代ではかなり美人だったように思われ、姉が美しくなるのも当然と言えば当然と言えた。ある意味「みにくいアヒルの子」を地で行った姉だった。)
私の母に対してこういう思いを抱いた方もおられるかもしれない。
「お母さん、そんな愚痴を息子本人に言うなんてひどいですよ」と。
『あんたが生まれた日、お父さんは死にそうになっていた私たちをほったらかして遊んでいたんだよ』という愚痴。
だが母は母で言わずにはいられなかったのだろうと思う。
父はちょくちょく転職をした。母になんの相談もなくいきなり会社を辞めることが多かったそうだ。
「でもすぐに次の職を見つけるところはさすがだな」と母方の祖父は評価していたが、あと少しでボーナスという時期に「そんなもんいらねえよ」とばかりに会社を飛び出す父に母は家計のやりくりで苦労させられていたのだと思う。
父は家族においしいものを食べさせたい気持ちが強くて、そのためなら金額を気にせずに買ってきてしまうようなところがあった。
家族の私たちに対して間違いなくそういう面はあった。
家族以外の交友関係でも、相手を喜ばすため結果的に太っ腹になることが多かったのだろうか。
父は自分の手持ちだけではお金が回らなくなり、うっかりサラ金に手を出したようで膨れ上がり続ける利息に絶望したのか、車での自損事故を起こした。(後年母から「あれは自殺未遂だったんだよ」と教えられた。)
その事故がきっかけで父の借金のことが明るみに出、母方の祖父が肩代わりすることでサラ金への借金をひとまず完済。
ただし祖父への借金は夫婦で間違いなく返すということで、実際に両親はその借金を完済した。(かなりの年月がかかったようだった。)
母としては自分に何の非もない借金のせいでその当時の主流だった専業主婦から一転、半野外のようなところでの一日立ち仕事のパートに出るようになり大変だったのだと思う。
マイホームのためのローンに上積みされることになる、突然聞かされた前向きになりようがない本当に無駄な数百万円の余分な借金。その返済のための過酷な労働。
母としては愚痴の一つも言いたくなって当然のように思う。そりゃそうだよな、と思う。
「あんたたち(子ども)がいなかったら、お母さんは頑張れてない」
パートに出るようになった母はよく私にそう言った。
「いてくれてありがとう」の意味だったのかもしれないが、その頃の私には「あんたたちさえいなければ離婚できたのに」という意味にも聞こえた。
「俺は母さんの味方だよ。母さん頑張ってくれてありがとう」
母としては息子からそういう言葉が欲しかったのだと思うが、私たち子がそういう借金事情を知らされたのは確か完済した後だったこともあり、私としてはただただ母の言葉が重苦しかった。
「お父さんは中学でも高校でも部活動をしなかった。仮入部くらいですぐ辞めたらしい。そんなだからすぐ会社を辞める。あんたは絶対にそんな大人になっては駄目だ」
23時頃になると母はようやく終わりが見えた家事の最後としてその日乾いた洗濯物をたたみながら独り言のように、でも私に聞こえるように毎晩のようにそう言っていた。
そう言われていたのに、私は高校で運動部を途中で退部した。
練習が肉体的にしんど過ぎたというのもあるが、日々の雑用の負担が過度であったことと、鈍足のせいで「お前、生きてる価値ねえよ」というような扱いを1,2分に一度のペースで数時間浴びせ続けられる日々に耐え切れなくなり、1年間で辞めた。
2年生になっても年下の新入部員の前で同じ扱いを受け続けるのだろうと思うと、もう気持ちがもたなかった。
「お父さんのような人生を歩まないように、部活を途中で投げ出すような人間には絶対になるな」と、そういう意味の教えを毎晩受けていた私が部活を辞めた。
母のその言葉があったから辞められなかったというのもあるが、辞めた後にもその言葉が私にのしかかり続けるのだった。
残るも地獄、辞めるも地獄…..というのはわかっていたが、辞めた後に待っていたのは淡々と過ぎていく地獄だった。これまでとは違う自省地獄。
母からは散々な言われようの父だが、よい面も当然あった。
小学生だった私が将棋を覚えてからは、私の希望に応えて夜によく相手をしてくれた。
そして、9割くらいの確率で私が勝った。
「また負けた~。強いな~。はっはっは」と父はよく笑っていた。
父は晩酌で焼酎を飲みながら相手をしてくれていた。
自分が酒を飲むようになってわかったが、お酒飲むと頭があまり働かない。
父は勝つ気はなかったのだ。息子が楽しんでくれればよかったのだ。
母には悪いが、そういう面の父はありがたかったな、と今思う。
父は中学高校時代の私の体をよくスポーツマッサージしてくれた。毎回1時間ほど。
部活でへとへとの私が頼むとやってくれたのだ。
イチロー選手の父チチローさんにもそういうエピソードがあったと記憶しているが、息子がイチローくらい凄ければやった甲斐もあろうというものだが、私は中学では私だけ一人大人のような体格をしているくせに最後の公式大会でベンチにも入れない不出来な野球部員だったし、高校で挑戦した別競技では途中で退部したのだ。
さんざんマッサージしてもらっておきながら、何も残せなかった私。
しかも本来なら、父親が息子に「ちょっと腰を押してくれんか」という話なのに。完全に逆。
父は私にマッサージしながら、今思うといいことを言っていた。
「レギュラーじゃなくてもいいじゃないか。下手でもいいじゃないか。大事なのは結果じゃない。頑張ったというその過程なんだ」
そういう意味のことをマッサージする度に言ってくれていた。
いいこと言ってるな、と今は思う。
でも、当時の私には響かなかったのだ。
「恥ずかしいものは恥ずかしい」「この体格なら普通はエースで四番なのに。俺は試合にも出られない。恥ずかしくてたまらないよ」
私はそう思っていた。
父は「俺も揉まれ上手になりた~い 俺はいつでも揉み上手~」と言っていた。
でも実際は、父は揉まれるより揉むのが好きな人だった。
成人した私が過去のマッサージのお返しで父に肩もみ腰もみを申し出ると「お、そうか」と応じるものの10分も経たずに「もういいよ、十分だ。ありがとう」と終わるのだった。全然お返しにならなかった。
父は母方の祖父(父にとっての義父)の体もよく揉んであげていた。母方の実家を訪れると、よく。
祖父が父に頼み、父はそれに応じて揉むのだった。頼まれてくるぶしやかかとの角質を剃刀で削ぎ落すこともよくやってあげていた。
「あふぅ~あふぅ~」と祖父が気持ちよく腰をマッサージされていたのをよく憶えている。
そんな祖父だが、当初は父を気に入ってなかったらしい。
母との結婚を歓迎されたい父が、好かれていないことにめげずに母の実家に通い詰めて遂に好感を勝ち取ったらしかった。
そこはガッツを見せたみたいです、うちの父。
ここまでの父パートを読んで「いいお父さんじゃないですか!?」と思った方もおられると思う。
でも成人してから母に聞かされたのだが、父は母との結婚後に「かけ落ち」して失踪したらしい。
姉が生まれる前だったのか生まれた後だったのかは忘れた。それは聞かされなかったのかもしれない。
このかけ落ち失踪話は姉も知っている。
父は長男ではなかったが、新婚の父と母が一時期父の実家で暮らしていたと聞いたことがある。
夫の実家に同居している時に、夫が自分を捨てて誰か知らない女とかけ落ちして失踪したのだとしたら。
その時の母の心境はどんなものであったか。
母が父のことで私によく愚痴っていたのも「そりゃそうだよな」って、今なら思う。
母がこの先もし認知症になり(母方の祖母がそうだったように)自分の夫のことを罵り気味になっても、母を責める気持ちにはならないでおこうと思う。
ちなみに、失踪し隣県に潜伏していた父を見つけ出し連れ戻してくれたのは私にとっての伯父だった。父にとっての義兄。
この伯父さんは私には優しかったが、時代からか自分の妻に手を上げる人だったらしく、娘(私にとってはいとこ)から嫌われていた。
「お母さんに手を上げるなんて許せない。大嫌いだ。こうきち、あんたのとこのお父さんはいいよね。私の理想。理想の父」
いとこのお姉ちゃんはそう言ったが、「うちのお父さんはうちのお父さんで色々あるよ。お母さんに手は上げないけど。でも家族にしかわからないことが家族ごとにあるはずだよ」と思った。
そう思ったが、面倒くさかったので言わなかった。
妻さんに手を上げるのは私も軽蔑するが、でもその伯父さんは恩人。私が息子として所属していた一家にとっての恩人であることは間違いない。伯父さんが父を連れ戻してくれていなかったら、私はこの世に存在していない。
(そして、わが妻子だって私に対して色々思うところはあるだろう。その家のことはその家の者にしかわからないのだ。)
違う話をする。
幼かった頃の私はおとなしい子だった。
(当時の価値観からすると男の子らしさに欠けるとされ、通知表に毎度毎度「もっと活発に」と書かれるような子だったのだ。)
両親がそれを心配したのだろう。
私が小学校の2年生だったか3年生だったか。父の独断だったのか母も賛同してのことだったのか、私はある日曜の朝に突然父から「今日からスポーツチームの練習に行ってこい」と言われた。そしてしぶしぶ参加した。
私はおとなしいだけではなく、運動神経がとても悪かった。
そのスポーツチームに参加するのは嫌だった。その時の私はそのチームで一番年下だったが、それを差し引いても自分が下手過ぎることは自分でもわかった。
私はスポーツをさせられるのが嫌だった。
学年が上がり同級生が入部してくるようになり、6年生になって試合に出られるようになると、正直に言えばこのスポーツチームでの活動は楽しかった。
でも、この時の強制入部。あれは地獄の門をくぐらされた瞬間だったなと今思う。
小学校4年時のスポーツテストで学年ワースト4を記録した鈍足の私。そんな私がスポーツの道を歩み続けるきっかけになったのは間違いなくこの時の強制入部だった。
中学でも高校でも、そこで運動部に入部したのは私自身の意思だったので責任転嫁してはいけないが、「小学校低学年のあんなタイミングで無理にスポーツをさせようとしなくても良かったのでは?」という思いが私の中にずっとあったことはここに書き残しておきたい。
あ、そうだ。
時系列で言えば、スポーツチームへの入部を言い渡される前のこと。
私は母からこう言われたのだった。
「あんたは姉ちゃんと違って根性がないねえ」
夕食の支度で台所に立っていた母が、その手を休めることなく向こうを向いたままそう言った。
苦笑いしながらなのか、失望に満ち満ちた顔なのか、向こうを向いたままの母からはわからなかった。
逆上がりのことを言われたのだ。
姉は「できるようになりたい」と小学校のグランドに残って練習していた時期があったらしい。
私は逆上がりができなかった。
小学1年生だったか2年生だったかの体育の授業、逆上がりのテストの時。
「できないのはわかっているので今ここではやりません」とテストを拒否した私。
授業中に一度も挙手しないような子どものくせに、笑われたくなくて強く意思表示した私。
結局やらされて皆に笑われたのだが、テスト拒否のことを先生が電話で伝える等したのだろう。
恐らく、「練習してみたら?」という母の言葉に対して「逆上がりなんかできなくても別にいい」と、私はそう言ったのだと思う。
強がりでも負け惜しみでもなく、当時の私が素直な気持ちでただただそう思ったのではないか。
それに対しての母の言葉が「あんたは姉ちゃんと違って根性がないねえ」だったのだ。
奮起を促したかっただけかもしれないが、何も言い返せなかった。
台所に視線を向けたその時の光景をいまだに忘れていないということは、私としてはショックなことだったのだと思う。
ただ、両親は私が本が好きだったり絵が好きだったりする面も認めてくれていて、二週間に一度の日曜日ごとに市立図書館に連れていってくれた。父が運転する車で。
母が父に強くお願いをしてくれた結果であることに間違いはない。
毎回限度いっぱいまで紙芝居や本を借りるのは私の大きな楽しみだった。
もっと小さかった頃の、夜寝る前の母の読み聞かせの時間も好きだった。
そういう時間を設けてくれていたことは憶えているのだが、映像としての記憶が脳内から消えていて、それが少し残念だ。
幼稚園児の頃、その年代の子特有の「これはどうして?」「これはなぜ?」という私の質問攻めに対して母が根気よく相手してくれていたことはなんとなく憶えている。
母は決して冷たくはなかった。
幼稚園児の頃、冬の夜中に目が覚めて布団が乱れている時は必ず母を起こしにいって布団を整えてもらっていた。
母が整え直してくれた布団に入るのがうれしかった。
母としては「夜中だよ~。勘弁してよ~」という思いもあっただろうが、私にとってはうれしい時間だった。そのことはよく憶えている。
子どもの頃から私は自分のことを部分的にはまあまあ魅力的な人物だと思う程度の自信はあった。
でも、本物の自信ではなかった。
運動神経が悪いのにスポーツの道を歩んでしまったことで、駄目な自分を直視させられる時間が多すぎて、自分で自分を認めることができずにいた。
常に何か苦しい。
心理学者の本を読み、記憶を手繰り寄せながら事実のかけらを積み重ねるうちに、「果たして、私の誕生は歓迎されていたのだろうか」という思いすら抱いた。
父のかけ落ち。生まれた日のこと。私には無く姉にはあったボロボロ写真のエピソードのこと。
そんなある日、既に成人だった私は知人に言葉をもらった。
「『どうしてこうなったのかではなく、これからどうなりたいのか』、お前の場合はそれに目を向けるべき時期に来ているのではないだろうか」
その時の言葉には含まれてなかったが
「そうじゃないともったいないぞ(お前、いいもの持っているんだから)」
そういうニュアンスで言ってもらえたように思う。
目からうろこが落ちた。
「ああそうか。そうしよう」と思った。
なぜ自分はこんななのかを分析するために親の過去の言動の非を思い出し親を責める自分ではなく。
今すぐは無理かもしれないが、いつかは親に対して心から感謝できている自分になりたい。
私の場合は実際にそれだけのことはしてもらったはずだ。
そして、「どうせ自分は…..」とグズグズするのではなく、「なりたいのなら、なろう」と思える自分になろう。
そう思ったのだった。
知人からのその言葉のおかげで。
今思うに、よくよく考えてみれば、私のコンプレックスを具体的なものに集約させると、私の問題はほぼ2点に絞られていた。
私の場合の恋愛の対象である、女性との関係。
運動神経の悪さ。それを指摘され笑われることへの不安。
私は女性と特別な良い関係になれるその日をまるで想像できなかったのだが、そんな私にもある日彼女ができ、女性に関してのコンプレックスは消えた。うそのように消えた。
そして、結婚もできた。子どもも授かった。
若い頃、こんな自分が子どもを育てられるとは思っていなかったし、私のような人間を再生産するわけにはいかない、私の子として生まれてくる子に申し訳なさ過ぎる。そんなことは望めない。ずっとそう思っていた。
でもそんな私が心から子どもを望み、この手に抱けた。
運動神経については、高校時代に途中で投げ出した競技に、高校ではない新しい環境で再挑戦した。
筋トレに励み肉体改造をした。
身の丈レベルではあるのだが、リーグ戦を経た上でのポジションごとの最優秀選手に選出され、スポーツ方面において人生で初めてもらったその客観的高評価によって、運動に対してこれまで抱えていたコンプレックスがうそのように消えた。
そして今、集団スポーツや運動とは無縁の日々を送っている。
運動神経の悪さのせいで傷つくことは、今後の人生ではおそらくもうないだろう。
もう中年なのだ。何かができなくても、今後はもう年のせいにすればいい。
ここまでお読みいただき、「たったこれくらいのことで?」と思っていただけたのだとしたら、それはそれで良い。
もっとひどい境遇で育った人は、それらを憎みたいという気持ちがあるのであれば、心置きなくそれらを憎めば良いと思う。
私の場合は、女性との関係、運動方面、自分が自分であること、結局は全て正面から克服した結果、心穏やかな日々を手に入れた。
でも、これは(自分で言うのもなんだが)まれなのかもしれない。
自分のことを嫌いなままで生きていかざるをえないケースは多々あるらしい。
「近年の『自分を好きになりましょう』の圧、しんどいですよね」
ヨシタケシンスケさんほどの成功者がインタビュー記事の中でそう語っていた。私は自分を好きだとは思えていないのです、と。
何かが少し違えば、私だっていまだに苦しみ続ける日々だったかもしれないのだ。
「自分のことが嫌いで、どうしようもないんだよ…..」と今そんなふうに深刻に苦しんでいる方は、ヨシタケシンスケさんが携わっているWEBサイト「かくれてしまえばいいのです」をお訪ねになると良いかもしれません。
そこには何かしらの救いがあると思います。
今、私はしあわせです。
仕事のことでは不甲斐なく会社に行くのが憂鬱なそんな駄目な中年だが、こんな私を愛してくれている妻子がいる。
高校時代は特に「自死」の選択肢が強く念頭にあった私。近所に住んでいたちょっとだけ年上のやさしかった少年が先に自死してしまい、死ぬに死ねなくなった私。
その少年の父親と私の父は知り合いだった。通夜か葬儀の後、父がその少年とご両親のことを思って母と会話をしていた。
「当たり前だけど、〇〇さん、力を落とされててなあ.....」と。
その会話を聞いたことが、その後の私が自死を踏みとどまる要因になっていたように思う。
こんな感じで生きてきた私だが、今、しあわせです。
若き日の私と同じような日々を送っている若者の中には、そういう光を求めている人がいるかもしれず、自慢になってしまうことはわかっていたが、最後にこれを書いた。
最後まで読んでくださった方へ。
ありがとうございました。あなたに幸あらんことを。
はるのこうきち
※最初の方で書いたことをもう一度記載させてください。
私は両親を断罪したいわけではない。
産み、育ててくれたことに感謝している。良い親だったと思っている。
自分が親になったからこそわかったことだが、子を成人させることは大変なことだと思う。
私が現状そうだということもあり、収入の主を担っていた父にまず敬意を表したい。子を成人させるまでよくぞ給料を持ち帰り続けてくれました、と。
でも、それ以上に母は頑張ってくれたと思う。子どもために。
子どものために頑張り続けてくれたと思う。ありがとう。
二人に、ありがとう。
