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3年ぶり!グラフィックで解説!「これぐらいできないと困るのはきみだよ」?

久しぶりにnoteを更新します、はるです。

こちらも久しぶりにグラフィックを用いて読書ログをつけた僕なのですが、なぜ今さらグラレコを使って、なぜこの本『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』(編者:勅使河原真衣、東洋館出版)の記録を残そうと思ったのか、少しだけ書いた上で、後半に解説に入りたいと思います。


この本をグラフィックしようと思った経緯

2024年に明確に立ち上がってきた自分のテーマが「正義とケア」でした。
2023年、ネガティブケイパビリティについてもう少し思考を深めたいと思い、途中で一度読むのをストップしていたこの本を読み直したのがきっかけでした。

恐ろしくよかった。「ネガティブケイパビリティ」に関して3人の哲学者たちが、対談をしながら深めていく本なのですが、多様な角度で、かつ専門的な視点がつながっていく心地のよい文体。そして何より、自分とほぼ同世代の哲学者たちの知識量や視野の広さに、嫉妬と羨望と焦りを感じました。そんな必要は全くないのにw
そこから、著者3人の本を色々読んでみることになるのですが、(どの方の本もお薦めしたい本はたくさんあるのですが今回は割愛します。)その中で、朱喜哲さんのこの本がテーマ「正義とケア」につながる源流となりました。

ロールズの男性性的な自由と平等と格差の是正から、ローティーの会話を続けることの大切さまでを丁寧に解説してくれている本です。中でも、個々人の正義(正しさ)を認めるだけでなく、コミュニティにおける正義の合意に至る公正の場を作り出すことの必要性についての言及が僕には響きました。

そしてここから2021年に読んでいた「正義とケアの現代哲学」を精読することになります。当時は、さくっと読んでいた内容を3年経って読み返すと教員としてやってきた人生に、補助線を引いて振り返ることのできる理論が盛りだくさんでした。小学校で働き、企業で違う形で働き、再び教育現場(中高)に戻ってきたので、自分の小学校教員としてのあり方や実践がどこまで中高という現場で活かせるのか知りたかった部分もあったのだと思います。

この3冊からインストールされた視点が、自分が歩んできた教員としての過程や現代社会の見通しの持てない情勢と重なり、2024年、明確に「学校組織の解像度を正義とケアの視点で捉えて、深め、クリアにしていく」というテーマが立ち上がってきました。

「正義とケア」という概念は、元々、対話を大事にしたいと思って、葛藤しながら実践してきた自分の中に、昔からうっすら存在し、人生の転機を経て、このタイミングで立ち現れたと言っていいと思います。ケアという言葉に定義されましたが、その界隈にある言葉にはずっと触れてきていました。一方、正義という言葉のもつ仰々しさは苦手で、教員になってから正しさを盾に子どもの前に立つ自分にも葛藤していました。でも周囲から(周りの先生、一部の子ども達)は求められているから一定の正しさは必要とも感じていて、それをどう子どもたちに納得してもらうか、自分に落とし込みどうバランスを取るかの戦いでした。

そんなプロセスを経ての探究なので、今、エネルギー値、高いです。

そんなこんなで、仲間たちと、本を事前に読んでこなくていい、「これくらいできないと困るのはきみだよ」?の世界最速の読書会を開催しました。当日の内容は、参加者の大森ちゃんがまとめてくれています。このイベント後、しっかり読みたい熱が高まり、一気にグラフィックに落とし込むことになりました。

なぜこの本だったのかですが、ケアに関する本を様々読み進めていくと、ケアはその性質上、福祉、教育、看護など対人援助の分野で語られることが多く、そこには「できない人」「できなくなった人」へのケアが例に挙げられることが多くありました。でも、ケアってそれだけじゃないはず。僕にはこの疑問がずっとありました。どうしてもこの「できない」が多く取り上げられがち。では、その「できない」とケアとの関係を構造的に理解する必要があると思っていました。そして、この「できない」とケアとの関係に対して、眼差しを深められていたのが、能力主義の脱構築に挑戦されている勅使河原真衣さんのこの本だったのです。

探究を進めている時のエネルギー値高い僕は、自分に合った方法で、思考の整理を一気に進める癖があります。その1つが、今回のグラレコでの読書ログです。グラフィックを自分から発信することは手放していたのですが、この表現方法自体は、自分に合っていて、自分が必要と思う場では、活用していました。

では、1章ずつ僕の主観と関連資料を交えながら解説(というより解釈)していこうと思います。
以前に書いた進化思考の記事では、本の要約でしたが、今回は、自分の探究の過程なので、一部要約+自分の考え+関連資料などをつけて解釈したものだと思っていただければ。それでは僕のこの本の解釈を書いていこうと思います。


第1章:声を聞かれることー野口晃菜×勅使河原真衣ー

1章

この章の根底にある問題提起は、「能力」は個人が所有しているというよりも、環境との関係性の中で立ち現れて発揮されていくのではないか?ということ。
この点に関して、特別支援の専門家である野口晃菜さんによる合理的配慮の説明がわかりやすい。
合理的配慮とは、子どもたちの学ぶ権利を保障するために、社会にある障壁を解消していく過程。ここでは、環境のアセスメントが大事になってきます。対比されるのは、個別的支援。こちらは、一人ひとりへの個のアセスメント。どちらも大切ですが、インクルーシブな社会を目指す時に大切にしたいのは、合理的配慮の背景に存在する障害の社会モデルの達成です。
この障害の社会モデルは、他の章でも通底し、勅使河原さんが取り組んでこられた組織開発の文脈にも共通します。障害は、個人の中にあるのではなく、社会の側にあるから、社会の障壁を明らかにして、それをなくすためにどんな合理的配慮ができるか。この順序が大切。
ちなみに合理的配慮という単語は、日本語訳がまちがったイメージを与えがちな言葉で、配慮という言葉を使用するから個の資質の話になりがちだという指摘が出てきます。配慮というよりも合理的環境調整。この指摘は、日本財団の記事にも出てきますので、ご参照ください。

そして、もう1つの問題提起が、現在の学校文化に存在する「こうせねばならぬ圧」に葛藤する現場の先生たちへのアプローチについて。
成り手不足の学校教育の現場で、1人で学級をうまく回さねばならない先生たち。上手く回せることが指導力の高い先生だと思われる。そうすると、指導力=子どものコントロールや支配になってしまう。本当は、こうありたいとは思っていない先生たちばかりなのに。だから、抑圧されている先生の現状、葛藤している先生たちの心情を考慮し、先生たち自身の声が大事にされる支援をする必要がある。新たな抑圧と葛藤を生まないためにも、学校に入るときは専門的知識を一方的に伝える専門家ではなく、様々な人を繋ぎ、その学校の先生たちをエンパワーできるような立場で入っていく必要がある。現場の先生たちが視察に行って、自分達が抑圧されていることに気づき、さらに対話を通してもっとワクワクするやりたいことを増やすことができるような支援をする。先生たちが自分を生き直すためのアプローチ。

晃菜さんは、傷ついているマジョリティを教育できるのは、マジョリティの役割だということを大事にして、学校が変わっていくことに寄与されています。

野口晃菜さんのプロフィールや活動等はこちらから。


第2章:学校でケアし、ケアされるということー竹端寛×勅使河原真衣ー

2章

この章の問題提起は、今あらためて必要とされている教師の専門性とは対象者がエンパワメントされるように支援するスキルではないか?ということです。生成AIの登場で、かつてプロフェッショナルといわれてきた弁護士や医師の職能が限界に近づいている。一方、セミプロフェッショナルと言われていた教師や看護師やSSW(ソーシャルスクールワーカー)などが身につけてきた対象者がエンパワメントされるように支援するスキルが今、必要になっているといいます。しかし、学校現場には、教科教育こそが職能と思われていて、ここで教員は評価をされています。それが、20世紀型の教師のプロフェッションであるそろえる・整える・まとめるに表れていると。これができる教員が高い評価を得ている。そして、これ以外の対話の方法を知らない学校文化に対して、オープンダイアログで大事にされる、「今ここ」「不確実性への耐性」を挙げ、場の力を信じ、先生だけで作り込む授業を手放し、子どもたちと共に分からないことを考え合うことの大切さを提案されています。

そしてここで出てくるのは、マッチョ問題。学校以外の組織でもそうですが、現行の文化の中で、必死に歯を食いしばって頑張り、静的評価(一側面からの固定的な能力評価)を勝ち上がってきたマッチョマンたちが、組織の中に存在し、分からなさをともに考え合う文化へのシフトを阻んでいるのではないかという指摘。この背景にあるのは、マッチョな先生達にある恐れ。マッチョマン達は、もうこのままでは上手く現状に太刀打ちできないと分かっていながらも、他のやり方を知らない恐れから、そろえる・整える・まとめるを維持しているのではないかと。
だから、この現状を打破するためにそんな先生たちが、先生になぜなろうと思ったのかなど当初持っていた自分なりの物語と教員の立場での学校での自分の物語を接合する必要があるはずだと。

この辺りは、ナラティブアプローチに関連する本にその実践とケアの概念がまとめられていますので、僕が学校組織とビジネスの両分野の視点で読んで、印象深かった以下の2冊をあげておきます。また、探究を進めているケアに関するBOOKリストは現在まとめ中なので、今月中にはアップしようと思います。

もう1点、僕がこの箇所を読んでいて思い出したのが2loopsという変革のセオリーでした。システムは生まれ朽ちていく。既存のシステムが終わりを迎える前に、すでに新たなシステムは誕生し育まれている。そこへの架け橋をどう掛けるか。オールドパラダイムにいる僕自身が今、取り組みたい部分でもあります。

本章に戻ります。恐れを抱き、傷ついてきた先生たちに今必要なことは、実存とつながり直すこと。1章でも出てきた、先生たちが自分を生き直すためのアプローチですね。この章では、1章よりも踏み込んで提案がなされています。それが、先生達が、現状を鵜呑みにしない別の可能性を想起できる批判的な主体として生きること。ねばらならないの道徳に縛られるのではなく、自分軸の倫理で生きること。そのために、必要なことがJust listen.と観察(アセスメント)。聴いたり、観たりして、仮説を立て検証し、フィードバックをすることは、相互変容を起こします。マッチョマン先生がうけた固定的な静的評価に付随する恐れを脱しるためには、マッチョマン先生が傷つきを認めることから始まります。そして、日々のあらゆる場面でフィードバックをお互いに行い動的評価にシフトしていくことが組織を変容する道の一つです。一緒に面白がって変容していく。静的なパターン認識ではなく、一人ひとりの実存に応じたパターンをその場で組んでいく。

竹端寛先生のご紹介のHPはたくさんありますが、僕がベンチマークしている竹端先生ご本人のブログをご紹介。いつも示唆をたくさんいただいています。ありがとうございます。


第3章:学校がそうせざるを得ない合理性を追ってー武田緑×勅使河原真衣ー

3章

第3章は、DE&Iを実践されている武田緑さんのお話。この章での問題提起の1つ目は、平等主義の影に隠れて公正が実践されていない現状をどうにかしたいということ。
現場の先生達と作成されている「学校の正しさカード」(表に学校での正しさが押しつけられている事例、裏にはその正しさを苦しいと感じる子ども達の声)を生かして、現場にある正しさやついついジャッジしたがる現状についてどう扱うべきかが書かれています。現在学校に存在する善し悪しを
全て相対化していくと、苦しむ子どももいるからどちらかに振り切るのではなく”いろいろを持ち寄って対話すること”の重要性をあげます。そうすることが、誰かのしんどさの軽減に繋がったり、正しさの暴力性を下げることになると。

僕自身のテーマは「正義とケア」ですが、場づくりに関わってきた身としては、自ずとケア先行で探究がスタートしています。一方で、正義の本当の必要性とその扱い方は、まだ知見が足りません。この辺りをもう少し深めたいところなので、緑さんの取り組みにとても心を惹かれました。学校にも社会には、正義もケアもどちらも必要。ただ、それらが息苦しくならないような工夫は欠かせません。このあたりのバランスが先生方のそれぞれの教育観を生み出しているような気がします。

緑さんの感じている課題観の根底には、学校が変わるには、同時に社会も変わる必要があるという考えがあります。学校の先生達の支援や指導には、どうしても社会がこうだから!やイメージ上の一般企業などがあります。そうすると先生達の考える社会観は固定的なものになりがち。この観が前提にあると、学校文化の中に、学校では全力でやらなければいけない問題や様々なことに対して先生に許可をもらう問題などが生じます。日本の学校に存在する態度主義の問題です。本来なら社会は、もっと”いろいろあり”可変的です。管理コストを重視して平等主義に陥っていては、いろいろをそのまま受容し、個々への環境調整をする公正には行きつきません。

他にも公正に行きつかない背景には、話し合いを経ずに、平等に接することの方が効率的で、クレームを防げるというマインドがあります。話し合いの成功体験を積んでいないことが先生達の中でも大きいのです。

そこで、大事なのが、高ストレスな構造下で、抑圧されている先生達がその抑圧と自分のニーズに気づくこと。第1章でも出てきたことです。自分自身が望むものを知ることができた先生は、子どもたちや同僚の先生達のニーズも尊重できるようになる。まずは、自分が受け止めてもらえて、自己のニーズは立ち上がる。その入り口になるのが、承認と感謝なのだと。

僕の話で恐縮ですが、組織開発でも、そうですよね。いきなり外部の人から組織の課題を列挙されてそれを変えるべきだと圧をかけられても、あまり上手くいきません。仕事柄僕も、様々な組織にグラフィックで入らせていただいたので身に染みてわかります。それよりも、現場で頑張られてきた人への感謝と、傷つきへの共感からスタートし、ともに変わっていくための仲間というスタンスで組織に関わることの方が、長期的に見て成果を出します。変えようとするのではなく、一緒に変わる。組織開発の中での、対話の質が変わる時ってそんなマインドを参加した方がもてた時でした。

話は本章に戻ります。承認と感謝に始まり、現在置かれている構造を対話で探っていくプロセスが大切。ただここで気をつけたいのが、誰がこの対話のテーブルに着くかという問題です。これがこの章の2つ目の問題提起だと思います。多くの組織が、言語優位で戦略的に勝ち抜いてきたマッチョマンたちが対話のテーブルに着く。そうすると、パワーのある側が特定のものさしで人を測るというゲームに変わりはない。ここに自覚的になること。大事なことは、ニーズから始めることや、ニーズのふたを開ける環境をつくること。これは、学級でも同じです。WHYから始めがちな社会において、存在そのものから始めること。そこから始まる応答的なかかわりが言語優位なマッチョな社会だけでない、ことばにならないものを大切にする社会をつくっていきます。

能力という社会に要請され、規定されたものではなく、個人がどうありたいかどうしたいかからスタートし自ら獲得に向かう機能としてのスキルを見つけていくこと。そのための順番として、先生たちが揺らぎの中でも正直でいること。これが、DE&Iな社会を作るスタートです。

武田緑さんが立ち上げられたDemo。そして全国の先生達の声を届けるためのプラットフォームSVP。ぜひ、ご覧ください!

第4章:言っても、癒えない?学校という職場でー川上康則×勅使河原真衣ー

4章

この章の問題提起の中心にあるのは、教師の仕事の本丸と働き方改革。今、学校が置かれている現状どうなのよ!という話。僕自身も小学校の教員時代、多大に影響を受けた川上先生ですが、今回も物事の背景にある現象を丁寧に解説してくださっており、学校現場で働く僕にとって、共感ばかりでした。

川上先生は、教員には、大きな焦りと使命感があるといいます。そこから生まれるのが、これくらいできないと困るよ!というパターナリズムに基づく
価値観であり、できていないのならできるよう指導する使命感だと。使命感から行うことはダメ出しになる。これが、今は子どもに対しても、同僚に対しても行われているのが学校であり、逃れられなさを生んでいる。

また、揺らぎある人間像を認めることが難しい学校という場。2章で述べられていた静的評価とリンクする部分です。太陽に照らされて光る月のように、今見えているのは一部分だけ、まだ表面に出ていないものがあるという評価や見取りの考え方ができると、思い通りにならない毎日が楽しくなる。

顕著なパターナリズムの例として挙げられているのが、ずっと変わらない学校教育目標。そして校内研修のテーマ。「こうあった方が、あなた達のためだよ」という無自覚な熱心な無理解者である先生達によって日々実施されることでパターナリズムは無くならない。

社会の側も今は、56のスキルなどを定義しているし、学生も汎用的能力を求める傾向にある。本当は、みんな凸凹でよくて、それらがチームになって真価を発揮すべきなのに、このままでは、どんどん個が小さくなっていく。

教員のパターナリズムや焦りの背景には何があるのか。1つ目は、恣意的なタイミングでの評価です。年間3回もの評価は、そこで恣意的に子どもを評価さざるを得ない。2つ目は、原則年度でしか担任できないこと。これもまた、この1年間でなんとかしなければいけないという使命感や焦りにも繋がっています。
3つ目は同僚間での他者評価の存在です。自分の元でおさまっていた子ども達が、次の担任のもとで荒れ、自分が他の先生から責められないように3学期は厳しく接するなどの現状がありますが、これの背景にあるのが他の先生からの自分の評価が低くなることを嫌がり、出てくる子どもへの圧。これは、教師の都合で子どもをコントロールしていることそのものです。他者評価というよりも、曖昧な基準のため評判に近く、教員は評判で動いているという事実が学校組織には存在します。

教員が、他者評価や評判から逃れるためには、評価や情報の全てを内面化せずに、テヘペロ的にやり過ごすスキルを身につけ、自分で自分の軸をもつということが大切になるといいます。

ただし、ここにも学校特有の問題があります。それが、教員に言行一致・一貫性・真面目の内面化を強く求める観念が存在するということ。これらが、テヘペロを許さない文化を生み出しています。本来は、過度な一貫性を自分自身に課すのではなく、子どもに合わせた一貫性を持つべきです。これは、第3章の公正の実現にあたると思います。

本来、教師の専門性は、子どものことを観るはずなのに、働き方改革の中で扱われる内容として最も遠い部分になっているのが今の学校の現状です。コントロールのための、形式的なそろう・整う・まとめるではなく、子ども達の異質性を観て、内面としての安心感をそろえたり、異質なものとの共存の感覚をそろえたりすることに移行していく必要があります。そうすると、子ども達も、圧を逃れ、やりません、できませんを安心して言えるようになるのです。

言えないから癒えないではなく、教師が言うことから始めたいというのがこの章の提案の一つです。

そして、専門性の本丸に居続けるためにも、手を抜くための働き方改革にならないためにも、目の前の子どもから学び続ける姿勢を教師は持ち続けること。自分の軸・領域をもって、子ども達と日々向き合っていくこと。それがこれからの教育の小さな希望です。

川上先生は様々な媒体に記事を掲載されていますので、今回は光村図書の連載記事を掲載しておきます。川上先生のSNSの投稿もおすすめです!

最後に

以上4章分をまとめてみました。
正義とケアの視点を深めていくためにも、2025年は、時折こういうグラフィックでの解説記事も書いていこうと思います。

今回、この本を読んで感じたことや考えたことは、今、仲間達と発行している雑誌ハコールに掲載しようと思います。また、そちらも読んでいただける人がいれば嬉しいです。


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