「ちゃんと考えた」は、まだ半分
授業の最後にリフレクションを書いてもらうと、ときどきこんな学生に出会います。
「ちゃんと考えました。」
話を聞くと、確かに頭の中ではいろいろ考えています。しかし、紙にはほとんど何も書かれていません。
学生にとっては、「考えられた」という実感があるので、それで一区切りついてしまうのでしょう。
でも、それは本当に「考えた」と言えるでしょうか。
現場の先生方にも、同じことが起きている
最近、これは学生だけの話ではないと感じるようになりました。
学校では、授業参観をする機会はたくさんあります。
ところが、その後の授業検討会になると、「今日は勉強になりました」「○○先生、すごかったですね」という感想だけで終わってしまうことがあります。
さらに、検討会が終わったあと、自分の気づきを文章として残す先生は、案外少ないのです。
研究会後のFacebookなどを見ても、
「良かった!」
「めちゃ盛り上がりました!」
「刺激を受けました!」
という投稿はたくさんあります。
もちろん、その感動は本物でしょう。
しかし、「私は何に気づいたのか」「なぜそう感じたのか」「自分の実践にどうつながるのか」まで書かれた投稿は、それほど多くありません。
これは、とてももったいないことだと思います。
言葉には「内向き」と「外向き」がある
ここで、少しだけ言葉の話をさせてください。
私たちは、頭の中でも言葉を使って考えています。声には出さない、自分だけの言葉です。心理学では、これを「内言(ないげん)」と呼びます。
一方、声に出して話したり、文字に書いたりする言葉。つまり、他者に向けて外に出す言葉を「外言(がいげん)」と呼びます。
内向きの言葉と、外向きの言葉。
この区別を使うと、リフレクションには少なくとも三つの段階があることが見えてきます。
① 頭の中だけで考える(内言)
② 話して外に出す(話し言葉による外言)
③ 書いて外に出す(書き言葉による外言)

①は、自分の中で考える段階です。
②になると、自分の気づきを他者に伝えようとするため、考えは少し整理されます。他者との対話によって、新しい視点も得られます。
しかし、話し言葉は、その場の勢いや印象に引っ張られやすいという特徴があります。
一方、③の書き言葉になると、事情が変わります。
文章にしようとすると、
「私は何に気づいたのだろう。」(気づき)
「なぜそう考えたのだろう。」(プロセス)
「その背景に何があるのだろう。」(背景)
と、自分自身に問い返さざるを得ません。
つまり、書くことそのものが、思考をさらに深めていくのです。
では、なぜそうなるのか。
この三段階の背景を、はっきり示してくれた人がいます。
ヴィゴツキーが教えてくれたこと
心理学者のヴィゴツキーは、『思考と言語』の中で、こんな趣旨のことを言っています。
思想は、言葉で表現されるのではない。言葉において完成される。
考えが先にできあがっていて、それを言葉に写すのではない、という意味です。言葉にする過程そのものが、考えを仕上げていく。
では、内言はどうか。
ヴィゴツキーによれば、内言は極度に圧縮された言葉です。主語が落ち、述語だけが残る。自分は話題を知っているのだから、わざわざ主語を言う必要がないのです。
つまり内言は、自分にだけ通じる言葉です。
だから学生の中に「ちゃんと考えた」という実感が生まれます。本人の中では、たしかに通じているのですから。
面白いのは、ここからです。
ヴィゴツキーは、書き言葉をこの内言の対極に置きました。内言が最も圧縮された言葉なら、書き言葉は最も展開された言葉。目の前に聞き手がいない。状況の助けもない。だから、すべてを言葉にするしかない。
話し言葉は、その中間にあります。相手がいて、場があるから、圧縮したままでも、なんとなく通じてしまう。
私の感じていた三つの段階は、この「圧縮から展開へ」という軸の上に、そのまま並んでいたのです。
だとすれば、リフレクションを書くとは、何をしていることになるのか。
自分にだけ通じる言葉を、誰にでも通じる言葉まで展開しきる。その展開の途中で、考えははじめて完成する。
「書き言葉による外言」が思考を再構成するというのは、そういうことなのだと思います。
リフレクションを書く意味
だから私は、学生に「ちゃんと考えたなら、それを書いてみよう」と伝えています。
そして、それは現場の先生方にも同じことが言えるのではないかと思っています。
授業を見た。
話し合った。
盛り上がった。
そこで終わってしまうのは、少し惜しい。
まだ、考えは圧縮されたままだからです。
最後に数分だけでも、
「今日、自分が本当に気づいたことは何だったのか。」
を書いてみる。
その数行で、考えははじめて完成します。
それが、次の授業を変える力になるかもしれません。
リフレクションとは、「記録」を残すことではありません。
書くことによって、自分の思考をもう一度育てる営みなのだと、私は考えています。
(参考:ヴィゴツキー『思考と言語』新訳版、柴田義松訳、新読書社、2001年)
