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◆ 自己紹介編・第2章 〜「進学したい」って言っただけなのに。〜

“高校を出たら働くもの”と信じられていた家で、
人生を選びたくて泣いた、あの夏の話。

求人票を見て、ゾワッとした。
「このまま流されたら、終わる」って思った。
進学したいって口に出したら、泣くことになった。

家族に言われた言葉も、自分の声も、ちゃんとは覚えていない。
でも、“ここで折れたら一生後悔する”という感覚だけが、頭の中に残っていた。



僕が「ものづくり」に興味を持つようになった原点は、小学生の頃に見ていた父の背中にある。
父は、印刷物の元になる“製版”の仕事をしていた。

仕事場には、赤い灯りが灯る現像室のような暗い部屋があり、
そのそばには、蛍光灯で下から照らされたガラステーブルがあった。
父はそこに現像されたフィルムを慎重に並べ、何かを確認するように作業していた。

薬品のような独特の匂いと、静けさの中で淡々と働くその姿が、子どもながらにかっこよく見えた。

そんなある日、その場所に真新しいMacが導入された。
白くて丸みを帯びたフォルム――当時の僕には、それが何をする機械なのかはわからなかったけれど、
あの空間に突然置かれたことで、「何かが変わるかもしれない」と思わせるだけの存在感があった。

父がそのMacを実際に使っている記憶はあまりない。
でも、アナログの風景の中にデジタルの空気が入り込んできたあの感覚が、
自分の中ではっきりと記憶に残っている。



ちょうど「IT革命」なんて言葉が世の中で取り上げられ始めた時代だった。
テレビや雑誌でも、「これからはコンピューターの時代だ」なんて特集があった気がする。

当時の僕は、小学生ながらに、社会が大きく変わろうとしている空気をどこかで感じ取っていた。
そして、父のように表に出るわけではないけれど、
“誰かの仕事を下支えする”ような役割に自然と惹かれていった。

それは、いつしか「IT分野の仕事をしてみたい」という憧れに変わっていった。
目立たなくても、確かにそこに必要とされる仕事。
そんなふうに、人の営みの裏側を支えるような働き方に、自分の居場所を見出したかったのかもしれない。



思えば、小学校高学年の頃から、家の中の空気には少しずつ歪みが出始めていた。
それが目に見えるような形になっていったのは、中学2年に入ってからのことだったと思う。

中学1〜2年にかけては、一人で過ごす時間がとても多かった。
考えごとばかりが堂々巡りして、気づけば外の世界とどこか距離ができていた。
机に向かう気持ちなんて、どこにも湧いてこなかった。

そして中学2年の後半には、父方の祖父母の家から中学校に通うようになった。

今にして思えば、
当時の家庭は、今の時代だったらスクールソーシャルワーカーのような人――
子どもの心の動きや生活の変化をそっと汲み取る支援の専門職――が
関わっていたかもしれない。

そう思うくらいには、家の中のことも、僕自身の状態も、静かに、でも確かに不安定になっていた。



そして中学3年の春、
僕は父の姉の旦那――義理の叔父のもとに引き取られることになった。

「もうひとり子どもが増えたと思えばいいよ」
そんなふうに言って迎え入れてくれたことは、今でも心に残っている。
あの一言に、どれだけ救われたかわからない。

中学3年から高校卒業まで、僕はその家に“下宿”するようなかたちで暮らすことになる。

生活が厳しかったわけではない。むしろ整っていた。
けれど、実の家族ではないという距離感は、やっぱりどこかにあった。
相手にとっての“当たり前”が、自分には少しずつ重く感じられることもあった。

最初の頃は、慣れない環境で気を張ってばかりで、
食事のあとにこっそり胃薬を飲んでいたこともあった。

でも、その暮らしの中で、
「今の自分にできることは何か」と、少しずつ自分自身に問いかけるようになっていった。
「せめて、やるべきことをちゃんとやろう」
そんな思いが、日常の中に静かに芽生えていった。



鹿児島市内の中学校にいた頃は、学年180人の中で100番台が当たり前だった。
中学に入ったばかりの頃、先生から「もう少し頑張れば上の高校も目指せる」と言われたことがある。
部活にかまけていたこともあったし、
何より、家庭の空気もあって、とても勉強に打ち込める環境じゃなかった。

中学3年になるタイミングで転校し、
新しい環境の中で、少しずつ自分のペースを取り戻していった。

気合を入れて勉強していたわけではなかったけれど、
学年100人ほどの中で、20番前後の成績に落ち着いていた。
自分としては、それだけでも“立て直しの第一歩”だった。



そのまま、地元の商業高校の情報処理科に進学した。
環境は落ち着いていて、生活も勉強も、自分のペースで進められるようになっていった。

1年の頃はクラスで10番前後。
2年では少しずつ順位を上げていき、
3年になる頃には、常に上位3人に入っていた。

「勉強が楽しい」と思ったことは、正直なかった。
でも、「やらなきゃいけない」「結果を出さなきゃいけない」
そんな思いは、ずっと持ち続けていた。

最初の原動力は、やっぱり引き取ってくれた親戚の家への感謝や、
父の顔を潰したくないという気持ちだったと思う。

でも、そういう気持ちって、ずっと同じ強さで持ち続けられるものじゃなかった。

いつの間にか、
誰かのためじゃなくて、自分のために頑張りたくなっていた。
自分が自分を応援できるように、
自分が自分を裏切らないように、
そんなふうに日々を積み重ねたかったんだと思う。

特別なことをしたわけじゃない。
でも、自分にちゃんと向き合い始めてから、
気づけば、自然と成績が上がっていった。

振り返れば、
あの時期に“自分との向き合い方”を覚えたことが、
今でもずっと、自分の土台になっている。



高校3年になり、廊下には就職希望者向けの求人票が少しずつ貼り出されるようになっていった。

でも、その内容を見て、心がざわついた。
いわゆる“就職氷河期”の最後にあたる時期。
特に地方の高卒求人は、給与も仕事内容も、「これが現実か…」と目を疑うようなものばかりだった。

「こんなに苦しんできて、頑張ってきたのに、
 その出口がこれなのか――」

あのとき感じた虚しさは、今でもはっきりと覚えている。



そこから、「進学したい」という想いが、一気に膨らんだ。
このまま流されてしまいたくなかった。
自分の人生を、自分で選びたかった。

それで、必死に調べた。
家計的に現実的な範囲で行けそうな学校を、2校だけ絞り込んだ。
そのうちのひとつが、後に進学することになる職業訓練短大だった。

その気持ちを、親戚に伝えた。
でも、最初は反対された。
「高校を出たら働くもの」と思われていたのは、当然だったと思う。

それでも、自分の気持ちは揺るがなかった。
泣きながら家を飛び出して、しばらく外で時間をつぶして帰った。


帰ってきたとき、家の空気が少しだけ変わっていた。
そのあいだに、遠方にいた父や、近くにいた祖母も、
きっと何かしら話をしてくれていたのだと思う。

「できる限りのことはしてあげよう」

そんな声が交わされていたのかもしれない。

僕がいない間に、誰かが僕の“これから”のために動いてくれていた。
そうして、進学を認めてもらえた。



それから、指定校推薦に向けた校内選考が始まった。
成績的には、もっと上の生徒がいたはずだけど、
担任の先生が「福元なら」と後押ししてくれて、
僕はその枠に選ばれた。

その学校は、僕の高校からはこれまで誰も合格していなかった場所だった。
挑戦は簡単じゃなかったけれど、なんとか合格することができた。

進学先が決まったのは、8月のお盆前。
学年で一番早かったけれど、特に誰かに話すこともなく、
静かに、その事実をかみしめていた。



きらびやかな進路ではなかったかもしれない。
でも、それは間違いなく、僕が自分で選び取った第一歩だった。


※この「自己紹介編」は、全7章を予定しています(2025年5月時点)。
「味の履歴書」とあわせて、僕という人間をちょっとずつ描いている連載です。
気が向いたときにでも、また続きを読んでもらえたら嬉しいです。

この話が気になった方は、  
以下の自己紹介編・第1章もあわせてご覧ください。

また、味の記憶にまつわる連載は  
「味の履歴書|第1話」から始まっています。よければ、そちらもどうぞ。

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