エッセイ 『私が他人を受け入れない理由』
私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。
結論から言うと、
「仲良くはしたいが、関与(影響)されるとまずいので、私が無意識で相手を心理的に遠ざけているから」である可能性がある。
上記にあるように、私は「年々」人から怖がられるようになってきている。以前は誰かと親しくなっても、相手が途中で怖がって回れ右して去っていく、というようなことはあまりなかった。
そして、色々な人にこの現象について相談してみると、私が「受容」という心理行動を他人にしないこと、または、しなくなってきていることが原因の一つとしてあるのではないかということがわかった。
「あなたは優しくない」
「あなたは人を見下している」
「あなたは他人を受容していないんじゃないですか?」
ということを人から伝えられたことがあるが、これはおそらくどれも同じことを言っているのだと思う。
「受容」とは、文字通り、他人を精神的に「受け入れること」、相手を信頼し、心を開いて関わること、つまり相手を「認めること」である。
私はおそらく、年々、「状態の共有」ができる人、また、私を理解してくれる人しか受容しないスタンスを無意識で取っている可能性がある。
上記のエッセイでも書いたように、特に日本においては、「社会性の圧力」というものが欧米に比べてものすごく強力である。気づいていない人も多いが、これはもう半端ではない。
そして、「なぜ「年々」怖がられるのか=私が他人を受容しないのか」と言うと、年齢が上がるほどに、「もう十分に大人なのだから、この年齢の人はこういう状態でいなければいけない、こういう立ち振る舞いや思想や生き方をしなければいけない」という社会からの圧力が強くなってくるため、
社会性からの「関与」を受けていて、つまり社会性を否応なく受け入れていて、また、それに準ずることができていない人は、社会から自分を非難・否定されるため、「自分はダメだ」「自分は存在する価値がない」と自己否定的になり、自己肯定感が低くなり、精神的に病んでしまう人が非常に多いため、社会性に関与されることに私が危機感を持っているためであると思う。
また、ある程度年齢を重ねていても精神的にあからさまには病んでいない人で多いのは、社会性に準ずることができている人であるが、その場合、思想や生き方や言動というのは、全てが社会性が要求する範囲内に留まっているいる人が多い印象である。
つまり、社会に非難・否定されない範囲内での在り方をすることで、自分の社会的なアイデンティティを奪われないため、病んでいないということである。
これは、社会が求める「大人」として他人の前での振る舞い、何が正しいのか間違っているのか、の社会的な価値観を持って、規範的に生き、言動するということである。
ただ、上記の、病んでいる人、病んでいない人、のどちらの場合も、「社会性」には「関与」されている状態である。
そのため、思想や、生き方や、言動の自由、つまり、精神的な自由というものはかなり制限される。
そのため、TPO的に迷惑にならない範囲であっても、人前で子どものようにふざけなくなり、若い時のように好奇心を持つこと、真っ当に人と親しくなること、など「若さ」の伴う思考、言動自体ができなくなる人がものすごく多い。
なぜなら、社会性が求める「姿」から逸脱した場合、社会から存在を非難・否定されるためである。
そして、私が年々他人からの関与を拒んでいる理由は、相手が関与されている社会性に関与されないためではないかと思った。
また、私は、他人の「軽薄さ」にも、関与されないようにしているところがあると思う。
なぜなら、私が社会性にあまり関与されずに済んで、精神的自由と(社会性に人格否定をされて病んではいないという意味で)精神的な健康を保っている理由、つまり、自分の「若さ」を社会に否定されずに済んでいる理由は、
社会性(社会的な大多数の大人)よりも「軽薄ではない」という状態を維持しているためであると思う。
つまり、社会性よりも、他人を尊重する精神性を持っているため、社会性を自分よりも精神的に「劣っている未熟な存在」として捉えることで、社会性に関与、影響、コントロールされることを逃れているのだと思う。
そういう意味で、私は社会性を「尊重」はしながらも同時に「見下している」のだと思う。
つまり、逆説的ではあるが、私は、社会性よりもある種「大人」であることで、自分の「若さ(子ども性)」、つまり精神的自由と精神的健康を保っているのだと思う。
(そのため、私が子どもでいたい(若くいたい)と望むのは、幼稚性ではなく、個人の在り方の自由の問題であることがわかる)
そのため、自分よりも軽薄で、かつ、社会性に関与されている人からの関与を許してしまうと、つまり、心を開いて精神的に相手を受け入れると、それは相手から大なり小なり「影響」されるということなので、相手が持つ社会性が自分の中に入ってくる、そして、今の自分よりも軽薄になるのだと思う。
なぜなら、「人」は一番の「環境」なので、相手に心を開いて精神的に近く接することは、その環境に身を置くことと同義であり、それには必ず「影響」されるものである。
これは、価値観や文化や気質が異なる人々が住む海外に移住して、全く性格や思想に影響が出ないことはありえないことと同じであると思う。
年々、年齢を重ねるほどに精神的に病んでいっている周りの人たちに、「なんでそんなに元気なの?」と言われる機会が増えたが、これは、私が元気になったのではなく、相手の元気がなくなっただけなのであるが、相手はそのことに気づいていないことも多い。
「DJふぉい」というチャラめのYouTuberが、「モテたいなら、とにかくプライドは低ければ低いほどいい。モテるためにプライドは邪魔なだけで、できるだけ自分はゴミカスみたいなしょうもない人間だ、というスタンスでいた方がいい」
という旨のことを言っていて、どういう意味かと思っていたが、これは「他人からの関与を許すとモテる」ということだと今回のエッセイの内容を考慮すると思った。
相手を受容する、相手からの関与を許す、心を開いて心理的に近く接する、ということは、相手を否定しない、相手のことを認める、相手を承認する、ということだからである。
そして、人は承認を求めて他人と親しくするので、真っ当な意見であると思った。
ただ、上記したように、私が年々他人を受容しなくなってきているのは、私がプライドが高いからだけではなく、簡単に受容してしまうと色々とまずいことが起きるためである。
そのため、私は、状態の共有ができる人、また、理解をしてくれる人しか受容できなくなってきているということかもしれないと思った。
年齢が上がるほどに、自分の望んでいる在り方を保つことはかなりシビアになってくるということである。
過去のエッセイで、「現実で人と関わっているよりも、作品を観たり読んだりしている時の方が人と関わっている実感がある時がある」と書いたが、これも「年々」感じていることである。
これは、私が、その作品が、状態の共有ができて、また、理解をしてくれる存在であることから、相手(作品やキャラクター)を「受容」しているため、つまり、心を開いて向き合っているため、心理的に相手を近く感じて「関わっている」という実感を得るのかもしれないと思った。
つまり、私が受容していない人に人格の存在感をあまり感じないのは、私が心を開いていないため心理的に距離が遠すぎるためである、という可能性もあると思った。
映画『ナミビアの砂漠』(「若さを尊重しよう」という映画)を観た時、私は、作品が持つ思想や知性や気質と「状態の共有」をし、相手からの繊細で深い理解を感じたので、軽薄さを持ち社会性に関与(影響)されて病んでいる主人公のキャラクターごと「受容」して、キャラクターの人格の存在感を強く感じたのかもしれない。
私は、この映画を見た時、「久々に目の前に人が現れた」と思ったが、それは、私が久々に人のことを真っ当に受容したためではないか。つまり、私はこの作品に完全に心を開いたので、相手に真っ当に関与されたということだと思う。そのため、心理的に近くにキャラクターの存在を感じたのかもしれない。
このことから、映画や小説などの登場人物と向き合うことは、作品自体が持つ思想や知性や気質を考慮するという点で、現実で人と向き合うこととは本質的に異なっていることがわかる。
キャラクター、作品自体、を複合的に見た時の、「人」という対象なのかもしれない。
以上のことを考慮すると、私が、友人から「あなたは悪くないけど、年々問題児になってきている」ということを笑いながら言われたことの意味もわかる気がする。
つまり、私が真っ当に受容できる対象が私が信頼している作家(作品、キャラクター)しかいなくなってきている、ということかもしれない。
確かに、このスタンスでは、滅多に現実で人とまともに関わりようがないので、「問題児」と言われるのもわかるが、私は意地悪でそうしているわけではなく、自分の精神的自由と健やかさを守るために必要なことであるので、他にどうすればいいかわからない。
また、これらは、全て私の無意識下の心の動きを分析して仮説を立てているだけであるため、意識的に他人を受容するということもどうやるのかわからない。
それに、おそらく、私は心を他人に開いていなくても、親しく近い距離感で関わることができるし、恋人として付き合うこともできる謎の器用さがあることも問題なのだと思う。
心を開いている相手としか親しく、近しく関われない場合、意地でも心を開かないと人と関わることができず孤立してしまうので、他人からの関与を許さざるを得ないが、私はそうしなくても済むので、余計に面倒なことになっているのだと思う。
そのため、「私は仲良くしたいと思っているが、途中で簡単に受容をしない私のスタンスに気づいて相手が怖がる」という現象が起きているのかもしれない。
(私は、「相手が親しくしようとしてくれているのに、私を受容をする気はなさそうなので怖い」という感覚を感じたことがないので、この恐怖を全くわかっていないが)
この異常な状態が、年々人々が親しくしてくれなくなっているため孤独ではあるが、ほとんどの知り合いより精神的には元気である、という逆説的な状態を生んでいるのかもしれないと思った。
結論:全ては日本の社会性のせい。精神的に元気な状態かつ"子ども"でいたいので、社会性の圧力の少ない海外で人と会う。
または、状態の共有ができる人か、受容しなくても関わってくれる人を探す。
FUCK SOCIETY🖕I'M NOT YOUR SLAVE.
