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エッセイ 『どっちも傷付いてる』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論を先に言うと、
「私と仲良くなってくれても途中で何かを「怖がり」始めて、相手が私から距離を取ったり、去ってしまう時、相手が何を怖がっているのかと言うと、「自信を奪われること」」である可能性がある。

これに近い内容は、上記のエッセイで書いたが、今回はより掘り下げてみようと思う。

私自身は、他人と親しくすることで「自分の自信がなくなるため、相手と向き合うのが怖くなった」という経験がない。
それは、自分よりも能力やルックスなどの「力」がある相手であっても同じである。

何かしら自分よりも能力がある相手であっても、単に相手の能力の高さを面白がって、積極的に関わろうとしてきた。

しかし、能力に関しては、大学教授や、大学講師に限る話かもしれない。つまり、「先生と生徒」という上下関係がある、つまり、先輩と後輩、上司と部下のような「土俵のズラし」があるため、私は相手に自信を奪われることなく、親しくできていたのかもしれないと思った。

また、それは年齢による「土俵のズラし」もあると思う。つまり、私が相手に能力で勝てる部分がなくても、「年齢が違うので当然である」ということで、私は自分の自信が相手から奪われることはなかったのではないかということである。

つまり、逆に、相手とある程度「同等の存在」として関わった場合、力量に差があると、相手と自分を比較することで、自信が奪われるのかもしれないということである。

そういうことで言うと、私は、高校に入ってから、「先生」以外で、自分よりあからさまに能力が高い人と親しい距離感で関わったことがないかもしれないと思った。

また、「オリジナリティ問題」もあるかもしれない。例えば、相手が、自分より高い能力の分野や方向性があるとしても、自分には、別の分野や方向性で得意なことがあるという自覚があれば、自分の自信自体が奪われることはないと思う。

ただ、その自分の得意分野においても、能力の「強度問題」がある。

つまり、例えば、漢字検定3級を持っているとしても、関わっている相手が、漢字が苦手でも英検1級を持っている場合、つまり、自分が相手とは違う分野で相手より高い能力があるとしても、各々の得意分野での強度が違う場合、

「漢検3級を持っているから相手に自信を奪われない」とはならないのかもしれない。

私は、大学院にいるとき、先に社会に出て働いている恋人に「あなたに勝てるところが何もない」とすごく辛そうに言われて、それだけではないにしても、それも含めた理由で振られたことがあるように思う。

私は、そう言ってきた恋人に、「勝つって何?お互い好きで付き合ってたらそれでいいんじゃないの?勝負してるんじゃないんだから」と言ったが、相手は何も応えてくれなかった。

ただ、この時恋人は、私に何かで勝ちたいというよりも、勝てるところが何もない場合「一緒にいると自分に自信がなくなるのがしんどい」ということを言っていたのかもしれないと思った。

そして、私は「社会に出てまともに仕事をしてるという、私に「勝っている」部分があるじゃん、それは私から見たらすごいよ?私はまだバイトしかしたことなくて勉強してるだけじゃん」と相手に言ったが、

これは、上記の「漢検、英検問題」と同じで、相手から見ると、相手が「私より先に社会に出て仕事をしている」ということでは、私に「勝っている部分があると思えるほど自信にはなっていなかった」のかもしれないと思った。

つまり、相手にとって相手のしている仕事は、私と向き合った時に、強度のあるアイデンティティ(自信)にはなっていなかったのではないかということである。

最終的にその恋人は、「自分の方があなたより友達が多いしコミュ力がある」などと、なぜそのようなことを言うのか意味不明なマウントを私に取り出して、普通に気分が悪かったことがあるが、それは、私に「勝っている部分」をなんとか見出そうとしていたのかもしれないと思った。

そうなってくると、過去に、「私は相手を「受容」していないから、相手に怖がられるのではないか?」と書いたこともあるが、

「相手が、私と関わることで自信がなくなること」が原因なのだとしたら、そういうことでもないのかもしれないと思った。

この時、相手は、私と向き合う自信がなくなるのか、私と関わることで自信自体がなくなることが苦しいのか、2種類あると思うが、おそらく後者の方がより理由としてあるように思われる。

そして、過去には、親しくなってきた相手が、私にはない能力や才能があったので、そのことを私は面白がり、めちゃくちゃ褒めちぎってたことがあるが、それでも、関係性の距離が近づくほど、相手は何かを「怖がり」始めて去ってしまったこともある。

そのため、私が「相手を認めていないから」という理由だけではないこともわかる。

やはり、その場合も、相手は私と関わることで、自信自体がなくなってしまい、つまり、上記のエッセイで紹介した映画『her』の、夫に自信を奪われて不安になり離婚を申し出たキャサリンのように、私にアイデンティティ(存在価値)を脅かされたため怖くなった、私と親しく関わることが苦しくなった、ということかもしれないと思った。

つまり、「私が相手を認めていても、相手が自分を私を比べたときに自分のことを認めることができない場合は、アイデンティティが脅かされる(自信がなくなる)」ということであることがわかる。

こうなってしまうと、私になす術はないように思える。

自分のダメで低レベルなところを積極的に相手に見せたとしても、そういう部分も熟知している恋人にさえ、ある種「怖がられた(自信を無くされた)」こともあるためである。

つまり、私のことが「怖い」とは、私自体が怖い、というよりも、私と関わることで自信がなくなることが怖い(アイデンティティを奪ってくるため怖い)ということかもしれないと思った。

確かに、「自分にはプライドがない」と言っている人や、相手が誰であろうと自分が一番偉いという振る舞いをする鬼の自己肯定感の高さを持つタイプは、私を「怖がる」ことなく関われる場合が多いように思う。

ただ、そういう人は滅多におらず、基本的には、人にはもちろん「プライド」やアイデンティティというものがあり、そのプライドは他人からの関与を受けるもの、つまり、自分と相手を関連させるものだと思うので、

私に自信を脅かされないくらいの何かしらの自信を持っている人でないと、私は自分が相手にマウントを取るつもりなどなくても、親しく関わるだけで、相手が自分と私を「関連」させて、私が「アイデンティティクラッシャー(自信を奪う人)」になってしまい、相手に去られてしまうのかもしれない。

また、「上下関係という土俵のズラし」があればいいのではないか?と過去に書いたが、年齢に差がある「先生と生徒」のような関係でもない限り、私が無理やり相手にマウントをとって先輩然として接したところで、効果は高が知れているとも思った。
そのため、ある程度「相手が私と一緒にいる自分を認めることができる人」でないと、私はアイデンティティクラッシュをしてしまうのかもしれない。

または、能力に関係なく、精神年齢が高く、他人と自分を比べることはくだらないことである、という達観した精神を持っている人なら大丈夫なのだろうか。

私も、強度的に、相手に勝っている部分が何もないと感じる相手と親しくなった場合、アイデンティティを脅かされて、つまり、自信がなくなってしまうことが怖くなり、相手と関わることができなくなるのかどうかはそうなってみないとわからないが、少なくとも、せっかく仲良くなったのに途中で去ってしまう人の中では、そういうことが起きている場合もある可能性があると思った。

結論:どっちも傷付いてる


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