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エッセイ 『状態の共有』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論から先に言うと
「状態を共有できない相手であると判断されたため」である可能性がある。

スパイク・ジョーンズ監督の映画『her』において、ライターをしている主人公・セオドア(ホアキン・フェニックス)は、妻・キャサリンに別れを告げられて悲嘆に暮れている中で、人工知能型OSのサマンサを手に入れて、人間よりも人間らしい彼女(AI)と恋愛関係を築いていく、というストーリーである。

元妻のキャサリンはセオドアの幼馴染で、大学の論文も読み合い、意見し合い、切磋琢磨する長年の相棒のような存在であったが、そんな彼女がセオドアに別れを希望した理由として、セオドアが、精神的にも能力的にも先に成長してしまい「置いて行かれるような気がして不安になったから」ということを理由の一つとして描かれている。

この別れの理由、実は私も経験がある。私が大学院生の時、私が勉強や研究に邁進し、ある種自分を高めていっている中で、それを受けて、その時の恋人に「置いて行かれていっている気がする」と何度も愚痴をこぼされて、理由はそれだけではないにしろ、最終的に私が相手に振られてしまいひどく苦しんだことがある。

こういう、精神的な成熟だったり、能力的な成熟だったり、やりたいことを見つけてどれだけ進んでいっているかだったり、そういうようなことに差が生まれると、

スポーツでも、勉強でも、仕事でもいいが、肩を並べて仲間として一緒に走っていると思っていた人が、いつの間にか先の方に行ってしまったとき、嫉妬や劣等感だけでなく、「置いていかれている感じがして不安になったり寂しくなる」というようなことに近い感覚になるのかもしれない(もし物理的に横にいるのだとしても)。

私は、過去のエッセイでこういう現象を「相互関与が成り立たない関係」という表現をしてきた。

その場合、つまり、「互いを認め合える関係ではなくなる」ということではないかと書いてきたが、上記のセオドアとキャサリンのような場合は、先に成長してしまったセオドアがキャサリンを認めなくなるというよりも、「置いて行かれた」と感じるキャサリンがセオドアと一緒にいる自分を認めることができなくなった、ということでもあるのかもしれないと思った。

その場合、セオドアが変わらずキャサリンを自分の相棒として認めていたとしても、キャサリンの中ではセオドアとの相互関与が成り立たなくなったということかもしれない。

そのため、相互関与、または相互承認というのは、「相手といる自分を認めることができるのか」ということでもあるのかもしれないと思った。

つまり、相手からの承認の欠如により、相手と一緒にいることが苦しくなるということではなく、相手といると自分で自分のことを認めることができなくなる、つまり自己承認ができなくなり、一人でいるよりも、苦しい状態になるということかもしれない。

つまり、この場合、キャサリンは先に成長してしまったセオドアと一緒にいることで、アイデンティティクライシス(自分の存在価値を見失うこと)を起こしたのだと思った。

上記の私の恋人が、上記の愚痴を私に言い始めた時、私は、意識高い系同士だったり、同じ分野で夢を追っている同士とかならまだわかるけれど、全然違うことをしているし、何が問題なんだろう?と思っていた。

私は私のしたいことを勝手にしているだけで、それが相手に何の関係があるのかな?と思ったわけである。一緒にいて、互いに好きだったらそれで良くはないか?と思ったのである。

ただ、人生において、恋人や友人関係などで親しくしている人が、進化成長して、(精神的な成熟含め)状態として次のステージに行ったり、何かで認められたりして、ある意味「人生を進めていっている」様を目の当たりにすると、やはり「置いて行かれている」と感じ、自己否定的になったり、不安を感じたりすることもあるのかもしれない。

また、以前、恋愛に発展しかけていた人が、私の小説を読ませて欲しいと言ってきて、私の小説を読んでもらった後に、相手の元気がなくなり、私の元から去ってしまったことがあるが、

その人は、創作活動などはしていない人であったが、私が自分のやりたいことで猛烈に走っていることを目の当たりにして、また、そのやりたいことにおいてどの程度の位置にいるのかを見て、「自分は置いて行かれている」というような不快感や、落ち込みのような感覚になった可能性もあると思った。

これは、ある種、精神的な状態が似ている人同士で恋人や友人として仲良くしている方が気が楽であるというようなことにも近い気がする。

私の周りを見ても、精神的に病んでいる人は、発展性のない出口の見えない愚痴を言い合える精神的に病んでいる人と仲良くする傾向にあり、精神的に元気な人と仲良くすることを避けているように見える。

私も失恋などで、メンタルが沈んでいる時は、明るい元気な友達よりも、何かで病んでどんよりしている友達と積極的に一緒にいたような気がする。
それは、一緒に停滞できるという意味で、状態を共有できる人と一緒にいた方が「置いて行かれない」ため、心が楽であるためであると思う。

この場合、私は明るい友達に劣等感を感じているというよりも、明るい友達と一緒にいるとシンプルにしんどいのである。
それは風邪を引いて弱っている時に、爆音でノリノリの曲を目の前で流されると、その勢いに「ついていけない」ので、つまり「置いて行かれる」ので精神的に負担を感じるということに似ていると思う。

これはいわゆる、陰キャが、陽キャと一緒にいるとテンションについていけず「置いて行かれる」ため、一緒にいると精神的な負担を感じることにも似ていると思う。

能力的な差異自体や、人生を進めていっているスピード自体に負担を感じてしまう場合、これはどうしようもないと思う。
その時点での互いの「状態」が単純に合わなかった、ということであり、どちらのせいでもないためだ。

私は、このことが原因で親しくしている相手と関われなくなったことはないが、精神的に落ち込んでいる時に、他人の元気さに置いて行かれるという経験はあるので、少しは関連させて想像することができる。

どれだけ気質が合っても、この「状態」を共有できない場合、一方が苦しくなってしまうこともあるのかもしれないと思った。

結論:しょうがない


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