エッセイ 『人格の深度』
現在、三宅唱監督の最新作『旅と日々』(ロカルノ国際映画祭最優秀賞受賞作品)を視聴している。まだ見初めて15分程度であるが、重要なことがわかったので、書こうと思う。
私は、過去のエッセイで、現実で顔を合わせて関わっている人よりも、映画や小説で、作品自体の知性に触れたり、知性のあるキャラクターに触れた時の方が、「人と関わっている手応え」を感じるため、気持ちが救われることがあると書いた。
それは、相手(作品、登場人物)が強度高く、自分のことを「理解」してくれるためである。
本作には、私が散々騒いでいた映画『ナミビアの砂漠』で主演していた河合優実が出演しており、彼女が能力をぶん回しているため、私はもうすでにノックアウトされている。
河合優実がすごいのは、「人格の状態」を演じることができるという点である。
これは、単純に「用意されたセリフを口に出す」ということとは全く別物である。
美人があれほどオーラを放つ理由というのは、外見だけでなく、自分は美しく、よって価値がある、という自己認識による「人格の状態」によるものであると思われる。
そのある種のプライドや認識が、あの独特の優雅さ、明るさ、ライブ感、気品、色気を生むのだ。
そして、この人格の状態ごと演じてみせるのが、映画『ナミビアの砂漠』における河合優実である。
この映画は、シーンごとの、人格の状態の変化がストーリーになっていると言っていい。
上記の引用部分でもすでに書いてあったが、人は「雰囲気」というものを保有しているが、その構成要素の一つとして、見た目だけでなく、「人格の状態」というものがあるのだと思われる。
それは、精神年齢であったり、知性であったり、気の強さ、弱さ、性格のキツさ、温厚さ、経験してきたため染み付いている文化、内向的なのか、外交的なのか、などなど、あらゆる要素により成り立っているのだと思う。
そして、引用部分にもあるが、例えば、美人は「オーラがある」と言われる人もいると思うが、その理由として、見た目だけでなく「自分は美人である」という自覚からくる自信や余裕、また、「簡単に他人に関与されないぞというプライド」を保有している「人格の状態」により成り立っている雰囲気なのだと思う。
そのため、人前で「ツンとしている」美人も多く見かけるが、なぜツンとしているのかというと、「簡単に他人に関与されないぞというプライド」があるため、ある種、他者に対して「排他的」な性格であるということが考えられる。
つまり、プライドが高い=他人を簡単に受容しない排他的な性格と言っていいと思う。
これは、他人を見下しているというよりも、他人からの関与の拒否=プライドの高さ、である。
そのため、「他人を尊重しながらも、関与は拒否している」という状態が成り立つこともあると思う。
河合優実自身が、おそらく、知性とセンスが高強度であるので、その自らの要素を使い、演じているときも、簡単に他人が関与できない領域があることを「人格の状態」として表現できる。
そして、逆に言えば、この人格の状態に強度(奥行き)があることで、他人(視聴者)への「関与力」というものが強度高く生まれる。つまり、上記の美人の例のように、オーラ、つまり、存在感があるのである。
つまり、「オーラ」という曖昧な言葉の正体とは、他人への関与力であることがわかる。
もちろん、自分が他者のどういう要素によって関与されやすいのか、また、相手が自分にとってどういう人なのかによっても他者の存在感というのは変化すると思うが、それらの要素も含めて、相手からどれだけ関与されるかによって、相手の存在感の強度が決まると言ってもいい。
そして、その人格の状態というのは、声色や表情にも乗るので、彼女の一挙一動が視聴者に対して高い「影響力(関与力)」がある。
そして、私は、私が河合優実ほどはないにしても、この強度で人格の状態の共有が出来る人が現実で顔を合わせて関わっている人にはいないので、
「人格の状態の共有が強度高くできるという意味で意思疎通が取れる=自分にとって存在感があり、自分に対して関与の力がある人=自分がどういう人間でどういう感情や感覚を持っているのかということの強度の高い理解者である」という意味で、久々に「人」に会ったという感覚がした。
それは、極端に例えるなら、ほとんど言葉の通じない人に囲まれているインドで、久々に日本語が通じる日本人に会った時のような感覚である。
つまり、強度高く意思疎通が取れる他者、ということである。
そして、そもそも演じているキャラクターの人格の状態を高強度で演じることができるということは、「素」を演じることができるということである。
彼女ほど強度高く人格の演技ができない演者であれば、演者本人とは違う人物を演じているとき、ある程度「表面的」にならざるを得ない。
それは、言葉通り、あくまで「演技」であり、「嘘」だからである。
しかし、人格ごと演じた場合、「状態」としては、そのキャラクターとしてそこに「在る」ので、状態としては嘘がないということになる。
雰囲気も、表情も、声も、発せられる言葉も、器となる人格から発せられるものなので、より、「本当」であるように感じるし、
現実で目の前で実際に接していてもある程度表面的に人と接している相手と向き合うときよりも、「本物の人間っぽい」と感じることもある。
なぜなら、状態として「素」かつ「意思疎通ができる」相手が画面に映っているためである。
このことで、状態として「表面的」かつ「意思疎通が強度高くできない」相手と現実で顔を合わせているときよりも、人間がそこにいるという存在感、つまり、相手の自分に対する関与力が、画面に映っている彼女に触れる時の方が高くなるという状態が起こる。
このことから、「素」というのが、その人の「人格」にあたる部分であるため、人間が「素」に近いほど、強度の高い人格の存在感を感じる、つまり、人間がそこにいるという存在感を感じるという状態になるのだと思う。
これは、「表面的(素を隠して)に他人に接している状態の人と対すると、ロボットみたいで人とまともに話している気がしない」ということと真逆の現象であると言える。
そのため、こういう繊細な演技をしている河合優実を特にスクリーンで見た時、私は毎回衝撃を受ける。
強度高く、人間と久々に「会える」ためである。
それは、上記したように人格の状態の共有ができるため、相手が自分のことをどれだけ理解しているか(できるのか)を確認することで、相手の存在感が上がるということでもある。つまり、自分のことを内面も含めて強度高く見られている(把握されている)と感じるということである。
そして、最近のエッセイで分析している、「私が年々人から怖がられる」ことの理由も、今回のエッセイの内容を踏まえると解像度が上がるように思う。
つまり、相手が自分の関与できない人格の領域を保有している場合、自分は相手の全体像が見えないにも関わらず、自分だけが丸裸になっているような感覚にならざるを得ないということである。
なぜなら、子どもが、大人の人格の状態に合わせることができないように、相手が、自分に素で接していても、自分にはない人格の領域を保有しているので、自分は相手の全体像を掴むことができない、つまり、相手が何を考えているかをあまり理解できない、という状態になり、自分だけが強度高く理解されてしまうので、
互いに素で接した場合でも、自分だけが内面を覗かれているような「怖さ」があるのだと思う。
そして、私の友人は、「あなたの状態が怖い」と最近言ってきたことがあるので、これはつまり、以前より私のことを、また、私が何を考えているのかを理解することができなくなった=私の人格の状態に相手が関与できない部分が増えた、ということではないかと思った。
私は、河合優実にはかなり自分が関与できない人格の領域があると感じるので、確かにある種の「怖さ」はあるように思うし、実際に目の前にして親しく関わった場合、上記の「不公平」な状態が起こり、もっと怖いと感じる可能性もあると思った。
ただ、そんなことよりも、人格の状態の共有が強度高くできる=意思疎通が強度高くできる、という点で、私は彼女に理解者としての安心感を一番先に感じる。
そのため、河合優実の「ミステリアスさ」とは、単純に「変わっている」とか「クールである(落ち着いている)」という理由だけではなく、高い知性やセンスや能力があることにより形成される、他人が簡単に関与できない領域を持った人格の状態を保有しているということからも来ているように思われる。
そのため、「ミステリアスさ」とは「関与できなさ(理解できなさ)」と言っていい。
この状態を、「人格に奥行きがある」または、「人格の深度がある」と表現してもいいと思う。それが他人への関与力や、存在感を生むのだと思うし、このことで、彼女が存在感をスクリーンで放つため、評価を受けている理由の一つだと思った。
そして、私が、『ナミビアの砂漠』を初めて観て以降、ずっと小説の執筆で意識的に挑戦していることは、「人格の存在を描く」ということである。私にとって「人格」とは、人間存在の中核なので、それはつまり、「人間(意識、魂?)」を描こうとしているということである。
つまり、私は、人間の「素」、及び、「素」を内在している人物の状態を描くということに挑戦しているので、『旅と日々』の河合優実にもかなり影響を受けそうだと思った。
