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エッセイ 『人格の状態』

私が最近興味があるのは、人の人格、精神の「状態」である。

最近のエッセイで再三言及しているが、私の知り合いの多くが年齢と共に元気がなくなり、物事や人との関わりに興味を失ってきていて、その状態の変化を目の当たりにしているためでもある。

このことの原因として、現時点で一番有力だと思う説は、以前に比べて、若さという価値がなくなり自分の存在価値に自信がなくなった、ということである。
また、精神的に元気でいるための、その自信の欠落分を埋める、他の自信を持っていないためであると思われる。

人の人格の状態とは、この「自信」によって大きく変化する。
以前は、とても敵わないと思うくらい、キレキレのセンスを持っていた知り合いも、自信が無くなったことで、センス自体がなくなり、物事への興味の強さだけでなく、幅もなくなった。
以前は、芸術的なことに強い関心があったその人は、今は映画や小説に触れたり、表現活動をしたりすることがほとんどなくなり、パチンコばかりしている。

色々な人を見て得た印象として、芸術を「オシャレ」の領域として捉える人が多いというものがある。
そして、芸術以外の「オシャレ」さであっても、人は自分がそのオシャレさを楽しむ、参加する「器」であるという認識がなければ楽しむことができないように思われる。

「オシャレ」の形態やテイストには様々なものがあるが、基本的には、優雅さや高級感がベースにある。つまり、垢抜けて洗練されている、エレガントであるということだ。

そして、人が、あるオシャレさに参加しようとする時、その洗練度合いに自分の状態をある程度「同期」する必要がある。

例えば、東京に遊びに行った際に、私が友人と共に渋谷のオシャレな夜カフェに行った時、私は、「うわーめっちゃ雰囲気いいね!」とテンションが爆上がりしたが、友人はその店に入った瞬間にテンションが下がり、ソワソワと落ち着かない様子で、店の照明が暗い、商品の値段が高い、などと文句を言って、しまいには、早くここから出ようと言い始めた。

そして、その後にチェーンの居酒屋のキャッチに誘われて入った店内の煌々と無駄に明るい照明や、油っぽくラミネート加工され値段がデカデカと記載された壁に貼られたメニューを見るなり、その友人は表情がパッと明るくなり、「これこれ、やっぱりこれよね!」と水を得た魚のように元気になった。

私は、そういう安っぽい雰囲気も嫌いではないが、わざわざ東京に遊びに来てまでチェーンの居酒屋でお酒を飲むのは勿体無いような気がしていた。

できれば、雑誌に載っているような高級ホテルのバーなどをハシゴして洗練された東京を感じたかったが、夜カフェで居心地の悪そうにしていた友人の顔が再度曇るのを見たくなったので諦めた。

そして、その友人は映画が好きな方であるが、私がミニシアター系(アート系)のヒューマンドラマの映画を何度勧めても、絶対に観ようとしないのである。その人が好きな俳優女優が出ていてもそれは同じである。

そして、おそらく、その友人にとって、芸術系の映画の雰囲気というのは、方向性的にはあの夜カフェと同じなのでないかと思った。

映画のテイストが、柔らかいものであっても、ハードなものであっても、上品な人々を描いていても、下品な人々を描いていても、芸術系作品の雰囲気というのは確かに「洗練」されている
(例えば、是枝裕和監督の映画『万引き家族』において、その日暮らしに近い生活をしながら老朽化し散らかった家に身を寄せ合っている家族が描かれているが、映像のルック、作品に込められた知性、俳優陣の演技など、あらゆる方向性からの洗練が合わさり、非常にエレガントな空気感である。特に、安藤サクラとリリー・フランキーが居間でそうめんをすすりながらキスをするシーンの美しさは、あらゆる映画のキスシーンの中でもトップクラスにエレガントなので一見の価値あり)。

そして、その友人は状態としての洗練度を飼っていないため、カフェや映画の雰囲気に自分の状態を合わせることができないのではないか?

その友人は、私の知り合いの中でもトップクラスに知性があり、人の気持ちへの解像度も高いため作品の内容を理解できないということはないと思うが、どちらかというと非モテであり、自分に自信がない。

そのため、自分の存在価値というものを軽く見積もっていて「自分なんて」とよく口にする。
つまり、自分は「高級ではない」という認識があるのだ。
そして、人は、自分は高級ではないという認識がある場合、そういった洗練された、ある種、高級な雰囲気というものに自分の状態を同期することができないのだと思われる。

オシャレなカフェを「楽しむ」場合、人はおそらくその店を外野から楽しむのではなく、その店のインテリア、商品、客、店員が織りなす雰囲気の一員になることであるとも思う。

そのため、自分がその空間の雰囲気の器ではない(自分の高級感が追いついていない)と認識した場合、場違いである気分になり居心地が悪いのではないか。
そういえば、その友人は、オシャレなカフェに入ると皆が自分を睨んできているように感じると言っていた。

私は、作品も、店も、オシャレな方がいいに決まっていると思っていたので、どういう理由でそんなにもオシャレさを毛嫌いするのかわからなかったが、この理屈を当てはめれば理解することができる気がする。

私にとってのその状況を考えると、例えば、ヴィトンやシャネルなどの高級ブランドの店舗であればわかる気がする。
店の入り口の近くを通るだけで、ホコリ一つない店内とドアマンが待ち構えているのが見え、とてもウィンドウショッピングで中に入ろうとは思えないあの排他的な雰囲気は確かに緊張するし、おそらく中に入ってもどういう顔で居ればいいかわからないと思う。

私はそういった店の雰囲気に見合うほどの高級さを自分に感じていないということだ。
そのため、あの雰囲気に同期できる状態を飼っていないのである。

そして、このことから、私の多くの知り合いが、自信を無くして元気がなくなったり、オシャレなものへの趣向がなくなったり、ふざけることができなくなってきた原因も理解できるのではないか。

「ふざける」とは、ある種、子供じみた下品な真似をして見せるということである。それは例えば、下ネタを言ったり、おどけて踊って見せたりすることだ。
そして、自分にある程度の高級さ、価値を感じている場合、あえて自分の価値をふざけることで落としても、全体的な自分の価値がその下がった価値を回収してくれるので、自分の価値や品位というのは根本的には下がりきらない。
そのため、ふざけても下品になりきらない器というものがあるのだ。

以前のエッセイで似たようなことを書いたときにいただいたコメントで、
北野武の例を出してくれた方がいた。
バラエティなどで、下品にやりたい放題暴れ回っている彼が面白いのは、彼が持っている教養、精神年齢、誰よりも常識人であること、芸術的な才能などの上品で高級な要素とのギャップがあるからではないか?という意見をいただき納得した。

またそういう彼の上品で高尚な要素が、彼の品位を落としきらないという後ろ盾になっているからであるのではないか。
つまり、年齢をある程度重ねてからふざけるには、その下がった自分の価値を回収するための、自他共に認識できる最低限の高級さが必要であるということだ。
そうでなくては、本当に下品でみっともなくなってしまい、痛々しくなるからだ。

それはある種、他人の目など関係ないと思っているヤンキーであっても、ハタチを超えてから暴走族の一員としてバイクにまたがり暴走行為をするのは痛々しいという自他共にある認識から、その年齢になると暴走族を卒業し、任侠の世界に進むか、ある程度更生し社会に入っていくかを迫られることと同じではないか。

つまり、「若さ」というのは、未熟さ、至らなさが許容される状態であるだけでなく、ある種の高尚さという価値を内包しているということだ。

確かに、文学的に見れば、無軌道に淫らに自由を求めて暴走する若者というのは、下品さだけでなく、ある種の美しさを伴っているように感じる。
それは、若さという概念が生命力と同義であるからかもしれない。

世の中で一番明るく美しいのは、生命力であるからだ。
子供が同じ空間にいるだけで、世界観が明るくなるあの現象の正体である。

センス問題においても、精神や人格の状態によってそのパフォーマンスが大きく左右される。

つまり、私の自信がなくなった知り合いが、芸術的なことに関心がなくなったのは、現在自分が飼っている高級さを芸術の高級さに同期できなくなっただけでなく、自分はある程度高級であるという自己認識があることにより持つことができる「ある人格の状態」が芸術的なことを受容したり生み出したりするセンスを持っているためだと思われる。

エッセイ『刺激中毒者』において、私は、私の知り合いが物事に好奇心を無くした理由は、晩年、動物に興味がなくなったムツゴロウさんのように、年齢により早ければ人は20歳を超えたあたりからどんどんと好奇心自体がなくなる人もいるのではないか、と書いたが、
おそらく、それだけではなく、「自分の価値の自己認識」により飼うことが出来る人格の状態の種類というものがあり、好奇心や芸術的なセンスを保有している人格を手放してしまったため、というのもあると思った。

そして、それはある種の「若さ」を内容する人格である。
なぜなら、好奇心やセンスというのは、「子供じみた遊び心」が必要であるからである。

しかしながら、子供である自分の人格というのは、全体的な自分の価値、豊かさ、高級さによる自信により、「年齢を重ねても子供である」という「みっともなさ」を回収しないと、守ることができない人も多いのかもしれないということだ。

それは、TPOに合わせて、子供である人格と、大人である人格をコントロールすることが出来ても、全体的な自信がなければ、子供である人格を放棄してしまうのだと思われる(ただ、これは本来的なポテンシャルを失ったわけではないため、自信を取り戻せば好奇心やセンスが戻る可能性はある)。

これは、美人ほど、年齢を重ねても、ナチュラルにぶりっ子をしたり、人に甘えることが出来る人が多い理由であると思われる。
彼/彼女たちは、子供の人格を失っていないのだ。

美人があれほどオーラを放つ理由というのは、外見だけでなく、自分は美しく、よって価値がある、という自己認識による「人格の状態」によるものであると思われる。
そのある種のプライドや認識が、あの独特の優雅さ、明るさ、ライブ感、気品、色気を生むのだ。

そして、この人格の状態ごと演じてみせるのが、映画『ナミビアの砂漠』における河合優実である。
この映画は、シーンごとの、人格の状態の変化がストーリーになっていると言っていい。それを観察し楽しむ映画なのだ(うーん、エレガント、、)。

何が言いたいかというと、河合優実はカッケえという事です。
特に、未熟である子供性を内包する人格の状態の演技は必見。
彼女の演技を見て、ノスタルジーに浸れ!(ゴリ押し映画オタ)


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