「一泊二日」 第五話
◇◇
「えー! なんでー!!」
最上階のロビーに、奥さんの嘆きの声が響き渡った。
入店予定だったバーには《臨時休業》の文字が掲げられ、木製の扉は隙間なくキッチリ閉じられていたのである。
奥さんはガックリと肩を落とした。
「せっかく、本物のカクテルを頂けると思ったのにー」
もし私が、洋平と二人でバーを訪れていたとしたら、この嘆きの声は、私が発していたに違いない。そう思うと、何だか自分の姿を見るようだった。
「どうしましょうか」
ここで、立ち尽くしていても、バーの扉が開くことはない。
「飲み直すために、またお店を見つけるのも億劫よね。牛タン屋さんでいろいろ頂いたし 」
確かに、何か口にできるとしても、せいぜい乾き物や軽食くらいだ。居酒屋にいって、美味しいものを飲み食いするほど、お腹の余裕はない。
奥さんは、大きなため息をついた。
「お部屋に戻って、酔っぱらいの轟音を聞くのはいやだわぁ」
きっと洋平は、今頃、酒臭い息を吐きながら、大いびきをかいているところだろう。
「はあー」
奥さんのため息が止まらない。
私なら、いびきをかこうが、酒臭い息を吐こうが、そんな洋平と一緒にいられることに、この上ない幸福を感じるだろう。でも、妻の立場になると、そういう甘い気持ちではいられないものらしい。
奥さんの止まらないため息を見ていると、何だか私のほうが洋平を愛しているような気がして、急に誇らしい気持ちになった。
「じゃあ、私の部屋で飲み直しますか?」
気が大きくなったせいか、私はおかしなことを口走っていた。言った後にしまった、と思ったが、もう引き返せない。
「いいの? お部屋にお邪魔しても?」
「えっ? ええ、もちろん!」
奥さんの目が、少女のようにキラキラと輝いている。
「じゃあ、近くのコンビニでお酒やおつまみを調達しましょうよ。バーでお酒をご馳走するより、安上がりになっちゃって申し訳ないけど」
奢ってもらうなら、安いもののほうが、こちらも気が楽だ。
私と奥さんはエレベーターで一階に下り、再び、ホテルの外へと繰り出した。
◇◇
「あー、風が気持ちいいわねぇ」
ホテルを出ると、朝、あんなに高く感じた空は、すっかり夜に覆われていた。それでも仙台の街は静まり返ることなく、夜をそぞろ歩く大人たちを受けいれている。
「何だか学生時代を思い出すわー。あの頃は、一人暮らしの子のアパートに集まって、安いおつまみやお酒で、何時間でも話し込んでたわね」
私にも憶えがある。
精神的に不安定な母を気にかけて、あまり飲み会には参加できなかったが、たまにそんな集まりに加わると、自分は学生なんだと再認識できて嬉しかった。
「みんなでコンビニに寄って、ホットスナックが売り切れてたりするとガッカリしましたね」
「そうそう」
夜の街に安らぎを与えるかのように、コンビニの照明が光を放っている。一歩足を踏み込むと、自動ドアが開いた。レジ横を見ると、ホットスナックは、まだ残っているようだった。
「何にしようかしら」
こういうとき、新商品のタグに興味をそそられながらも、いつもの定番おやつをつい手に取ってしまうものだ。
「あー! ハートチップル!」
私が手にした袋菓子を、奥さんが指差した。
赤いパッケージに青い文字。昔から変わらない、ニンニク風味のスナック菓子だ。
「えっ、お好きですか?」
「大好き! でもニンニクの匂いが結構するでしょう? 翌日まで臭うもんだから父が嫌がってね。なかなか食べさせてもらえなかったの」
「うちもです!」
「ホント? 酷いわよねぇ。自分は付き合いとかで、餃子食べてビール飲んで、臭い息を吐きながら帰ってきたりするのに 」
「全くです」
気が合った。
「ハートチップル、買っちゃいましょうよ」
「でも、明日臭うと思いますけど、大丈夫ですか?」
帰りの新幹線とかで臭うと迷惑かもしれない。
「じゃあ、これも買っておきましょう」
奥さんは、
「まなみさんと私の分ね」
と言い、口臭予防のタブレットを二つ、カゴに入れた。
その他にも気になったお菓子や飲み物をカゴに入れ、ビールと酎ハイを選び、レジへと向かう。ホットスナックも買おうか迷ったが、さすがに食べきれないと思い、やめた。
「すみません。払って頂いて……」
会計を終え、私が頭を下げると、
「いいの、いいの」
奥さんはそう言って、ぴょんぴょん跳ねるように店を出たが、手に持ったレジ袋が重そうだった。
「せめて荷物くらいは持たせて下さい」
私が荷物を受け取ると、レジ袋がずっしりと指に食い込んだ。
「ありがとう。 私の年でこんなこと言うの恥ずかしいけど、これって一応女子会よね?」
「もちろん。それに奥さんはまだまだ女子で通りますよ」
お世辞じゃなく、そう思う。
「おだてても何も出ないわよー。あと、その奥さん、っていうのやめましょう。何だか、女子会っぽく無くなっちゃう。まなみさんも、名前で呼んでちょうだい。ユイちゃんでも、由比子さんでもいいから、ね?」
「わかりました」
由比子さん。
頭の中で、そう呼んでみる。
楽しそうに歩く彼女を横目で見ながら、この人と私は、恋敵なんだと改めて思い直す。いちいちそう思わないと、そのことを、つい、忘れてしまいそうだった。
仙台の夜の雰囲気と相まって、不思議なくらい、心地いい空気が流れている。こうしていると、二人の間に煙のように漂う洋平の存在が、疎ましくさえ感じる。
もし、洋平ではなく、先に奥さんに出会っていたら、私は洋平と不倫なんてしただろうか。そんな考えてもどうにもならないことを、考えずにはいられなくなる。
◇◇
ホテルに着き、エレベーターに乗る。
「シングルなので、少し狭いですけど……」
部屋の前まで来ると、自分の家でもないのに、そんな言い訳をしてドアを開けた。
「おじゃまします」
「どうぞ先に、手を洗って下さい」
「そうさせてもらいまーす」
奥さんが洗面所で手を洗っているうちに、私はデスクから椅子を引き出し、ベッドに向い合せるように配置した。ソファベンチをテーブル代わりにするために引きずるように真ん中へと移動する。その上にコンビニの袋を置いた。
「あらー、すっかりセッティングされてる」
「私はベッドに腰かけますから、由比子さんは椅子にどうぞ」
「まぁ、ありがとう」
「テレビでもつけましょうか」
急に間が持つか心配になり、テレビの電源を入れ、小さめに音を絞った。画面では、たくさんの芸人さんが楽しそうに、手を叩いて笑っている。
「まなみさんも手、洗って来たら?」
「はい」
洗面所でサッと済ませて、部屋に戻ると、奥さんがキョロキョロ部屋を見渡して言った。
「私たちの部屋とは壁紙の模様が違うわ。やっぱりそれだけで雰囲気が変わるものねー」
「よく気づきましたね。私は全然わからなかったです」
酔っぱらいのせいで、ツインルームの壁紙にまで目をやる余裕もなかった。
「父がね、インテリア関係の小さい会社をやってて、私もそこで働いてるの。だから、つい、部屋の設備とかに目がいくのよ」
「へー、そうなんですか」
「一応、うちの夫が次の社長になる予定なんだけどね」
初耳である。
「でも、彼、継ぐ気なくなっちゃったみたい。継いでもらう約束で、結婚したんだけど、思うようにはいかないものねー。さぁ、乾杯しましょう」
もっと詳しく事情を訊きたかったが、奥さんは袋に入ったビールに手を伸ばすと、プシュッといい音を立てて缶を開けてしまった。
「あ、グラス」
「いらない、いらない。たまには学生のときみたいに、直飲みもいいじゃない」
浮かせた腰を元に戻し、私もビールの缶を開けた。
「カンパーイ」
二つのアルミ缶がぶつかると、カツッと乾いた音がする。一口飲むと、ビールの炭酸が、じゅわっと喉を通り抜けた。
「絶対にグラスで飲んだ方が美味しいってわかってるんだけど、不精して直飲みするのも、貧乏くさくて、しみったれた感じがしていいのよね」
奥さんの口から飛び出した、しみったれ、という言葉が、何だか不釣り合いでおもしろい。でも、そのしみったれた感じ、というのが、私にも何となくわかる。
カステラの切り落としが、溶けたザラメの甘さを吸い、ベタベタして美味しいように、貧乏くさくて、しみったれているからこそ、妙に美味しい なんてことがあるのだ。缶ビールの直飲みも、そんな後ろめたい味がする。
私はハートチップルの袋を開けた。こういう菓子を、夜も深まったこの時間に食べるからこそ、後ろめたくて美味しいのだ。
「今日はどのへんを観光されたんですか?」
「松島。景色のいいところだから、時間がかかるかと思ったけど、仙台から四十分くらいでいけるのね。観光船に一時間くらい乗って海風に当たったから、結構くたびれちゃって、予定より早く仙台に引き返してきちゃった。帰りの電車ではもう、ぐっすり」
洋平の肩に寄りかかって、うとうと眠る奥さんの姿を想像する。本当は、私がそこにいるはずだったと思うと、やはりうらやましい。
「でも、彼と観光してるより、こうしてまなみさんと、お酒を飲んでいるほうがずっと楽しいわ」
「え?」
「正直言うとね、夫と二人きりでいるのが気詰まりなの」
酔っているのだろうか。それとも、暖色系の照明のせいだろうか。奥さんの頬は熱を持っているように、仄かに赤らんで見えた。
「旅の恥は搔き捨てっていうものね……」
奥さんが独り言みたいにつぶやく。私が返事に困っていると、
「まなみさん、私の恥、聞いてもらえる?」
とっておきの内緒話でもするように奥さんが前のめりになる。その様子に少したじろぎながらも、私は「えぇ」と返事をした。
「 実はね、部屋で酔っぱらってグースカ寝てる、あの夫。浮気してるの」
第六話はこちら
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