「一泊二日」 第二話
◇◇◇
翌朝、部屋を出ると、早い時間にもかかわらず、青い空が目に飛び込んできた。こんな日に限って、雨ではない。
「雨だったらよかったのに」
空に向かって、そんな愚痴をつぶやきながら、部屋の鍵をかける。
息を深く吐き、キャリーバッグを引いて、私は駅へと歩き出した。この日のために買ったワンピースが、戦闘服のように私の身体を包みこむ。力強く歩く私の両脚に、その裾がうっとおしいほどにまとわりついた。
電車に乗って、東京駅へと向かう。
車窓からは、陽の光が恨めしいほど差し込んでいる。連なり続ける架線の先には、スコーンと音が聞こえそうな青空が見える。こんないい天気の日に、私は何をしているのだろう。
馬鹿なことをしているのだ私は。
そんなわかり切ったことを思ったら、何だか涙が出そうになった。目の奥にグッと力を入れて泣くのをこらえながら、私は爽快すぎる青空を睨みつけた。
その日は朝、六時台の新幹線を予約していた。仙台までは二時間弱。仙台の朝市を見てみたいと洋平と話していたので、早い時間にしたのだ。新幹線も、六時から七時台は、まだ空席が多い。にもかかわらず、真後ろの席にピッタリ寄り添うように愛人が座るのだ。焦る洋平を横目に見ながら、私はゆったりと駅弁を広げて、愛人の余裕というものをたっぷりと見せつけてやる。
私は、東京駅で可愛らしい箱のチキン弁当を買った。そして、駅の構内やホームで洋平と出くわさないようにするため、出発時刻近くまでトイレに潜んでいた。忍者のようにキョロキョロしながら、自分は一体何をしているんだろうと、思う。だが、ここまで来たら、もう引き返すつもりはない。
私は発車ギリギリに新幹線に乗り込んだ。
デッキから、予約した車両に向かう。すると、前方に洋平の後頭部が見えた。隣には彼より小さい黒髪の頭が見える。あの人が奥さんだろう。そう思った途端、心臓の鼓動が耳にまでドクドク響いてきた。
一歩一歩、二人に近づく。
数秒の時間だったはずだが、私には座席に着くまで、目の前の世界がゆっくりと、スローモーションで動いているように見えた。
私はそっと席に座った。
前の席では窓側に奥さんが座り、通路側に洋平が座っている。夫婦の密やかな笑い声が聞こえてきた。
奥さんが座っている席に、本当は私が座るはずだった。席取りゲームに負けて弾き飛ばされた私は、今、二人が並んで座る様子を、後ろから物欲しそうに眺めている。夫婦の楽しそうな雰囲気に、この旅行は私でなくても充分、成立した旅だったのではないか。そんなことを思って、やるせなくなった。
洋平は小声でしきりに奥さんに話しかけている。その口調は、私を元気づけようと、おどけているときと少しも変わらない。
本当にこの人は、私と付き合っているのだろうか。
不倫をするのは、妻に不満があるからで、きっと彼は私と一緒にいるほうが楽しいはずだ。そう思って自分を慰めたこともあったが、それはただの思い上がりだったのではないか。妻を見つめる彼の笑顔に、僅かに残されていた私の自信が、揺らいでいるのを感じた。
いつもの私なら、ここで完全に気持ちが萎え、自由席に移動し、一人寂しく駅弁をつついたに違いない。でも今日は違う。傷つく覚悟でここまで来ているのだ。堂々と、ここで駅弁を食べてやる。私は背もたれのテーブル台をセットし、そこに買った駅弁を広げた。
座席の隙間から、こちらの様子を窺う空気を感じる。洋平は、人が物を食べていると、それが何かを気にするタイプだ。一緒に外食をしても、隣の客が注文したメニューが美味しそうだと「あれにすればよかったかなぁ」なんて、よく言っていた。
洋平の視線が、広げられた駅弁から、徐々に上へ上へとあがっていく。その目が私をとらえた途端、彼の顔はみるみるうちに蒼白になった。
洋平はすぐさま正面を向き、一時停止したように固まっている。微動だにしなくなった彼を見て、
「どうしたの?」
奥さんが訊く。
「あぁ、何だかお腹が……ち、ちょっとトイレにいってくる」
洋平は席を立った。
「大丈夫?」
奥さんの心配する声を背に、洋平は私の席の横を通り過ぎていく。狼狽えた様子を見て、思わずニヤリと笑ってしまった。
少しして、スマホが振動した。洋平からだろう。
きっと「どうしてここにいるんだ」とか「どういうつもりなんだ」とか「帰ってくれ」だとか、そんなことを言うつもりでいるのだろう。
私はスマホの電源を切り、どうにでもなれという気持ちで、駅弁に手を付け始めた。
「あら?」
前方から声がした。
彼の奥さんが、窓と席の隙間から私の駅弁を見ている。自然と目が合ってしまった。
「覗いたりしてごめんなさいね。実は私も同じ駅弁を買ったものだから」
ニッコリ笑って、ほら、という感じで、窓と席の隙間から手を付ける前の駅弁を見せる。私は人見知りするタイプなので、こういうとき、どうしたらいいのかわからない。戸惑いつつも、
「あぁ、そうなんですね」
と、言うのが精いっぱいだった。愛人の余裕が一気に萎えそうである。
「新幹線に乗って、夫婦で駅弁を食べるのを楽しみにしてたんですけど、主人が朝早いと食べられないって言うから、私だけ買ったんです」
洋平は朝はコーヒーだけの人である。
それを知ってはいるが、今ここで「彼、朝はコーヒーだけですもんね」と言えるほどの度胸は無い。返事に困っていると、いいタイミングで車内販売のカートがガラガラとやってきた。
「すいません」
奥さんが販売員の女性を呼び止め、コーヒーを二つ注文した。夫婦で飲むのだろうと思っていたら、
「一つを後ろのかたに差し上げてください」
そんなことを言う。後ろのかたとは、もちろん私のことだ。意外な展開に私は思わず
「え!」
と声を上げてしまった。奥さんは不安そうに、
「コーヒー苦手ですか?」
と訊く。苦手ではないが、ご馳走になる筋合いはない。
「いえ、そんなことはないですけど……」
言い淀んでいるうちに、「じゃあ、どうぞどうぞ」と奥さんに丸め込まれるように、コーヒーを受け取ってしまった。
「これも同じ駅弁のご縁ですから」
同じ駅弁のご縁よりも、もっと複雑なご縁があることに奥さんは全く気づいていないようだ。
「あ、あの、有難うございます」
とにかくお礼を言うしかない。でもこのままお礼だけで済ませるのも、何だか癪な気がした。愛人としてのプライドが疼く。そんな無駄でしかないプライドが、私に思いがけない一言を言わせた。
「も、もしよければ一緒に食べませんか?」
私は一体、何を口走っているのだろう。あっちは夫婦で来ているのだから、一緒に食べるのはおかしい。まさかの展開に動揺したとはいえ、恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じた。苦笑いで断られるかと思ったが、奥さんは私の提案が、さも素晴らしいことのように目を輝かせた。
「いいんですか?」
いいも何も、自分で言ってしまったからには仕方がない。
「えぇ、もちろん!」
動揺しながらも、私はできるだけ明るく返事をした。奥さんはニコニコ顔で、
「じゃあ、座席をクルッてさせましょうよ」
そう言うと、慣れた手つきで、座席をくるりと回転させ、席を向かい合わせにしてしまった。
「わぁ、嬉しいわぁ。彼が付き合ってくれないから、一人寂しく食べるところだったのよ」
奥さんはそう言って、駅弁の蓋を開ける。
「あの、でもご主人様はいいんですか? 戻ってこられたら、相当驚かれると思いますけど……」
もしかしたら卒倒するかもしれない。
「いいのいいの、せめて食べ終わるまでは向かい合わせにしましょうよ」
歌うようにそう言うと、奥さんはうふふ、と笑った。こういうのを天真爛漫というのだろうか。私には絶対に真似できない芸当だ。
彼の奥さんは、丸顔の可愛らしい人だった。洋平より、少し年上とは聞いていたが、実際会ってみると、ふんわり柔らかい印象で、あまり年齢を感じさせない。若い頃はそこそこモテただろう。そんなことを思いながら、奥さんを観察していると、ビニール袋からペットボトルのお茶を取り出していた。
「あれ? さっき買ったコーヒーはお飲みにならないんですか?」
「これは、夫が飲むの。私はコーヒーが苦手なのよ。苦いのがダメなのね。いつまでも味覚が子供だって、夫から、からかわれてるわ」
そう言うと、また、うふふと笑った。
ほう、からかうねぇ。随分と仲がよさそうじゃないの。私は唐揚げを口に入れ、ワシワシ噛んだ。
すると、奥さんが通路に向かって笑顔で手を振った。洋平が戻ってきたのだろう。先程まで背を向けていたはずの座席が、クルリと回転している。彼の目に映るのは、奥さんの後頭部ではなく、弾けるような笑顔だ。
彼の脳内は今、この状況を、どのように情報処理しているのだろう。ちょっとしたバグが起こっているかもしれない。
「お、俺のいない間に何があったの?」
洋平の声は少しだけ上ずっていた。私が見上げると、彼はほんの一瞬、意味ありげな強い眼差しで私を見た。その視線の意味は
「何してるんだ」「何をしたんだ」「何があった」
そんなところだろうか。
「ねぇ、見てー。このかたと私、同じお弁当なのよ。お話しているうちにね、一緒に食べましょうってことになったの」
まるで、少女が友達に同意を求めるように、奥さんは私に「ねー」と言う。私も負けじと口角を上げた。
この特殊な状況に洋平は耐えられるだろうか。私がそう思っていると、彼は私と初めて会ったように装いながら、
「いやぁ、せっかくお一人でくつろいでいらしたのに、申し訳ありません。御迷惑でしょう? ほら、席を戻して」
奥さんに立ち上がるように促した。とにかく元に戻したくて仕方がないらしい。正常な反応だ。
しかし、私は好き好んで今、一人くつろいでいるわけではない。
「いいえ、大丈夫ですよ。私も誰かと一緒の方が楽しいです。やっぱり一人は寂しいですから」
私の痛烈な援護射撃に、奥さんも「ほらほらー」と言っている。洋平は諦めた様子で、向かい合わせになった通路側の席に座った。
この奥さんの天真爛漫さに、とことん乗ってみよう。今まで三年も付き合ってきた彼の奥さんがどんな人か知るいい機会だ。どうせ終わる恋ならば、とことん知り尽くして終わらせてやる。
「それにしても、今日はいいお天気でよかったですよね」
無難に天気の話をしてみる。
「そうなの、数日前の予報は雨だったでしょう? 心配してたんだけど、きっと彼の日頃の行いが良いのねぇ。今回の旅行は夫のサプライズなんですよ」
「まぁ、素敵。そうなんですか?」
洋平を見る。「あ、はい」と力なく返事をする彼は、何だか急に老け込んだように見えた。
「もう、急だったからビックリしちゃって。旅行にいくってわかってたら、お洋服も、新しいのを買いたかったわぁ」
「あぁ、わかります。実は私も今日のために、このワンピースと、キャリーバッグを買ったんです」
「えぇ、そうなの? いい柄ねぇ。スラっとしてらっしゃるから、何でもお似合いになるんでしょうね。うらやましいわぁ」
奥さんの褒め言葉に恐縮しながら、こんなに上辺だけの会話をしたのは久しぶりだと思った。傍から見れば毒にも薬にもならないような会話だが、女二人のやりとりは、洋平にとっては十二分に毒になっている様子だった。
「実は私も、今日は彼氏と旅行に来るはずだったんですけど、喧嘩しちゃったんです。でも、部屋に一人でいるのは癪なんで、思い切って出かけようと思って 」
奥さんが「まぁ」と言って、眉間に少しばかりの皺をよせた。無邪気な同情を感じる。でも、すぐさま笑顔になり、私に言った。
「あなたみたいに素敵なかただったら、旅先で新たな出会いがあるかもしれないわ。せっかく買ったワンピース、絶対に無駄にならないわよ。ねぇ、洋ちゃん?」
「あ、う、うん」
洋ちゃん、かなり毒が回ってきているようだ。
彼の表情は力なく、ぼんやりと虚空を見つめている。人というものは、どうにもならない状況に遭遇すると、諦観の境地になるらしい。
奥さんとの会話は、駅弁を食べた後も続いた。いつもはおしゃべりなはずの洋平は、銅像のように動かず、「ああ」とか「うん」とか曖昧な返事をするだけで精一杯な様子だった。
「あら、おしゃべりしていたら、あっという間。私たちは仙台で降りるので、そろそろ席を戻さないと 」
新幹線は降車駅の仙台に近づいていた。奥さんの一言に、洋平は安堵の表情を見せる。その顔にパンチするつもりで私は言った。
「実は私も仙台で降りるんです」
洋平の目が一瞬、天を仰いだ。奥さんは、
「まぁ、そうなの?」
と言って喜んでいる。そうして、また慣れた手つきで席を戻していた。
新幹線が仙台駅のホームに到着した。乗客が一斉に立ち上がると、皆、せかせかとデッキへと流れ込んだ。洋平夫妻の後ろをついて、私もドア付近へと向かう。
「本当に楽しかったわ。ありがとう。もしかしたら、仙台の街でまたばったりお会いするかもしれないわね」
「そうですね。コーヒーごちそうさまでした」
多分またすぐお会いしますよ、とは言わずに、私が微笑むと、ドアが開いた。
ホームに降りると、奥さんは笑顔で私に手を振ってくれた。洋平は、私に視線を向ける余力すらないらしい。小声で、「さぁ、いこう」と奥さんを促すと、夫婦二人の姿は、人波の中に消えていった。
第三話はこちら
いいなと思ったら応援しよう!
お読みいただきありがとうございました!
サポ―トのお金は資料本や必要な書籍購入の資金にさせていただきます。