夢と鰻とオムライス 第10話
車窓から外を見ると、日はすっかり高くなっている。アスファルトの照り返しが眩しい。こうちゃんもそう思ったのか、二人同時に車内のサンバイザーを下げた。
「そりゃあ、勝沼は暑いに決まってるよなぁ」
車を走らせながら、こうちゃんが言う。
勝沼は盆地だ。近頃では最高気温が四十度近くになる日もある。日照時間が長く、一日の寒暖差が激しいからこそ、桃やぶどうがおいしくなるのだ。
車窓から、当たり前のように実るぶどうを眺めていると、改めて旅に来たんだという実感が湧く。日の隙間から覗くグリーンや紫色が、じんわり目にしみるようだ。
「これからどこにいくの?」
少しウキウキしながら訊ねる。
「暑いからなぁ。とりあえずジュースでも飲むか」
そう言ってこうちゃんは、ワイナリーの駐車場に車を着けた。
中にジューススタンドでもあるのだろうか。
建物に入ってみると、壁一面の棚に、ワインが所狭しと並べられている。ここはワインの直売所らしい。
店の右端に冷蔵のショーケースがある。
先客がそこから自由に瓶を取り出し、小さなコップに注いでワインを飲んでいた。
こうちゃんがその様子を見てつぶやく。
「あー、瞬太が運転できたらなぁ」
運転手は当然、ワインの試飲は禁物だ。
「今日のところは、俺もジュースで我慢するかぁ」
こうちゃんは試飲用のコップを手に取った。このワイナリーではワインだけではなく、ぶどう果汁百パーセントのジュースも販売しているらしい。
こうちゃんが言っていたジュースというのは、この試飲のことだったのだ。
小さなコップに白ぶどうのジュースを注ぐ。
一瞬にして、果実の澄んだ香りがふわっと漂った。ほんのり黄色みがかった淡い色が、とてもきれいだ。
すうっと口に流し込むと、濃密な甘さが舌を驚かせた。
「美味しい!」
ぶどうなのに、蜂蜜のような風味がある。でもしつこくない。上品で芳醇な味わいだ。こんなに旨いジュース、飲んだことない。
次に赤ぶどうのジュースを注ぐ。
ぶどうの香りがなければ、万年筆のインクと見紛うばかりの濃い色をしている。飲んでみると、甘みの中に皮の渋みも感じられて濃厚。とても風味がいい。大人の味のぶどうジュース、といった感じだ。
「瞬太はどっちが好きだ?」
こうちゃんに訊かれ、白ぶどうジュースを指差した。蜂蜜を思わせる味わいは、飲んだときに驚きがある。
仕事や勉強の合間にこれを飲んだら、ほっと一息つけるだろう。解けなかった問題の答えが、すっと頭に浮かんでくるかもしれない。
「買っていこうかな」
普段飲んでいるジュースよりも、うんと高級だが、お土産に持って帰れば、話の種にはなるだろう。夏休みも終盤だ。自宅に帰った後のことも、考えなければならない。
とりあえず一升瓶の白ぶどうジュースを買って店を出た。
駐車場に止めた車が日に当てられて光っている。ボンネットの上に生卵を落としたら、目玉焼きができそうだ。
こうちゃんは渋い顔をしながら、車のドアを開けると、
「こんな熱々の車に置いといたら、せっかくのワインが酸っぱくなるよ」
そう言って、後部座席に乗せておいた特大のクーラーボックスに買ったワインを並べている。
夏場のワインの買い出しには、このクーラーボックスが欠かせないそうだ。中には大量の保冷剤と、ペットボトルに麦茶を詰めて凍らせたものも数本入れてある。
「お、そろそろ、麦茶も溶けてきたな。飲むか?」
「うん」
まだ少し、凍っているペットボトルを受け取る。ひやっと冷たくて気持ちいい。思わず首に当てた。
「それにしても、この暑さじゃ、保冷剤もすぐ溶けそうだね」
「うーん、ホテルのチェックインまでは、なんとか持ちそうだな。明日、途中でスーパーに寄って酒用のロックアイスでも買うかぁ」
こうちゃんはそう言いながら、運転席に滑り込み、エンジンをかけた。
「スーパーだったら、サービスで保冷用の氷とか置いてあるよね? あれじゃあ、だめなの?」
「市販のロックアイスだと袋にきっちり封がしてあるから溶けても、漏れないだろう? 水滴がつく程度で済むし、後片付けも楽なんだ。それに、完全に溶けても飲用水として使えるからな」
「なるほど」
理にかなっている。
「ほら、俺って世間では、《エコな男》で通ってるからさ。資源は無駄にしないんだよ」
わざと、得意気に言っているので、たぶん、これは冗談だろう。「あぁ、さいですか」と聞き流し、俺はエアコンの風量を調節する。ゴーッと音が鳴るくらいにエアコンを入れないと、車内の温度がなかなか下がらない。
勝沼の空は、絶好調に晴れ渡っている。
道沿いにあるぶどう棚のシャインマスカットや巨峰には、白い紙がかけられていた。まるで日傘を差した貴婦人のようだ。
「瞬太、今、何時だ?」
「十一時ちょっと前」
「じゃあ、そろそろ昼飯にしてもいいなぁ。瞬太、何食いたい?」
「せっかくだから名物がいいな。この前のほうとうも旨かったし。……でも、この暑さじゃ、さすがにほうとうは食えないかも」
熱々のほうとうは冬には良いだろうが、今日食べたら熱中症を起こしそうだ。
「《おざら》なんていうのもあるぞ」
「おざら?」
「簡単に言えば冷たいうどんだな。それを野菜入りの温かい汁をつけて食べるんだよ。あとは、《とりもつ》で有名な蕎麦屋もある」
「それって、鶏のもつ煮のこと?」
「そう」
「へぇー、なんかカップルで食べると縁起が良さそうだね」
「なんで?」
「二人の仲を《取り持つ》なーんて……」
「……」
おかしなことを口走ってしまった。こんなやりとりをあの母親に知られたら、未来永劫、話のネタにされそうだ。
「……こうちゃん、今、言ったこと、絶対に母ちゃんには言わないで……」
「え? なんだって? エアコンの音がうるさくて聞こえない」
嘘だ。
「こうちゃん!」
必死で頼み込んでいると、道の向こうに《手打ちそば》と書かれた看板が見えてきた。
「ほら、着いたから早く並ぶぞー」
こうちゃんは、さっさと車の外に出てしまった。
瓦屋根が波のように連なり、重厚感がある。古民家風の造りで、駐車場が広い。繁盛店らしく、開店前なのに既に人が並んでいた。
「いやー、一巡目に入れるかなぁ」
こうちゃんはぼやいていたが、運良く席に座ることができた。
メニュー表を開いてみると、蕎麦やとりもつだけではない。大エビフライや、とんかつ定食などもある。天丼も美味しそうだし、馬刺しもあった。名物料理も食べられる、町のお蕎麦屋さん、といったお店だ。
「迷ったときは、やっぱり《当店のおすすめ》に限るな。よし! 俺、そば定食にするわ。瞬太は?」
「じゃあ、俺も同じのにする」
一秒でも早く食事にありつきたいが、腹を空かせて待つ時間も、味のうちのような気がしてくる。
カシャカシャと食器が触れ合う音や、客が雑談を交わす音。
こうした繁盛店の活気の中にいると、自然と心が浮き立ってくる。
お待ちかねの《そば定食》は、なかなかのボリュームだった。
蕎麦、天ぷら、とりもつの他に小鉢が数点。なんとご飯もついていて、甘辛いとりもつとのマリアージュが最高だった。山梨の名物料理は、どれも素朴で力強い食べ物ばかりだ。
きっと、こうちゃんも恵梨子さんと二人、名物を味わいながら、のんびりと勝沼を巡っていたのだろう。そう思うと、こうちゃんの過去を辿りながら旅しているようで、不思議な気持ちになった。
第11話につづく
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