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流行は終わるが人生は続く~らーめん再遊記論「大江戸せあぶら軒編」~

 一人の男の挫折と復活を描くことで、非常に後味の良い終わり方をした「自販機茶屋編」の次に描かれるのが「大江戸せあぶら軒編」なのだが、前のエピソードの余韻を打ち消すかのように、かつて芹沢に屈辱的な経験をさせた因縁の相手、板倉との再会と、その報復として、芹沢による酷すぎる復讐の記憶が蘇ることから物語の幕があがる。

復讐を振り返っての芹沢さんの弁
『らーめん再遊記』4巻 No.158より

 そんな犬猿の仲である板倉との再会から、最終的には両者のわだかまりも解けて和解に至るこのエピソードもまた「自販機茶屋編」と同様の良い話として捉えられそうなのだが、そんなウェルメイドな結末よりも、そこに至る過程に「大江戸せあぶら軒編」の真髄がある。

 本エピソードの主眼は、一つの流行が終わったとしても、その過ぎた流行の当事者たちの人生は続くという当たり前過ぎる事実にスポットを当てる点にある。

 かつて板倉にした復讐の記憶を芹沢はほぼ完全に忘却していた。そして、板倉とともに「背脂チャッチャ系」ラーメンの隆盛と衰退もまた芹沢の視界と記憶の外にあった。そんなかつての自分が忘却し、見ていなかった現実を、改めて当事者として振り返る形で物語は進む。

 流行の外側にいる人間は、無責任にその流行の移り変わりとともに、「〇〇は終わった」などと軽々に述べてしまう。確かに流行というものは、それが激しければ激しいほどに確実に終わりを迎える。芹沢もまた「背脂チャッチャ系」ラーメンに関しては完全にそちら側に属する人間であった。

 だが、流行が終わってもその当事者たちの人生は続く。客が来る限り店の営業もまた続く。

  かつて90年代に一世を風靡し、やがては衰退した「背脂チャッチャ系」ラーメンだが、その存在が完全に消え去ったわけではない。ブームが過ぎ去ったとしても、その店独自の個性のある店舗や、地の利のある店舗は未だに繁盛を続けている。板倉が経営する「大江戸せあぶら軒」もまた、かつてはチェーン展開をしていたが、やがては本店のみにまで規模縮小したものの、どうにか現在まで営業を続けてきたラーメン店である。

 「大江戸せあぶら軒編」における重要な点として、ここで初登場する新キャラクター、グルタこと板倉和文の存在がある。因縁のある板倉の息子であり、ラーメンyoutuberとしても活動しているグルタは、この「大江戸せあぶら軒編」で芹沢と初めて出会い、このエピソードの牽引役となっている。以降も『らーめん再遊記』のレギュラーキャラクターとして定着し、芹沢や有栖とは淡い師弟関係が結ばれるようになる。

 芹沢も一目を置くほどのラーメンに関する批評眼を持つグルタは、実の父親が経営する「大江戸せあぶら軒」に対しては、厳しい目で評価をしている。だが、そんな理想が先走るグルタに対して芹沢の言葉が鋭い。誰よりも憎い因縁の相手であってもことラーメン店の経営に関しては、芹沢の視点は常にフェアだ。

kindle版『らーめん再遊記』4巻 No.199より

 ここで芹沢は流行が過ぎ去って衰退していく「背脂チャッチャ系」のラーメン店を経営する板倉の人生を肯定している。そして、自身の調査で「背脂チャッチャ系」ラーメンが完全に根絶したわけではなく姿形を変えて、現代にまで生き残っていることを体感として理解していく。

 『らーめん再遊記』が面白いのはラーメンを入口としてエンタメ論が展開される点にあるのだが、今回の「大江戸せあぶら軒編」では、一時的には激しく流行したがやがて衰退したエンタメのその後が、「背脂チャッチャ系」を通して描かれている点が興味深い。そして、流行が終わってすっかり衰退したと思っていたエンタメが、流行が去って以降も意外と地道に生き残っているものだというのは、ラーメンに限らず色んなジャンルで見られることでもある。

 それは、私の所属するゲーム業界で言えば、2Dシューティングゲームや格闘ゲームは80年代~90年代に隆盛したジャンルで、現在では衰退したという論調で語られがちだが、定期的に新作がリリースされて『ストリートファイター6』のようなヒットタイトルすら生み出しながら現在でも生き残っていることとも通じる。

 とはいえ、「大江戸せあぶら軒」に対する芹沢のテコ入れ案は、「背脂チャッチャ系」というかつて流行った形式に乗っかる形で流行った店舗なのだから、今度は「家系」や「二郎系」という現在進行形で流行っている形式に乗っかればよいという、身も蓋もないものだ。

 経営者である板倉自身にそこまでラーメンを作る力量も熱意もあるわけではないのだからそれはそれで全くの正論である。流行というものは、そのジャンルに愛着も熱意もないものにまで成功という果実を与えてしまう。そんな作り手が再び成功したければ、現在の流行にもう一度乗るというのは、最も手堅い案であることは間違いない。

 「大江戸せあぶら軒編」の前のエピソードである「自販機茶屋編」において、芹沢は一貫して宇崎という優れたラーメンの作り手に対して敬意を表している。それは宇崎が技術と熱意を兼ね備えた本物の作り手だからだ。それに対して芹沢は板倉というラーメンの作り手に対しては一切の期待をしていない。だから彼の店へのテコ入れも彼の力量に一切期待しない案となっている。そしてそれは全くもって正しい。

 その後、テコ入れ案をする以前に店自体を畳もうと思っていた板倉が、実はラーメン作りではなく中華料理の料理人としては真面目に修行を積んでいたことからくるチャーハン作りの腕前を持っていることに芹沢が着目し、「背脂チャッチャ系」と組み合わせたチャーハン店として再起することで店は再び蘇る。ラーメンの作り手としては全く評価出来なかったとしても、チャーハン作りに関する板倉の腕前を、芹沢は素直に評価する。そういう点においても芹沢はどこまでもフェアだ。

 かくして「大江戸せあぶら軒編」は幕を閉じる。完膚なきまでの復讐によってキレイさっぱり終わるかと思って完全に忘却までしていた板倉との因縁は解消され、残ったのは板倉の息子であるグルタとの縁である。

 板倉はかつて最も憎んだ相手から救いの手を差し伸べられ、畳むつもりだった店の再生に成功する。そして芹沢も同様に絶対に許せない相手との再会を通して、思わぬ形で弟子のような、自身の意思を継承してくれそうな存在と出会う。

 流行が終わっても人生は続く。復讐を成し遂げてもその人間が生きている限り、縁は続くのである。

 というわけで、「大江戸せあぶら軒編」に続くは、さらに深く苦い縁にまつわるエピソードである、「塩匠堂編」です。どうぞ↓


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