日本ステレオ伝【第2話】:長崎に上陸した魔法の箱 ─ ロシエと若き探求者たち
19世紀の魔法の箱「ステレオ写真」。スイス人写真家ロシエは、苦境にあった日本の若者たちに最新の「湿板写真」のレシピを惜しみなく伝授する。古川俊平や上野彦馬たちの強烈なDIY精神がここから爆発する!歴史探求の旅『日本ステレオ伝』が開幕。
1858年、長崎・銅座町での遭遇
時計の針を、今から約170年前、幕末の動乱期へと巻き戻しましょう。
1858年(安政5年)の春。ペリーの黒船来航から5年が経ち、開港地となった長崎は、西洋の未知なる文物が怒涛のように流れ込む、熱気に満ちた世界の窓となっていました。
福岡藩士の古川俊平は、藩命を帯びてこの長崎に出張していました。ある日のこと、彼が銅座町を徘徊していたとき、一軒の古物商の店先で奇妙なものに目を奪われます。それは、木でできた1つの雨眼鏡のような装置と、それに添えられた薄茶色の書12枚でした。
1893年に発行された写真専門誌の聞き書きには、日本人が初めてこの魔法の箱と遭遇した歴史的瞬間の様子が、生々しく記されています[1]。
その12枚の書は如何にも見慣れざるものにて珍しければ、亭主を呼びその出所来歴、及び何と呼ぶ画なるやを問ひしに……。
古川が店主に尋ねても、帰国するオランダ人が置いていったもので、何という品物かはわからないというつれない返事でした。しかし、その奇妙な眼鏡のレンズを通してカードを覗き込んだ瞬間、古川は言葉を失い、雷に打たれたような衝撃を受けたはずです。
平らなはずの紙切れの上に、自分が見たこともない異国の風景が、まるでそこに触れられそうなほどの生々しい奥行きを持って立ち上がっていたのですから。記録に残る限り、これが日本人が初めてステレオスコープという魔法の箱と遭遇した瞬間でした。

海を渡ってきた帝国の視線


古川がステレオスコープを発見した翌年の1859年(安政6年)。この魔法の箱を、単なる驚異の装置としてではなく、世界を切り取って売り捌くためのビジネスの武器として日本に持ち込んだ男がいました。スイス人写真家、ピエール・ロシエです[2]。
彼は好奇心旺盛な観光客として極東の地を踏んだわけではありません。当時、ステレオ写真の製造と販売で莫大な富を築いていたロンドンの巨大企業、ネグレッティ&ザンブラ社の特派員として、明確な目的で派遣されてきたのです。
当時のヨーロッパは、空前のステレオ写真ブームの真っ只中にありました。中産階級の人々は、安全で快適なリビングのソファに深く腰掛けながら、世界中の風景を3Dで消費する仮想旅行に熱狂していました。彼らにとって、長く分厚いベールに包まれていた神秘の国・日本が開国したというニュースは、絶対に手に入れたい極上の新コンテンツの出現を意味していました。
ロシエの2つのレンズが捉えたのは、ありのままの日本の姿というよりも、西洋人が見たいと欲望するエキゾチックな日本像でした。着物姿の女性、ちょんまげを結った武士、そして異国情緒あふれる寺院の風景。彼のカメラは、日本を被写体として一方的に観察し、西洋の消費社会に向けてアーカイブするための、帝国の冷徹な眼として機能していたのです。
冷徹な眼が授けた魔法のレシピ
しかし、ロシエと日本人との関係は、単なる撮る者と撮られる者という一方的な構図だけでは終わりませんでした。ここから、日本の写真史を根底から覆す奇跡のような技術的交差が生まれます。
当時の日本では、すでにダゲレオタイプ(銀板写真)と呼ばれる初期の写真術が伝わっていましたが、その扱いの難しさと高価な材料ゆえに、日本人たちは長く手探りの試行錯誤を強いられていました[3]。そんな中、極東の地でロシエが展開してみせたのは、より手軽で画期的なコロジオン湿板法という最新技術でした。
この最先端の撮影を行うには、複雑な化学薬品を調合し、素早く現像作業をサポートしてくれる有能な助手が不可欠でした。そこに接近したのが、長崎で蘭学を修め、写真術の解明に並々ならぬ情熱を燃やしていた日本の若き探求者たちです。
長崎のロシエの宿舎を訪ね、その教えを乞うた中には、古物商で魔法の箱の衝撃を受けた古川俊平や前田玄造、そして後に日本写真界の巨星となる上野彦馬らの姿がありました。ロシエは彼らを助手として雇い入れる代わりに、最先端のテクノロジーである湿板写真の化学的なプロセスを直接伝授したのです。
彼は単に撮影の様子を横で見せただけではありません。ヨウ素剤を混ぜたコロジオンを調合することで撮影時の感光を大いに促進させる画期的な工夫から、撮影の具体的な手順、そして現像の細かいコツに至るまで、実践的な技術を惜しみなく日本の若者たちに教え込みました[4]。
ダゲレオタイプの壁にぶつかっていた古川たちは、ここで決定的な事実に気づき、身震いしたはずです。あの古物商で覗き込んだ立体の幻影は、決して魔法などではなく、今まさに自分たちが学んでいる湿板写真という科学技術の延長線上に生み出されているのだと。日本を風景として消費しようとした帝国の眼は、意図せずして日本の若者たちに、魔法を自らの手で創り出すための決定的なレシピを手渡してしまったのです。
見よう見まねの国産化への情熱
ロシエから写真術の実践的な基礎と化学プロセスを学んだ日本人たちのリアクションは、凄まじい熱を帯びていました。西洋から持ち込まれた完成品をただ消費して満足するのではなく、その根源的なテクノロジーを自らの手でゼロから作り出そうとする飽くなき探求心へと一気に火がついたのです。
古川俊平と前田玄造は、教えられた実践的な知識と難解なオランダ語の専門書を頼りに、自らの手で化学薬品を精製し、レンズの光学的な仕組みを解き明かそうと猛烈な研究をスタートさせます。ステレオスコープという装置は、彼らにとって単なる娯楽品ではなく、未知なる化学と光学の世界へ飛び込むための強烈な着火剤となりました。
ここには、後に日本の写真・カメラ文化を力強く牽引していくことになる、あの強烈なDIY精神の萌芽がはっきりと見て取れます。長崎の地で、ピエール・ロシエという特派員を媒介にして、テクノロジーを独占しようとする西洋と、それを解体し創造しようとする日本のベクトルが見事に交差したのです。
黎明期の開拓者たちと、立体を捉えた2つの眼


古川俊平たちが燃やした探求の炎は、やがて日本各地で大きなうねりとなっていきます。
ロシエから直接指導を受けた上野彦馬は、その化学的知識を極め、やがて長崎で日本最初期の商業写真館を開業します[5]。一方、横浜では下岡蓮杖が、異国から持ち込まれた機材と格闘しながら、幾度もの失敗を乗り越えて独自の写真術を確立していきました[6]。彼らは、西洋から突きつけられた帝国の眼に対して、自らの手でレンズを磨き、日本の風景や人々を自分たちの眼で記録し直そうとしたのです。
そして、この写真黎明期の熱狂の中で、古川が古物商で覗き込んだ立体視の系譜をしっかりと受け継いだ男がいました。下岡蓮杖の門下であり、油絵や石版画など多彩な視覚芸術にも通じていた写真師、横山松三郎です[7]。
横山は、単なる平面の記録にとどまらず、2つのレンズを備えた専用のステレオカメラを操り、江戸城の建築物や人々の姿を精緻なステレオ写真として後世に残しました。彼が撮影した立体写真は、西洋人のエキゾチックな趣味に応えるだけのものではなく、移りゆく日本の姿を最新の3D技術で空間ごと保存しようとする、切実な記録の意志に満ちています。古川が抱いたセンス・オブ・ワンダーは、横山松三郎という類稀なる技術者の手によって、見事に日本製のステレオカードとして結実したのです。


最後の将軍が没入した仮想空間

この新しい視覚の魔法は、やがて時代の最高権力者の元へも届くことになります。江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜です。
新しいもの好きで知られる慶喜は、写真術そのものに強い関心を抱いていましたが、彼がこのステレオ写真の圧倒的な立体感に深く魅了されたのは、時代が明治へと移り変わり、静岡で長きにわたる蟄居生活に入ってからのことでした[8]。
かつて日本という国の頂点に立ち、激動の歴史の表舞台から姿を消した彼が、手持ち無沙汰な隠居生活の中で独り静かにレンズを磨き、箱の中に広がる3Dの仮想空間に没入していたという事実は、なんとも象徴的で想像力を掻き立てられます。彼にとってステレオスコープは、失われた天下の代わりに手に入れた、掌サイズの新しい世界だったのかもしれません。
なぜ魔法の箱は熱狂を生まなかったのか
西洋における大流行と、ロシエからの技術伝授を経た日本国内での熱心な受容。これらの事実を並べると、日本でもステレオ写真が一大ブームを巻き起こしそうなものですが、歴史はそう単純ではありませんでした。
欧米のように、この魔法の箱が一家に1台のテレビのような巨大な大衆文化へと発展していくことは、日本においてはついにありませんでした。西洋の中産階級をあれほど熱狂させた完璧な3Dは、なぜ日本の大衆の心を掴むことができなかったのでしょうか。
その謎を解く鍵は、当時の日本にすでに深く根付いていた、強大すぎる先住民たちの存在にあったのです。
脚注
[1] 『寫眞新報』における古川俊平の逸話
1893年(明治26年)に発行された写真専門誌に掲載された記録。福岡藩士の古川俊平が長崎で立体鏡と立体写真を入手した歴史的瞬間の様子が記されています。
寫眞術傳來取調に關する書類・其一
[2] ピエール・ロシエとネグレッティ&ザンブラ社 (Pierre Rossier / Negretti and Zambra)
ロシエはスイス出身の写真家で、英国の光学機器メーカーの依頼でアジアを撮影しました。彼が撮影した日本のステレオカードは、西洋に向けた最初期の商業コンテンツとなりました。
1959年にピエール・ロシエがネグレッティ&ザンブラの依頼を受けステレオ写真を撮影するために来日した。
[3] ダゲレオタイプ(銀板写真)
1839年にフランスで発明された世界初の実用的な写真技法。銀メッキされた銅板を感光材料として用いますが、露光時間が長く複製もできないため、日本ではその扱いに多くの蘭学者たちが苦戦を強いられていました。
[4] ピエール・ロシエによる湿板技術の伝授
1858年から1859年にかけて長崎に滞在したロシエは、上野彦馬、前田玄造、古川俊平らにコロジオン湿板法の撮影技術を指導しました。ヨウ素剤を用いた感光の促進など、彼がもたらした実践的なレシピは日本の写真史を大きく前進させました。
舎密局必携『来舶の佛人、魯支英(ロシエイ)ノ説』
蘭疇(松本良順)の『写真技術の始まり』
寫眞術傳來取調に關する書類・其一
[5] 上野彦馬 (うえの ひこま)
幕末から明治にかけて活躍した日本の写真開拓者の一人。ロシエから学んだ化学知識を活かし、1862年に長崎で写真館を開業。坂本龍馬など幕末の志士たちの姿を記録しました。
1862『撮形術・ポトガラヒー』上野彦馬
舎密局必携『来舶の佛人、魯支英(ロシエイ)ノ説』
1911 『上野彦馬翁』栗園の本邦写真家列伝・其二
[6] 下岡蓮杖 (しもおか れんじょう)
上野彦馬と並び称される写真術の先駆者。横浜で外国人写真家から技術を学び、苦難の末に写真館を開業し、日本の商業写真の基礎を築きました。
『写真事歴 -日本写真の開祖・下岡蓮杖、その知られざる苦闘と功績-』明治24年(1891)11月山口才一郎記
1911『下岡蓮杖翁』栗園の本邦写真家列伝・其一
[7] 横山松三郎 (よこやま まつさぶろう)
下岡蓮杖に写真術を学び、写真・油絵・石版画などを融合させた独自の視覚芸術を追求した人物。旧江戸城などをステレオカメラで撮影し、日本の立体写真史に重要な足跡を残しました。
1911『横山松三郎氏』栗園の本邦写真家列伝・其五
[8] 徳川慶喜の写真趣味
江戸幕府第15代将軍である徳川慶喜は、明治維新後に静岡で隠居生活を送る中で、本格的に写真撮影や油絵などの趣味に没頭しました。彼が遺した品々の中には多数のステレオ写真やステレオスコープが含まれています。
日本ステレオ写真愛好家列伝
https://note.com/haeckel/n/n485bd9a9aa10
