短編小説|茶色の瞳 #第二回すべて失われる者たち文芸賞
扉を開けて葬祭場へ入ると、その人はいた。
僕を見て彼女は「隆太」とつぶやく。あれから十数年が経ち、僕も彼女もとうに三十歳を過ぎた。
彼女は知里といい、小学校の同級生だった。物静かな女の子で、意志の強そうな大きな茶色の瞳をしていた。障害のある弟がいて、よく近所を付き添い一緒に歩いていた。
悪童から弟をばかにされ泣くこともあった。腕っぷしに自信のあった僕は知里を守りたくてよく声をかけたが、
「大丈夫。私も隆太みたいに強くなるから」
と言うばかりで、決して頼ってはくれなかった。
十代になり、僕はいつも苛立っていた。内科病院の院長である父は仕事場以外に世界のないつまらない男に見え、継ぐ将来を思うと気がふさいだ。両親との会話は減り、距離ができるばかりだった。
高校一年になり、たびたび父の病院で知里を見かけるようになった。初夏の頃、近所の空き家の縁台にぼんやり座っている知里を見つけた。
最近父の病院で見かけるよと声をかけると、知里は目を伏せ言った。
「うちの父、がんかもしれないって。大学病院を紹介してもらったの」
ひざに置かれた両手がふるえていた。父親を亡くしたら、体の弱い母と障害のある弟を自分が守っていかなければ、と言う。
「俺にできることがあれば、何でも言って」
そう言うと知里は、大きな目を輝かせた。
僕たちはその場所で、とりとめのない話をするようになった。彼女が心細そうにすると、僕は黙ってその手を握った。
ある日知里は、高校を出たら公務員になって家族を支えるんだと気丈なことを話し、かと思うと、父の病状、弟や母の話を不安そうにし出し、しまいには涙をこぼした。
一体僕は、何をしてあげられるのだろう。黙って知里の肩を引き寄せた。育ちすぎた背の高い雑草の密林が、僕たちを人目からさえぎった。
「隆太」
ふるえる声が耳元で聞こえた。「助けてよ、隆太」
僕は何も言えず、ただ腕に力を込めた。
ふいに雨が降ってきて、僕たちの肩の上や大きく葉を広げる雑草に降りかかった。庭の隅に鍵の開いたスチールの物置があり、僕たちは雨宿りしようとそこに入った。
立て付けの悪い扉のすき間から細い光が入り、知里の頬と髪の毛にひとすじ明かりがこぼれた。僕はその体を、乱暴に引き寄せ抱きしめた。
大切に守りたいのに、暴くようにすべてを知りたくなった。矛盾する心を抑えきれず、そのまま知里を抱いた。知里は僕にしがみつき、はじめて聞くような切ない声で僕を呼んだ。それから僕たちはそこで何度も、秘密の交わりを重ねた。
一度だけ二人で隣町へ出かけ、雑貨屋で携帯ストラップを買いプレゼントした。知里の瞳と同じ、澄んだ茶色のガラス玉がついていた。
ほどなくして、両親に知里の存在を悟られた。
「障害のある弟さんがいるそうだね」
父と母は、僕の将来のためには彼女を認められないと言うのだった。
僕はますます意固地になり知里にのめり込んだ。医学部には行かず家出をして知里と家族のために働くとか、あてもない将来の計画を語った。知里はいつも、それにうなずくだけだった。
いつしか知里は、二人の場所に来なくなった。家を訪ねても電話しても変わらなかった。一度だけ家から顔を出した知里は一言「もう終わりにしよう」と言うばかりだった。
僕は他県の大学の医学部に入り、そのまま勤務医になった。同僚の女医と結婚し子どもも生まれた。子どもは愛おしく妻は同志のような信頼のおける女性だが、僕はたびたび知里を思い出した。
澄んだ茶色の瞳、「助けてよ」とふるえる手、細い明かりに照らされた肌や僕を呼ぶ声。様々な記憶の断片がよみがえり、いつもたまらない気持ちになった。
父が引退を考える歳になり実家との行き来が増え、ある時知里の母親が亡くなったと聞いた。聞けば、父親を早くに亡くし、公務員になって結婚はせず実家を支えていたという。僕はいてもたってもいられず弔問に訪れた。今の僕なら、何か彼女の力になれるのではないか。
「病院継ぐって聞いたよ」
記帳をする僕に、受付のテーブル越しに知里は言う。僕はああ、と曖昧に答えた。ちさちゃん、お客さん? 場違いに大きく聞こえるのは弟の声だろう。知里は、この障害のある弟と二人きりになってしまった。
「俺にできることがあったら、何でも言って」
僕はテーブルから顔を上げた。懐かしい、茶色の瞳がそこにあった。
「あの頃、何もできなかったから」
ふいに知里は眉をゆがませた。瞳がゆらゆらと揺れる。慌てて伏せられた目から、涙がこぼれ落ちた。
「何もないよ」
知里は絞り出すように言った。ちさちゃん、ちさちゃん。奥から大きな声が聞こえる。
「私は、誰にも頼りたくない」
小さな声で呪文のようにそう言って、知里は僕に背を向け弟のもとへ向かった。
その時知里のポケットからスマホが落ち、ストラップのアクセサリーが割れて飛び散った。知里の瞳の色のガラス玉だった。僕は何も言えず、そこに立ち尽くしていた。
(了)
本文1991文字
個人文学賞「第二回すべて失われる者たち文芸賞」応募作品です。
モノカキコさま
素敵なイラストにひとめぼれし、タイトル画に使用しました。ありがとうございました。
