制度は見えないからこそ学ぶ必要がある
国際機関や国際協調は、日々の暮らしの中では手応えを持ちにくい。
けれども、手応えがないことは虚構であることを意味しない。
むしろ現代的な生活は、見えにくい制度、交換、分業、資源調達、外交によって支えられている。
その見えにくさを「大きな幻想」と呼ぶ前に、制度が何を支えているのかを考えたい。
ある記事を読んだ。
そこでは、戦後の国際機関や国際的連帯が、かつては平和への理想だったものの、現在では民衆にとって手応えのない虚構になりつつある、と論じられていた。
国際機関や国家のような巨大な装置に委ねるのではなく、クラウドファンディングやふるさと納税のように、自分で支援先を選び、自分の納得感を伴う「小さな政治」が求められている。
そのような個人の意思を直接反映する仕組みを、記事は「ナノ・デモクラシー」と呼んでいた。
この整理には、分かる部分もある。
国際協調や国際機関は、生活実感から遠い。
海外援助や国際機関への拠出が、自分の暮らしにどう返ってくるのかは見えにくい。
国内にも困っている人がいるのに、なぜ海外に支援するのか。
なぜ国際機関にお金を出すのか。
なぜ遠い国の紛争や貧困や感染症に関わるのか。
こうした疑問が出ることは自然である。
ただ、その見えにくさを、国際的連帯そのものの虚構化として語ることには違和感がある。
見えにくいことと、存在しないことは違う。
手応えがないことと、意味がないことも違う。
むしろ現代社会では、重要な制度ほど日常の手触りから遠くなりやすい。
水道、電力、通信、金融、物流、医療、安全保障、国際協調は、普段それを意識しないからこそ機能している面がある。
国際機関や国際協調も、そのような見えにくい制度の一部として考えたほうがよいと思う。
国際機関は戦後の幻想として始まったわけではない
まず、国際機関を「戦後の大きな幻想」としてだけ捉えることには無理がある。
国家を超えた平和維持や国際協力の試みは、第二次世界大戦後に突然始まったものではない。
第一次世界大戦後には国際連盟が作られている。
国際連盟は、集団安全保障と軍縮によって戦争を防ぎ、交渉や仲裁によって国際紛争を解決しようとした機関だった。
もちろん、国際連盟は第二次世界大戦を防げなかった。
その意味では、安全保障機構として大きく失敗したと言わざるを得ない。
アメリカが加盟しなかったこと、主要国の離脱や侵略を止められなかったこと、強制力が弱かったことは、国際連盟の限界としてよく指摘される。
しかし、だからといって国際連盟がまったく意味を持たなかったわけではない。
国際連盟規約や関連制度には、労働条件、人身売買、違法薬物の取引、武器取引、公衆衛生、委任統治下の住民保護など、国境を越える問題が含まれていた。
国際司法、労働基準、難民保護、保健、技術的協力といった領域には、戦後の国際機関へ引き継がれる蓄積もあった。
つまり、国際機関の歴史は、崇高な理想が生まれて、それが幻滅へ変わったという単純なものではない。
失敗し、限界を露呈し、それでも一部の制度や知見を次の枠組みに引き継いできた歴史である。
国際機関は幻想として始まったというより、失敗を含みながら改良されてきた実務の積み重ねとして見るべきだと思う。
少なくとも、この見方のほうが身を捧げた先人達にとってはフェアなはずだ。
国連憲章は国際機構を手段として書いている
国際連合についても同じことが言える。
国連憲章には、たしかに理想的な言葉が並んでいる。
戦争の惨害から将来世代を救う。
基本的人権と人間の尊厳を確認する。
社会的進歩と生活水準の向上を促進する。
そうした文言だけを見れば、国連を大きな理念の象徴として読むことはできる。
しかし、国連憲章は、国際機構をそれ自体が目的であるかのようには書いていない。
前文には、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いる、とある。
ここで国際機構は、信仰の対象ではなく、目的を達成するための手段として位置づけられている。
平和、安全、人権、社会的進歩、経済的・社会的発達を促進するために、国際機構を用いるという順序である。
国連は世界政府ではない。
加盟国の主権平等を前提にし、紛争の平和的解決、国際協力、専門機関との調整、国際司法、信託統治などを制度化した実務装置でもある。
そう考えると、国際機関を批判する際に必要なのは、「大きな幻想が終わった」という言い方ではないだろう。
どの道具が、どの目的に対して、どの程度機能しているのか。
どこで機能不全を起こしているのか。
どこを改革すべきなのか。
そこを見なければならない。
国際機関を神聖視する必要はない。
同時に、幻想として片づける必要もない。
制度は道具である。
道具であるなら、使い方、費用、成果、失敗、代替手段を検討するべきである。
関係見直しは幻滅ではなく政策判断でもある
この観点から見ると、近年のアメリカの国際機関への態度も、少し違って見える。
アメリカ、とくにトランプ政権の国際機関への懐疑や関係見直しは、国連やWHOなどを軽視しているようにも見える。
実際、そのように受け止められる面はあるだろう。
しかし、国際機構が手段であるなら、ある国がその関係を見直すこと自体は不自然ではない。国家の利益、主要先進国としての国際協調上の責任、国内世論、財政負担、同盟関係をどう調整するかは政治判断である。
その政治判断を掲げる大統領は、選挙によって信任されている。
選挙で勝ったからすべての政策が正しいという話ではない。
けれども、国際機関への関与をどうするかは国内政治の争点であり、主権者の選択を経て政策化される。
国際協調を重視する政治を選ぶこともできる。
国際機関への拠出を削る政治を選ぶこともできる。
安全保障を優先する候補を選ぶことも、国内再分配を優先する候補を選ぶこともできる。
したがって、国際機関への関与見直しを、ただ「大きな幻想への幻滅」として読むのは粗い。
そこには、国際機関を手段として扱う主権国家の政策判断がある。
国家利益、同盟、国際公共財、国内世論のあいだで、どのような均衡を取るかという政治がある。
ただし、関係を見直すことが制度上あり得ることと、その判断が賢明であることは別である。そこは当然批判対象になりうる。
だから、問題にすべきなのは、関係を見直すことそのものではない。
その判断が長期的な国益にかなうのか、同盟や国際公共財を損なわないのか、代替手段はあるのかを検証するとである。
国際的連帯は誰にとって虚構なのか
国際的連帯が、民衆にとって手応えのないものに見えるという指摘には、一定の妥当性がある。
海外援助や国際機関への拠出が、自分の生活にどう接続しているのかは分かりにくい。
たとえば、ある国へのインフラ支援が、その地域の安定や経済成長につながり、結果として日本企業の活動環境や資源調達や安全保障に関係する。
そう説明されれば理解はできるが、日々の生活実感からはかなり遠い。
国際協力を実生活に接続して理解するには、国際政治、国際経済、外交、安全保障、開発援助、通商、サプライチェーンの知識がいる。
そこまでの知識がなければ、国際協力は「遠い誰かへのきれいごと」や「国内を置き去りにしたエリートの理念」に見えやすい。
ただし、それは国際的連帯が本当に虚構だからではなく、接続経路が複雑で見えにくいからである。
日本は現在では主要先進国として援助する側にいる。
しかし、第二次世界大戦後には援助を受ける側だった。
ユニセフによる支援、アメリカのGARIOA・EROA、世界銀行借款などを通じて、食料、医薬品、復興物資、インフラ整備に関わる支援を受けた時期がある。
支援を受ける側にいたとき、国際的連帯は抽象的な虚構ではなかったはずだ。
食料が届く。医薬品が届く。学校給食が支えられる。
復興物資が入り、インフラが整う。
それは生活と復興に関わる具体的な力だった。
国際的連帯は、支援を受ける側には具体的に見えやすい。
一方で、支援する側、拠出する側、負担する側には抽象的に見えやすい。
だから問うべきなのは、国際的連帯は虚構になったのか、ではなく、
誰にとって、どの局面で、国際的連帯は手応えを失って見えるのかだろう。
互恵性と外交としての援助
日本がかつて支援を受けた側であり、現在は支援する側に回っていることは、互恵性の観点から自然である。
かつて自分たちが助けられた。
その支援によって復興し、余力を持つようになった。
だから今度は、自分たちが他国の発展や安定に寄与する。
これは単なる美談ではない。
国際関係においてかなり妥当な循環である。
もちろん、援助は純粋な善意だけで動いているわけではない。
援助は外交でもある。
相手国との関係を強化する。
国際社会での信頼を得る。
自国企業の進出環境を整える。
資源や物流の安定に関わる。
感染症、災害、貧困、紛争、難民といった越境リスクを抑える。
国際機関での発言力や支持基盤を確保する。
こうした実務的な意味がある。
国際協力は、遠い誰かへの抽象的な善意ではない。
過去に受けた支援への応答であり、外交であり、安全保障であり、将来の安定への投資でもある。
そこを見落とすと、なぜ国際協力をするのかが分からなくなる。
国内にも困っている人がいるのに、なぜ海外へ支援するのかという疑問だけが残る。
その疑問に答えるためには、互恵性、外交、安全保障、経済関係、国際的信用を含めて説明する必要がある。
ふるさと納税は手応えだけでは説明できない
元記事の主張の、国際的連帯は手応えがない。
だから人々は、ふるさと納税やクラウドファンディングのような小さな選択を求める。
この流れは、一見するとつながっているように見える。
自分で支援先を選べる。
自分の意思で資金を投じられる。
結果が見えやすい。
そこに「手応え」がある、という説明である。
けれども、ふるさと納税については、制度上の金銭的インセンティブを無視できない。
ふるさと納税は、寄附先を選べる制度であると同時に、税額控除と返礼品によって強い誘因が生じる制度である。
多くの利用者にとって、実質負担を抑えながら返礼品を受け取れる制度として見える。
ポータルサイトの利便性や返礼品競争も、利用者の行動を後押ししてきた。
もちろん、応援したい地域を選ぶ人はいる。
災害支援や地域支援として使う人もいる。ふるさと納税に公共的な意味がまったくないとは言わない。
しかし、その人気を「小さな政治への渇望」だけで説明するのは無理がある。
そこには、税制と返礼品が作る制度的な得があるし、消費的な選択もあるし、自治体間競争がある。
つまり、これはもはや実質的な商品購買行動と変わらない。
ふるさと納税を、国際連帯に代わる「手応えある公共性」の例として扱うなら、その経済的インセンティブを正面から見なければならない。
そうでなければ、得をする制度設計を、政治的な納得感へ読み替えてしまう。
国際協力の見えにくさを問題にすることと、ふるさと納税の人気を語ることは、別の問題である。
そこを「手応え」という言葉だけでつなぐと、論点がずれる。
小さな選択は大きな制度の上に乗っている
「ナノ・デモクラシー」という言葉は、個人の納得感や小さな選択を重視する点では魅力的に聞こえる。
自分が納得した対象に支援する。
顔の見える関係を重視する。
自分の手が届く範囲で変化を起こす。
こうした発想には意味がある。
行政や市場が拾いにくい需要を、クラウドファンディングや寄附が拾うこともある。
しかし、それは現代社会を補完する仕組みであって、現代社会そのものを置き換える仕組みではない。
現代的な生活は、巨大で見えにくい制度の上に成り立っている。
具体的には以下のようなものだ。
電力網、水道、下水道、道路、港湾、空港、鉄道、通信網、医療制度、年金、教育、警察、消防、防衛、司法、通貨、金融決済、感染症対策、食品安全、災害対応、国際物流、資源調達、標準規格、知的財産制度。
これらは、個人が手応えを持って選ぶには大きすぎる。
しかも、多くは誰かが選ばなくても維持されていなければ困るものである。
例をあげれば、
道路は、自分が好きな道だけ維持すればよいわけではない。
水道は、自分が応援した地域だけ通っていればよいわけではない。
感染症対策は、自分が共感する患者だけ助ければよいわけではない。
防衛や外交は、自分の納得感のある案件だけ処理すればよいわけではない。
現代社会には、手応えがないからこそ制度で処理しなければならない領域がある。
小さな共同体的な生活であれば、ナノ・デモクラシー的な感覚はもう少し機能しやすいかもしれない。
たとえば、アーミッシュ的な生活である。
生活圏を共同体内部に寄せ、手工業、農業、近隣扶助、宗教的規範、家族労働で支える。
現代的な通信やグローバル物流や先端工業製品への依存を下げる。
そういうトレードオフを受け入れるなら、手応えのある小さな生活はある程度成立するだろう。
ただし、それはすぐに真似できる生活ではない。
アーミッシュは単に近代技術を使わない人たちではない。
長い時間をかけて形成された共同体規範、手工業、農業、建築、教育、相互扶助の知識と設備を持っている。
完全な自給自足でもなく、外部社会との取引や選別的な技術利用もある。
彼らの生活は、小さいから簡単なのではなく、別の高度な制度と文化資本によって支えられている。
さらに、小さな共同体であっても、立地条件から自由ではない。
土地が肥沃で、水があり、気候が安定し、農業や畜産が可能で、木材や燃料、建材、衣類、工具、医療、塩、金属製品などを一定程度確保できる必要がある。
不毛な土地、寒冷地、乾燥地、山間部、島嶼部、都市周辺の狭小地では、自給は難しい。食料、燃料、衣類、道具、医薬品、建材のどこかで外部との交易が必要になる。
交易が必要になるなら、交通路、治安、信用、契約、通貨、法制度が必要になる。
地域内で得られないものがあるなら、広域の市場や行政制度に接続せざるを得ない。
小さな共同体は、自然条件や技能の蓄積に恵まれているとき、自立しているように見える。
しかし条件が崩れれば、交易と制度に支えられていることがすぐに露出する。
現代的な生活に戻れば、この依存はさらに明確になる。
私たちが普段手に取るスマートフォン、PC、自動車、通信機器、医療機器には、希少資源と複雑な部品供給網が関わっている。
製品としては身近でも、部品単位、素材単位まで見れば、国際取引なしには成立しないものが多い。
タンタルはその一例である。
タンタルは電子部品、とくにコンデンサなどに使われ、携帯電話、パソコン、自動車用電子機器などに関わる。
こうした資源は地理的に偏在しており、必要な場所で簡単に採れるわけではない。
しかも、資源調達には治安、統治、人権、紛争、物流、企業の責任ある調達が関わる。
採掘地が不安定であれば、単に市場で買えばよいという話では済まない。
武装勢力の資金源になっていないか。
人権侵害に加担していないか。
物流ルートは維持されているか。
現地政府や周辺国との関係は安定しているか。
このように別な問題が現に存在している。
場合によっては、協調だけでなく、支援、外交、安全保障、開発援助まで必要になる。資源を安定的に入手するためには、採掘地や周辺地域の安定が必要になる。そこには国際協力が関わる。
国際協力は、遠い誰かへの抽象的な善意ではない。
現代生活を支える資源、物流、製造、通商、外交の条件でもある。
私たちが手元で自由に選んでいるように見える製品ほど、実際には巨大で不可視な国際協調に依存している。
豊かさは分業と交換によって成り立つ
私たちの豊かさは、比較優位にもとづく分業と交換によって成立している。
各人、各地域、各国が、すべてを自分で作るのではない。
相対的に得意なものを生産し、不得意なものは交換によって得る。
その広域的な分業によって、生活水準は上がっている。
共同体の規模を小さくすれば、手応えは増えるかもしれない。
誰が何を作っているかが見える。
誰が誰を助けているかが見える。
何にお金が使われたかも見えやすい。
しかし、同時に失うものもある。
たとえば、
専門分化は浅くなる。
交換相手は減る。
市場は薄くなる。
信用の範囲は狭くなる。
資源や技能の偏りを内部で吸収しにくくなる。
危機が起きたときの分散能力も落ちる。
貨幣価値も、信用の範囲に支えられている。
貨幣は、単なる紙や数字ではない。
それを受け取ってくれる相手が広く存在するという信用のネットワークによって、交換可能性を持っている。
信用圏が狭くなれば、その貨幣で交換できる財やサービスの範囲も狭くなる。
地域通貨や共同体内部の信用は成立し得るが、広域の通貨と同じ購買力や流動性を持つわけではない。
手応えの小ささは、制度が遠いことの欠陥であると同時に、豊かさを支える分業と信用が広く張りめぐらされていることの裏返しでもある。
小さくなることは、温かい共同体や納得感を意味するだけではない。
分業の縮小、交換可能性の低下、信用圏の縮小、生活水準の低下も意味し得る。
学ぶことが国際協調を支える
わたしたちに今必要なのは、大きな制度を捨てて小さな手応えに戻ることではない。
制度によって助けられ、制度によって交換が維持され、制度によって豊かさが成立していることを知ることだ。
国も国際機関も、そのための広報や啓蒙をしている。
国連、外務省、JICA、ユニセフ、世界銀行、OECD、WHOなどは、活動報告、統計、白書、教材、広報記事を出している。
マスメディアも、その一部を報じる。
ただ、それを受け取るだけでは足りないことが多い。
広報はどうしてもきれいにまとめられる。
報道は事件や対立に寄りやすい。
SNSでは、負担感や不信感のほうが広がりやすい。
制度の地味な成功は、失敗したときほど目立たない。
そうなると、最後は学ぶしかない。
国際機関はなぜ作られたのか。
国際連盟は何に失敗し、何を残したのか。
国連憲章は国際機構をどう位置づけているのか。
日本は戦後どのような支援を受けたのか。
ODAは慈善なのか外交なのか。
希少資源やサプライチェーンはどう現代生活に接続しているのか。
比較優位と分業は、なぜ生活水準を上げるのか。
貨幣信用や法制度は、なぜ交換を可能にするのか。
こうしたことは、学ばないと見えにくい。
そして、学んだ先にしか見えない景色は確かにある。
「遠い国際機関に税金を取られている」という見方から、「自国の生活もまた国際制度の安定に支えられている」という見方へ変わる。
「海外援助はきれいごとだ」という見方から、「援助は互恵性、外交、安全保障、資源、通商、信用の政策手段でもある」という見方へ変わる。
「小さな選択だけが本物だ」という見方から、「小さな選択は大きな制度の上に乗っている」という見方へ変わる。
手応えがないものを虚構と呼ぶのではなく、手応えがない制度が何を支えているのかを学ぶ必要がある。
小さな理解が大きな制度を支える
個人の納得感や小さな選択は、大きな制度の代替物ではない。
むしろ、大きな制度を支える入口である。
国際協調や国際秩序は、外交官や国際機関だけで維持されるものではない。それを支える主権者の理解と信任によって成り立っている。
わたしたちは投票によってそれらに介入できる。
国際機関への関与を重視する政治を選ぶこともできる。
ODAを削減する政治を選ぶこともできる。
安全保障を優先する候補を選ぶことも、通商を重視する候補を選ぶことも、国内再分配を優先する政党を選ぶこともできる。
一票で直接すべてが決まるわけではない。
それでも、外交、国際協力、通商、安全保障に対する大きな方向性は、選挙を通じて政策へ反映される。
だから、これは理想論ではない。民主政治の現実である。
大きな制度は手応えがない。
だから小さな選択へ退く。
そう考えるのではなく、大きな制度が生活をどう支えているのかを学び、そのうえで政治的選択に参加する。
小さな選択が大きな制度を置き換えるのではない。
小さな理解と選択の積み重ねが、大きな制度を支える。
国際協調や国際秩序は、遠い場所にある理念ではない。
それはわたしたちの生活条件の一部である。
手応えがないから虚構なのではないし、それで済ませてはいけない。
見えにくいからこそ、学ばなければならない。
これは理想論ではなく、わたしたちの生活そのものを守るために必要なことだ。
参考資料
国際連合広報センター「国連憲章テキスト」
United Nations Office at Geneva “The Covenant of the League of Nations”
外務省「日本の戦後復興」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/04_hakusho/ODA2004/html/column/cl01009.htm
World Bank “World Bank’s Loans to Japan”
日本ユニセフ協会「日本に届いた世界の思い」
国税庁「No.1155 ふるさと納税(寄附金控除)」
OECD “Responsible mineral supply chains”
OECD “Due Diligence Guidance for Responsible Supply Chains of Minerals from Conflict-Affected and High-Risk Areas”
European Commission “Critical raw materials”
USGS “Niobium and Tantalum Statistics and Information”
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