日光シリーズ②日光東照宮「日の光」と魔除けの逆柱──家康公が設計した「未完の平和」と北辰の道を歩く
@Ricoです。
日光シリーズの続きです。
前回のシリーズ①では、日光山輪王寺を参拝し、天海僧正から「ととのえよ」という感覚を受け取りました。
(シリーズ①はこちら▼)
三仏堂の本地仏が体現する「山と仏の不二」、大護摩堂の五大明王による「障碍調伏」、そして神道の「祓い」。
三つの力が揃って「ととのえる」が成立するという気づき。
その「ととのえる」の先に、東照宮はあります。
徳川家康公。

戦乱の世に生まれ、幼少より人質として過ごし、数々の戦いを経て天下を統一した人物。
75年の生涯のなかで、家康公は何を最も恐れ、何を最も愛したのか。
その深層に迫るとき、いまを生きる私たちの気づきへと繋がっていくのではないでしょうか。
今回は、日光東照宮を実際に巡りながら、この場所に込められた「平和の設計思想」を読み解いていきます。
日光東照宮とは──東照大権現を祀る「平和の礎」
御祭神と御由緒
日光東照宮は、元和3年(1617年)、徳川初代将軍・徳川家康公を御祭神にお祀りした神社です。
家康公は天文11年(1542年)12月26日、三河国岡崎城(愛知県岡崎市)で御誕生。幼少より苦労を重ねて戦国乱世を平定し、幕藩体制を確立されました。世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年にわたる平和と文化の礎を築いた方です。
75歳で生涯を終えられたのち、直ちに久能山に神葬され、御遺言により一年後に現在の日光山に遷座されました。
正保2年(1645年)に宮号を賜り、「東照宮」と称されるようになります。
▶︎日光東照宮の概要
御祭神:東照大権現(徳川家康公)
創建:元和3年(1617年)
造替:寛永13年(1636年)三代将軍家光公による
文化財指定:世界遺産「日光の社寺」、国宝8棟・重要文化財34棟
所在地:栃木県日光市山内2301
公式サイト:https://www.toshogu.jp/

「東照大権現」という神号|神仏習合の極致としての権現信仰
ここで注目したいのが、「東照大権現」という神号の成り立ちです。
家康公を神としてお祀りする際、二つの流派が対立しました。
金地院崇伝が主張した「吉田神道」(明神号)と、天海大僧正が主張した「山王一実神道」(権現号)。
結果、天海の主張が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合の形で祀られることになります。
権現(ごんげん)とは、仏や菩薩が衆生を救うために「権(かり)」の姿として神の形をとって現れるという、本地垂迹思想に基づく神号です。
つまり、
「東照大権現」とは、薬師如来が衆生を救うために、家康公という神の姿をとって現れたもの、という意味を持ちます。
薬師如来は「東方浄瑠璃世界」の教主。
東の方角を司り、衆生の病苦を癒す仏です。
「東を照らす」── まさに「東照」の語源がここにあるのです。

シリーズ①で触れた天海僧正の山王一実神道は、法華経の真理のもとに神仏は本質的に一つであると説く立場でした。
ここで重要なのは、天海が「対立する二つの価値観を二項対立として処理しなかった」ということ。
吉田神道を排除したのではなく、山王一実神道の枠組みのなかに神と仏の両方を包含する形を選んだのです。
対立ではなく、融合。
排除ではなく、調和。
260年の平和を実現した徳川幕府の宗教的基盤には、この「調和の設計」があったのです。
久能山から日光へ──「八州の鎮守となろう」
家康公の遺言は、金地院崇伝の日記『本光国師日記』に記録されています。
「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」
「八州の鎮守」とは、関東八カ国、つまり日本全土の平和の守り神になるということ。
この遺言を実現するために、天海は驚くべき配置を設計したと伝えられています。
東照宮の元神職であった高藤晴俊氏の研究によれば、家康公ゆかりの地を結ぶ三本の「聖なるライン」が存在するとされます。
🔹太陽の道 ── 岡崎城(生誕の地)から鳳来寺山を経て久能山(埋葬の地)へ。東西一直線に並ぶ「生と死の道」
🔹不死の道 ── 久能山から富士山(「不死」に通じる)を経て日光へ。「永遠の存在」への道
🔹北辰の道 ── 江戸城から日光を経て北極星へ。「宇宙を主宰する神」への道
日光東照宮の陽明門と鳥居を結んだ延長線上に北極星が位置するよう設計されている、というのがこの説の核心です。
陽明門が「北辰門」の異名を持つのも、この配置に由来します。

古代中国において北極星は「天帝」と同一視され、天の中心に位置する不動の存在とされていました。
天海は、家康公を北極星と一体化させることで、「この世の政治を司る将軍」のいる江戸城と、「宇宙を主宰する神」である北極星を結ぶ南北の線上に東照宮を配置したと考えられています。
ただし、現代の測量技術で確認すると、日光は江戸城の「真北」からやや西にずれているという指摘もあり、諸説あることは付記しておきます。
それでも、家康公が自らの死後に「次世代の平和をどう設計するか」を遺言として残し、天海がそれを壮大な宗教的・宇宙的な空間設計として具現化したという事実は揺るぎません。
自分の人生の役割を、自分の死後にまで繋げようとした意志。
それが「八州の鎮守となろう」という言葉に込められています。
五重塔・御仮殿・東照公御遺訓──「急ぐべからず」との出会い
五重塔と十二支の彫刻
日光山輪王寺の参拝を終え、東照宮へ向かいます。
石鳥居をくぐり、すぐ左手に見えてくるのが五重塔。

1650年、若狭国(福井県)小浜藩主・酒井忠勝公によって奉納された塔です。 各層には十二支の彫刻が施されている。
ズームで覗き込むと、その細緻な造りに目を奪われます。

御仮殿の静けさ|常設は東照宮のみ
五重塔の反対側には「御仮殿 公開中」の案内が。
御仮殿とは、御本社を修理する際に御祭神を一時的にお遷しする建物。
仮殿が常設されているのは、日光東照宮だけなのだそうです。

なかに入ると、ひんやりとした空気。 正面には漆黒の扉があり、そこが神棚となっています。
扉には落とし錠があり、蝉の飾りが施されています。
また、漆黒の正面と対比するように、まわりの壁は金色で彩られ、神獣の彫刻が随所に施されています。

この日は陽明門が改修中だったこともあり、御仮殿でもご挨拶させていただきました。
とても静かな時間。 華やかな東照宮のなかに、こういう静寂の場所があることを初めて知りました。
東照公御遺訓との出会い
御仮殿の内部で、ふと目に留まったものがありました。
「東照公御遺訓」。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
この御遺訓については、実は後世の創作ではないかという説も存在します。
本当に家康公が遺した言葉なのかどうか、研究者のあいだでも議論があるのです。
とはいえ、この言葉が260年の平和を築いた徳川の精神を象徴するものとして、人々の心に響き続けてきたのは事実です。
創作であったとしても、「急ぐべからず」という言葉は、この場所に掲げられることで、一つの真実になっているのではないでしょうか。
ひとつ立ち戻って、自分の歩みを振り返ってみること。
感じ方はそれぞれにしろ、この言葉にはその力があると思うのです。
彫刻に刻まれた「平和の視覚化」
神厩舎の三猿|八面の猿の一生
仁王門を抜けると、神厩舎(しんきゅう)が見えてきます。
ここで有名なのが「見ざる言わざる聞かざる」の三猿。

ただし、三猿だけに注目すると、実はこの彫刻の全体像を見落としてしまいます。
神厩舎の長押上には、猿の一生をもって人間の生涯を風刺した全8面の彫刻が施されています。
「見ざる言わざる聞かざる」は、そのうちの一場面にすぎません。
母子の猿、志を持つ猿、挫折する猿、結婚する猿。
8面を通して見ると、人間の一生そのものが描かれている。
つまりこの彫刻は、「戒め」というだけではなく、「人間の人生全体を見つめる」ための装置として設計されているのです。

獏(ばく)の彫刻──鉄を食う瑞獣が意味するもの
境内を歩いていると、木鼻(きばな=柱の上端の装飾)に繰り返し登場する動物がいます。
獏(ばく)。
獏は古代中国の想像上の動物で、身体は熊、象の鼻、犀の目、牛の尾、虎の脚を持つとされます。疫病や邪気を払い、凶夢を食うとされるだけでなく、鉄や銅を食料とする瑞獣です。
鉄を食べる。
これは、武器に使う鉄が不要な世の中、すなわち「戦争のない平和な時代」にしか獏は現れないということを意味しています。
東照宮の境内に獏が数多く彫刻されていることが暗に示していること。
「この場所は、武器が必要ない世界を願っている」── そのメッセージが、彫刻という形で視覚化されているのです。

上神庫の「想像の象」
神厩舎のすぐ近くにある上神庫の側面には、狩野探幽が下絵を描いたとされる「想像の象」が彫られています。
探幽は実際の象を見たことがなく、伝聞だけを頼りに描いたため、現実の象とは少し姿が異なっています。
──マンモスのようにフサフサした体毛や、先端には房のような尻尾。
見たことのないものを想像して形にする。 その想像力こそが、東照宮の彫刻群を貫く精神なのかもしれません。

陽明門|改修中の「チラ見」
陽明門は、残念ながら改修中でした。
けれど、隙間からチラリと中を覗き込むと── 真っ白に輝く空間が広がっています。 天井画の龍もチラ見。笑っているように見えたりもします。


508体もの彫刻が施され、一日見ていても飽きないことから「日暮の門」とも呼ばれる陽明門。 その名は、宮中十二門のひとつ「陽明門」に因むとされますが、王陽明の「陽明学」との関連を指摘する説もあります。
いずれにせよ、この門の彫刻群には、中国の故事や儒教的倫理から、平和への祈りまで、あらゆる思想が凝縮されている。 まるで、一つの門に「文明」を彫り込んだかのような密度です。
「不完全の美」──魔除けの逆柱が伝えるもの
陽明門の12本の柱のうち、1本だけが逆さ
改修中の陽明門ですが、この門には非常に有名な「仕掛け」があります。
魔除けの逆柱(さかばしら)。
陽明門を支える12本の柱には、すべて「グリ紋」と呼ばれる渦巻き模様が施されています。 しかし、そのうち1本だけ、模様が上下逆さまになっている。
「満つれば欠ける」── 完成した瞬間から崩壊が始まる。
この言い伝えに基づき、あえて1本を未完成の状態にすることで、災いを避けるための魔除けとしたとされています。
昭和62年には、本社の拝殿や石の間にも逆柱が2本見つかり、合計3本の逆柱が存在することが判明しました。
「建物を完成させなければ、永久に崩壊はしない。
そうでありますように」
これは宮大工たちの祈りであると同時に、東照宮の設計思想の根幹を示しているのです。

「未完であること」の力
この逆柱の思想は、東照公御遺訓の「急ぐべからず」と深く響き合います。
急いで完成させない。
完璧を目指さない。
あえて「未完」のままにしておくことで、終わらない状態へ。
戦乱を知り尽くした家康公は、おそらく誰よりも「終わり」の恐ろしさを知っていたのでしょう。
天下統一という「完成」がもたらす油断を、家康は最も恐れていたのかもしれません。
だからこそ、「急ぐべからず」。
だからこそ、1本の柱を逆さにしてでも「未完」を保つ。
人生もまた、同じように捉えることもできるのではないでしょうか。
「完成した」と思った瞬間に、成長は止まる。
「もう大丈夫」と油断した瞬間に、足元が崩れる。
未完であること。 まだ途中であること。
それこそが、前に進み続ける力になる。
参拝を重ねるほどに、この感覚は強くなっていきます。
一つの場所を「分かった」と思わないこと。
何度訪ねても、新しい発見がある。 その「分からなさ」のなかにこそ、巡礼の本質があるのだと。
眠り猫から奥社へ|206段の先にある「日の光」
眠り猫の多層的象徴
唐門から本殿を遥拝し、いよいよ奥社へ向かいます。
奥社への入口となる坂下門の上に、あの有名な眠り猫がいらっしゃいます。
左甚五郎作とされるこの彫刻。しっかりと目を閉じています。
なぜこれほど有名なのか。
調べてみると、複数の読みが重なっていることが分かりました。
牡丹の花に囲まれ、日の光を浴びてうたた寝している姿。「日光」に因んで彫られたとされる
「猫が眠るほどの平和な時代」、すなわち徳川幕府の安泰を象徴している
実は寝ているように見せかけて、いつでも飛びかかれる姿勢をしている。家康公を守護する意味がある
裏側には雀が舞い遊んでいる。「猫が寝ていても雀が安心して遊べる」=平和の証
四つの読みが重なり合い、それは「平和」を一つの彫刻に凝縮した、まさに視覚化の極致とも言えるものだったのです。

坂下門の天井彫刻|現世と幽世の境界
坂下門は、江戸時代には将軍のみが通ることを許された「開かずの門」でした。

天井には「長寿を表す菊」と「現世と幽世(かくりよ)を結ぶ鶴」の彫刻が施されています。
ここから先は、家康公の御霊が鎮まる領域。
現世から幽世へ、一歩踏み出す境界が、この門なのです。
206段の石段と奥社宝塔|「日の光」との邂逅
いざ、奥社へ。
この向かう道がめっちゃテンション上がります。 テクテクと石段を登っていきましょう。

まだまだ。
まだまだまだ。
と思っていたら、あっという間に206段の階段を上っていました。

石狛犬さんが出迎えてくださいます。

唐門(鋳抜門)を抜け、鶴の燭台、唐獅子の香炉、花瓶の三具足が見えてきたその先に──
奥社宝塔。
家康公の墓所です。

ここで、不思議な感覚を覚えました。
「墓所」なのに、墓所感がない。
このあたり全体に、光がたくさん降り注いでいて、重さや暗さがまるでない。 まさに「日の光」── つまりは「日光」を感じさせる場所なのです。
通常の墓所は正直苦手なのですが、ここは全く違います。
光そのものが場を満たしているのです。

北辰信仰の思想に照らして考えると、家康公はここから北極星と一体化し、「不動の中心」として今も光を放っている、ということになります。
その光が、400年を超えた今も、この場所を訪れる者に届いている。
そう感じさせるだけの力が、この空間にはありました。
しばし、手を合わせます。
世界平和。
すべての最善を信じる力となりますよう。
叶杉と奥社拝殿
奥社宝塔のさらに奥に、御神木「叶杉(かのうすぎ)」が立っています。
この老洞に向かって祈ると、願いが叶うといわれています。

ぐるっと一周して到着するのが、奥社拝殿。
奥社宝塔を参拝するための社殿で、昇殿を許されたのは将軍のみ。
全体が黒塗で、バリア感のある雰囲気。
あらためて、こちらからもお参りいたします。

日光東照宮のポイントは、やはりこの場所。
上神道(かみしんみち)|二つの聖域を結ぶ道
奥社から戻り、東照宮の表門を出ると、修学旅行の学生さんの大行列。
早朝に参拝できて、ありがたやです。
さて、次に向かうのは日光二荒山神社。
東照宮の方に一番近い行き方を聞いたところ、教えていただいたのが「上神道(かみしんみち)」。
上神道は、日光東照宮と日光二荒山神社を結ぶ参道で、東照宮の表門を出てすぐ右側にあります。
もう一本の「下神道(しもしんみち)」は、石鳥居を出て右側の南側の参道を指します。

上神道は、東照宮と二荒山神社、二つの聖域のエネルギーが重なり合う道と言われています。
社殿側の木々がめっちゃ美しい。
道沿いの石燈籠も清々しくて、真っ直ぐに伸びる参道に足元が軽くなるのを感じます。

歩くことで、この場のエネルギーを同調させる。
この道を歩いているとき、明治以前の「日光山」としての一体性が、体感として伝わってくるのを感じます。
東照宮も二荒山神社も、かつては分かたれていなかった。
神と仏が一体であったように、この二つの聖域もまた、一つの霊場の中にあったのです。
上神道は、その記憶を今に伝える道です。

あっという間に到着。
日光二荒山神社。
扁額には「日光大権現」。

シリーズ③では、この二荒山神社の世界に入っていきます。
まとめ|未完であること。急ぐべからず。
日光東照宮。
この場所を巡って受け取ったものを、振り返ってみましょう。
✔️ 権現信仰の「調和」── 対立する価値観を融合させ、神仏を一体のものとして包含する設計思想。
✔️ 北辰信仰の「不動の軸」── 変化の激しい時代のなかで、自分のなかに動かない中心を持つということ。
✔️ 獏の彫刻が象徴する「武器なき世」── 平和は願うだけでなく、視覚化し、刻み込み、次世代に伝えるもの。
✔️ 久能山から日光への遷座が示す「意志の継承」── 自分の人生の役割を、自分の死後にまで繋げようとした覚悟。
✔️ そして、魔除けの逆柱が体現する「未完の美」── 完成した瞬間から崩壊が始まる。だからこそ、完成させない。
これらすべてが、一つの言葉に収斂していきます。
「急ぐべからず」。
平和は、完成しない。 完成させてはいけない。
だからこそ、急がず、歩み続ける。
1本の柱を逆さにしてでも「まだ途中」であることを保ち続ける。その「未完」のなかにこそ、永続する力がある。
戦乱を知り尽くした家康公が最も恐れたのは、おそらく「完成」だったのではないでしょうか。
天下を取った瞬間に油断が生まれ、平和が崩壊していく。
その恐れを知っていたからこそ、「急ぐべからず」であり、「逆柱」であり、「八州の鎮守となろう」という意思の現れだったのでしょう。
そして家康公が最も愛したのは、この「未完の平和」そのものだったのだと思います。
奥社宝塔に降り注いでいた「日の光」。
あの光は、400年前に家康公が設計した「まだ途中の平和」が、今もなお続いていることの証なのかもしれません。

わたしたちの人生もまた、未完のまま歩み続けるもの。
完成を急がず、一歩一歩、重荷を負うて遠き道を行く。
その歩みそのものが、すでに「平和の設計」なのだと、東照宮は教えてくれている気がするのです。

では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために
