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ドロップが溶けるまで

九歳の私は忙しかった。ドロップが溶けるまでの時間を、計らなければならなかったからだ。

左頬に入れた飴は、十七分。舌の上なら、八分。一粒口に放り込み、溶けてなくなるまでの時間をノートにメモする。何に役立つわけでもない。けれど当時の私にとっては立派な研究だった。

小さな頃から、誰かと一緒にいるより、ひとりでいることの方が好きだった。放課後、ゴム段で遊ぶ輪に入りたくても言い出せなくて、下駄箱からじっと見ていたことがある。せっかく誘われても、理由をつけて断ってしまうこともあった。一番なかよしの子と遊んだときでさえ、バイバイした後には、いつも深いため息がこぼれた。

家に帰っても、特にすることはなかった。共働きの両親は夜まで戻らず、家には祖母と私だけ。これといった遊び道具もない。親戚がくれたオルガンはあったが、弾き方を知らない。家にある小さい子向けの絵本は全部とっくに読んでいたし、偉人伝の漫画は、まだむずかしい。近くには図書館もない。

折り紙や塗り絵はあったけれど、自由に楽しめる遊びではなかった。母から「大切に使って」と念を押されていたからだ。塗り絵を一気に四ページ進めた日の夜、帰ってきた母に「もっとゆっくりやって」と釘を刺された。折り紙の作品を見せると、「こうすればまた使えるから」と目の前で開いて、シワを伸ばされたことがある。だんだんと、塗り絵も折り紙も手に取らなくなった。


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そんな私が、九歳のころに編み出したのが、あの「飴が溶ける時間を数えるゲーム」だった。親戚からはじめてドロップ缶をもらった時、胸がときめいた。缶を振ったときの、カラカラというくぐもった音がたまらない。なにより、このゲームは紙も使わないし、誰にも迷惑をかけない。飴は減るけれど、口の中は誰にものぞかれない。叱られる心配も、誰かに気を遣う必要もない最高の遊びを、私は手に入れた。

次に編み出したのは「時間あてゲーム」。目をつむり、設定した時間ちょうどに目を開けられたら成功。私はこれにのめり込んだ。十秒から始めた挑戦は、すぐに一分をクリアし、やがて十分、二十分、三十分と伸びていった。

放課後、四畳半の部屋でふすまを閉め、ひとりであぐらをかいた。目をつむり、体の感覚に集中する。

ある日、突然ふすまが開き、掃除中の祖母と目が合った。「な、なにしてるの……?」と祖母。私は「うん……ちょっとね」と少し笑いながら答えた。毎日続けていると、祖母はふすまを開けても、静かに閉めていくようになった。


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当時の私は、アニメ『ドラゴンボール』の孫悟空に憧れていた。仲間や地球を救うために、厳しい修行もいとわない前向きな姿勢。私が強くなって、家族の危機を救えば、父も母も祖母も、私のことをもっと褒めてくれるのではないか。

少しでも悟空に近づくために……。四畳半の部屋は、私の頭の中では、アニメで観た「精神と時の部屋」だった。重力は地球の十倍、空気は四分の一、零下四十度から摂氏五十度もの寒暖差がある過酷な環境。過ぎていく時間の感覚だけに意識を集中させる。三十分ぴったりに目を開けた瞬間、私はもはやスーパーサイヤ人。住んでいる町も、地球も、家族の危機も、ぜんぶ私が救える。本気でそう信じていた。

座禅が済めば、次は戦闘訓練。頭の中では壁や天井、ドアの裏から凶暴な人造人間が飛び出し、家族を襲う。そんな危機から皆を救うため、見えない敵と死闘を繰り広げる。敵に向けて放つパンチやキック、渾身のかめはめ波。三十分の激闘が終わるころには汗だくで、手足はプルプルと震えた。それでも、日に日に拳が力強くなっていくのが、なんとも誇らしかった。

「男の子みたいな遊びはさせない方がいい。アニメも見せない方が……」祖母と母がそんな話をしているのを、ふすま越しに聞いてしまったことがある。けれど結局、二人は私の孫悟空愛に根負けした。いや、正確には、見て見ぬフリをしてくれていたと言った方が正しい。

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当時、親に勧められて、水泳と書道を習っていた。どちらも自ら望んだわけではなかったけれど、座禅と戦闘訓練の成果か、水泳ではどの泳法も一発で合格した。

「ぜんぶ一発合格できる子は、なかなか珍しい」
「息継ぎまでの時間、みずきが一番長かったぞ」
優しい先生が驚き交じりに褒めてくれた。息を止めて時間に耐えることなら、負けない自信があった。なにせ毎日、修行しているのだ。あんなふうに褒めてもらえる場所が、もっとあればよかったな。

書道は、左利きの私を右利きにしたいという祖母の願いで、父が幼い頃に通った教室に通うことになった。使い慣れない右手で筆を持つのは大変で、最初は何を書いても字に見えなかった。それでも私は、書道教室が好きだった。

先生の家の玄関を開けると、墨と新聞の匂いがした。聞こえるのは、庭に来る鳥の鳴き声だけ。集中して穂先を動かしていると、頭がぼーっとするような、心地よい感覚に包まれることがある。四畳半で目を閉じている時と、同じ感覚。そんな日の帰り道は、足が軽かった。




三年生の夏。大きな台風が近づいていた。つけっぱなしのテレビから流れる、電車の運休や川の氾濫注意を伝えるニュース。両親は朝から仕事で、妹は保育園。家には私と祖母の二人だけだった。

祖母には持病があった。心臓の痛みを訴え、突然胸を押さえるようにしゃがみ込むことが、時々あった。
「タンスの上から二番目、右端にある薬……」
かすれた声に急かされ、私は背伸びをして必死に薬を探した。

黒電話の横にある電話帳には、母の勤め先の番号があり、「何かあったら電話して」と言われていた。私はいつでも電話できるよう、番号を暗記していた。「穂倉ですけど、お母さんお願いします」受話器を握る練習を、毎日欠かさなかった。

窓の外は、朝から鉛色。叩きつける雨の音が部屋に響く。テレビでは合羽を着たアナウンサーが、風によろけながら何か叫んでいる。木造二階建ての家が、強風にあおられてミシミシと音をたてるたび、恐怖がふくらんでいった。

「大きな台風だって。おうち壊れないかな?川があふれたりしないかな?」

祖母はシンクで野菜を洗いながら「どうだろうねぇ」とつぶやいた。

祖母はそういう人だった。優しい言葉をくれる人ではなかったけれど、いつも一緒にいた。この時ばかりは、祖母のそっけない答えに不安がいっそう膨らんで、少し腹がたった。

それでも、泳げない祖母を見捨てるわけにはいかなかった。もし本当にそんな危機が訪れて、私が立派に祖母を救い出せたら。そうすれば、お父さんもお母さんも、みんな私のことをもっと褒めてくれるかもしれない。

私はスイミングバッグを取りに、二階に上がった。ファスナーを開けると、プールの匂いがする。帽子をかぶり、ゴーグルを装着。いつ水が押し寄せても慌てないよう、ビート板を抱えて、そわそわと家の中をパトロールする。二階の窓を少し開けては、川の様子を確かめる。そして暇さえあれば、テーブルの上にお腹を乗せ、必死に脚を動かした。濁流を泳ぎ切るための、バタ足の練習だった。

夜になると次第に雨風が弱まり、合羽を着た両親が帰宅した。家族みんなが食卓につく。いつもの晩ごはんの音と、みそ汁の香り。大きなあくびがひとつ出た。それと同時に、出番を失った私の小さな野心は、行き場をなくしてしぼんでいった。


いつも通り晩酌を始めた父に尋ねた。
「川があふれて家に水が流れてきたら、みずきがビート板で泳ぎながら、ばあちゃんを助けられるかな?」
「うーん、ちょっと難しいかなぁ。危ないときには、すぐ帰って来るから」

父の言葉で、さっきまでの英雄気分はすっかり消えてしまった。一日中、本気で祖母を助ける練習をしていたことは、恥ずかしくて言えなかった。「よくがんばったね」と言ってほしかったけれど、何でもないかのように夕飯を食べた。お風呂に入って、歯を磨いた。


「ばあちゃんと二人きりの時に、もう台風が来ませんように」

仏壇の前に行って、誰にも聞かれないように小さく祈った。




誰かとバイバイした後のため息は、大人になっても完全にはなくならない。褒められたい気持ちに至っては、今こうして文章まで書かせている。でも、ひとりで好きなことに集中している時間だけは、昔も今も、静かに甘く過ぎていく。口の中でドロップが溶けるように。


ちなみに、五年生になると今度は歌手に憧れた。ライブで二時間歌って踊り続けられる体力をつけるため、四畳半の精神と時の部屋は、日本武道館へと姿を変えたのだった。


#創作大賞2026

#エッセイ部門



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