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カフェ・メモワール

引っ越し前日の夕暮れ。段ボールに囲まれた部屋で、桐谷陽介は本棚を片付けていた。

最上段に手を伸ばすと、見覚えのないアルバムに触れた。こんなものあっただろうか。

何気なくページを開き、息が止まった。

窓際の席で微笑む女性。白いブラウスを着て、コーヒーカップを両手にで包んでいる。その隣には―笑顔の自分が座っている。

「誰だ、この人…」

必死に記憶を辿る。でも何も思い出せない。なのに妙に懐かしい。胸の奥がざわざわする。

写真の裏を見ると「カフェ・メモワール2022.10.15」と書いてあった。

次のページをめくる。また同じ女性。その次も。二人で笑っている写真が何枚も続く。デートの記録のように。

でも彼女の顔も、名前も、全く思い出せない。

頭痛がしてきた。こんなにたくさん一緒に写っているのに、なぜ記憶がないんだ。

陽介は立ち上がった。

「行ってみよう」

このカフェに行けば、何かわかるかもしれない。失われた記憶の手がかりがそこにある気がした。

陽介はアルバムを持って部屋を出た。

翌朝、陽介は写真の背景を頼りに街を歩いていた。

しばらく探すと、古い路地に濃紺の暖簾を見つけた。手書きの看板に
「カフェ・メモワール」

ここだ。
扉を開けると、深い珈琲の香り。

「いらっしゃい」

カウンターの奥から、白髪のマスターが顔を上げた。その目が一瞬、何かを認識したように光った気がした。

「あの、すみません。僕、ここに来たことありますか?」

陽介は写真を見せた。

マスターはじっと写真を見つめ、それから窓際の席を指さした。

「あなたはいつも、あそこに座っていました」

心臓が跳ねた。

「やっぱり。それでこの女性は…」
「ブレンドでよろしいですか」

マスターは質問を遮るように言った。

導かれるように窓際の席に座る。不思議なことに、体が覚えているような感覚がある。何度もここに座ったような。

やがて運ばれてきたコーヒー。湯気が立ち上がる。

一口飲んだ瞬間―

記憶の断片が走った。この席。この味。「美味しいね」と笑う女性の声。温かい手の感触。でも映像がぼやけている。顔が見えない。

「マスター、この女性のこと覚えていませんか」

もう一度写真を見せる。

マスターは長く沈黙した後、小さく首を振った。

「さあ…たくさんのお客様がいらっしゃいますから」

嘘だ、と直感した。さっき「いつも座っていた」と言ったのに。

ふと壁を見ると、古い振り子時計が止まっていた。針は午後二時十五分を指したまま動かない。

窓の外を見る。街の景色がどこか現実感を失っているように見えた。

コーヒーを飲み終え、会計をしようとすると、マスターが言った。

「また来てください。そのうち…思い出すかもしれません」

不思議な言い方だった。

店を出て振り返ると、マスターが窓越しにこちらを見ていた。その表情は―同情と、何か別の感情が混ざったような。

引っ越し当日の早朝。どうしても気になって、陽介はもう一度あの場所へ向かった。

いつもの路地を進む。角を曲がる。
足が止まった。

カフェがあったはずの場所に、パステルカラーの雑貨店が建っている。
「OPEN2年目」という看板。

「そんな…昨日、確かにあったのに」

辺りを見回す。街灯の位置も、隣のビルも、何かが違う。

通りかかった女性に声をかけた。

「すみません、ここにカフェはありませんでしたか」
「カフェ?聞いたことないですね。私、十年以上この辺に住んでますけど」
「昨日、確かに…」
「ここは昔から雑貨店ですよ」

女性は怪訝そうに去っていった。
震える手でアルバムを開いた。
女性の姿が薄れている。

白いブラウスも、笑顔も、透けるように消えていく。そして―カフェの窓際には、陽介一人が座っていた。
向かいの席は空っぽ。最初から誰もいなかったように。

ページをめくる。すべての写真から女性が消えている。一人で笑う自分。
一人でカップを持つ自分。

最後のページに、見覚えのない文字が浮かんでいた。
『記憶は、孤独が生み出す幻である―カフェ・メモワールより』

引っ越しトラックの助手席。陽介は空っぽになったアルバムを膝に置いていた。

「出発しますね」

運転手の声。陽介は力なく頷いた。
トラックが動き出す。その時、バックミラーに濃紺の暖簾が映った。

振り返ると一角に「カフェ・メモワール」が見えた。窓際に白いブラウスの女性が座っている。こちらを見て、悲しそうに微笑んでいる。

「待って!」

でも声は届かない。トラックは速度を上げていく。
もう一度振り返る。
何もなかった。ただの空き地。

膝の上のアルバムを開くと、真っ白なページだけ。
でも最後のページに、新しい文字が現れた。

『また会いましょう。次の街でも、カフェ・メモワールは、あなたを待っています』

陽介は窓の外を見つめた。
本当に新しい街へ行くのだろうか。

それとも―同じ記憶を繰り返すだけなのだろうか。
トラックは高速道路へと入っていった。

(1967文字)


#第二回すべて失われる者たち文芸賞に参加します。


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