『紅の豚』と『永遠の0』、対になるふたつの哲学:生の美学と、死後の記憶の継承 #未来のためにできること
このエッセイは、noteで拝見した一本の映画評から思索の翼を広げたものです。Kadwaky悠さんによる示唆に富んだ記事、『【戦後80年】宮﨑駿が酷評した映画「永遠の0」を観た【映画評】』(https://note.com/jinfs2010/n/n896979d11687)は、宮﨑駿監督の「永遠の0」への痛烈な批判を切り口に、作品の本質に迫る興味深い論考でした。この記事をきっかけに、私の中で、宮﨑監督自身の別の作品との、ある意外な繋がりが見えてきました。
宮﨑監督は、「永遠の0」が零戦という神話を捏造していると批判しました。しかし、もし『永遠の0』における零戦を、戦争の象徴としてではなく、『紅の豚』のサボイアS.21と同じく、純粋な「飛ぶことの美学」の象徴として捉え直すとしたらどうでしょうか。両作品の主人公は、機体を単なる兵器としてではなく、自らの哲学を体現するための翼として捉えているように見えます。
この「美学」を共通の地平とした上で、二つの物語は、実に見事な対になる哲学を描いているように思えるのです。『紅の豚』が描くのが、「自分らしく生きる」という個の生の美学――物語がポルコ自身の内側で完結する哲学だとすれば、『永遠の0』が描くのは、「自分が死んだ後の記憶の継承」という、個の死を超えて他者や未来へと接続されていく哲学です。その選択は、主人公の生き様にも鮮明に現れています。ポルコは自らの美学のために「豚になって生きる」ことを選び、宮部は自らの美学のために「人間として死ぬ」ことを選びました。
その「継承」の哲学が最も劇的に現れるのが、宮部久蔵を憎んでいたはずの同僚・景浦が、戦後、彼の妻の窮地を救う場面です。宮部の生き様は、彼の死によって消えるのではなく、「記憶」として景浦の中に生き続け、全く予想外の形で未来に影響を与えた。それは、宮部の哲学が確かに継承された、何よりの証明でした。
一方は「生の哲学」、もう一方は「死後の哲学」。そう考えると、この2作は、まるで連作のように感じられます。片方だけでは描ききれなかった、人間の生と死、そしてその先にあるものを、二つで一つとして描きっている。
この2作は、連作として見て、初めてその哲学が完成するのかもしれません。
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