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【BL短編※R18】牡丹

こちらは8月のnoteでBL企画投稿作『月光』の続篇です。

本文には収まらなかった設定等を入れ込み、当主視点で書いてみました!
当主と千歳ママンの名前も出てきた(つけた)よ。
前作比だいぶ長くなってしまいました…(反省)

あと、加賀美がどこかに行ってしまいました。
加賀美を好きと言ってくださった方、すみません。

前作以上に暗いし救いがないあたり、無力でもやっぱり加賀美の存在は大きかったんだなと実感。

というわけでほんとに暗い闇当主編ですが、よろしければお読みいただけると嬉しいです!

※※※注記(重要)※※※
・未成年者の方は閲覧をお控えください。
・内容に性的支配や暴力の示唆を含む表現があります。
 対象者は成人ですが、苦手な方はご注意ください!!


本編

※※BL要素を含みますので、苦手な方はご注意ください※※
【タイトル】牡丹(スペース除き約12,800字)

 初めての贈り物は牡丹の花だった。
 白と赤が混じりあう大輪の花をつややかな髪に刺すと、彼女は頬を染めて微笑んだ。
 その、花よりも美しい顔。


1.

「不毛だ」
 言い捨てると、千歳は予想していたように目を伏せた。畏れながら、と呟くように言う声は決して大きくはないのに、なぜか耳を傾けずにはいられない。
「ご一族の将来に関すること。不毛どころか最重要の懸案事項と存じます」
 感情の読み取れない静かな声は何に似ているのだろう。ふと、そんなことを思う。
 せせらぎ。さえずり。
 雨音。
 そうだ。温く静かに降る、雨の音。激しく空を裂きはしない。その代わりにいつまでも降り止まない、春の終わりの雨だ。
「ご当主さま」
 思考に漂う心が、その一声で醒まされる。
「……なんだ」
 視線が絡まる。刺すでもなく、捕らえるでもない、ただ向き合う視線。
 向き合いながら、自分を受け入れることのない瞳。
 その瞳をゆっくりと伏せて、千歳は頭を下げた。
「ご一族を案じる先代さま方のご意見は正当なものと考えます。せめてご協議にご参加されますよう、お願い申し上げます」
 雨音のような声。いつの間にか内側に沁み入り、冷たく浸していく雨のような。
 この声で名を呼ばせられたら。
 そんな想いに灼かれる心をどこまでも拒む、黒曜石の瞳。
 そのすべてが憎い。
「……いいだろう。だがおまえもともに出席しろ。それならば良い」
 背後に控える鷹守がかすかに息を吐く。控えの間では、加賀美が拳を握っているだろうか。
 それなのに、千歳の瞳はどこまでも静かだ。
「かしこまりました。ご参加の旨、ご連絡させていただきます」
 どこまでも静かな声と瞳。
 自らを縛り引き裂くこの手に無言で従いながら、その心には決して届かせない。
 そのすべてが、憎い。
 視線が絡み合うなか、ふと過ぎる遠い声。

 あの声は、春の終わりのそよ風のようだった。


 千歳の母、千代子の生家は白鷹家の分家のひとつにあたり、傍流としては最も信を置いている家柄でもあった。本家の一字を冠する『鷹守』という名が、それを象徴している。
 当代当主である尚道にとって、千代子は直接的には再従姉弟はとこの関係にあった。
 きょうだいを持たなかった先代当主は、従兄弟である鷹守家当主を最も近い血族として慕った。そんな彼が、互いの子どもを結びつけようと考えたのは極めて自然な発想だ。
 一族の資産が他家に流出することを防ぎ、なおかつ結束をより強固にすることで、一族のさらなる発展の礎とする。当主という座にあるものならば、誰もが必ず同じ判断をしただろう。
 よって尚道は、千代子を血縁である以前に将来の伴侶と認識していた。伴侶なるものが何であるかを、理解する以前から。
 鷹守家、ひいては白鷹家にとって、千代子は一族に咲いた大輪の花だった。見るものを圧倒する美貌、控えめながら毅然とした気質、深い教養と打てば響く知性。旧家当主を支え、一族の将来を担う女性に必要なものを、彼女はすべて持っていた。
 美しく凛とした、将来の妻。尚道にとって、彼女はいつか手にするあらゆる資産のなかで最も素晴らしく、真実彼だけのものと言える唯一の存在だった。彼女を得られることは、当主という人生を定められたなかで唯一の、確実な幸福だったのだ。 
 だから彼女を失うことは、世界が閉ざされるような痛みだった。

 まして奪われたとあっては。
 世界は閉ざされるだけでなく、燃えたぎる闇に堕ちたのだ。

「本当に、千歳を伴うおつもりですか」
 問う声は静かだ。千歳と同じ、感情を読ませない声。
 この類似が当主側近という職務によるものか、あるいは個人の生まれによるものかはわからない。しかし確かに、このふたりは似ているのだ。
「なぜだ。不満か?」
 問い返すと、鷹守は答えずに目を伏せた。
 そんな態度も、よく似ている。
「老人たちの戯言には付き合いきれぬと何度も言うのを、頭を下げてまで参加せよと言ったのはあいつだ。時間の浪費は愉しみに変えるしかあるまい」
 鷹守の切れ長の目を縁取る睫毛がかすかに震える。静謐な筆で引いたような、流れるように美しいまなじり
 この類似は生まれだなと思う。彼らの血の、最も美しい部分のひとつ。
「不憫か、糾弾の的となる甥が」
 この声はどう聞こえるだろう。どのような感情が見えるのか、あるいは見えないのか。
「今さら気にかけて案じるか。自ら地獄へいざなった甥を。泣いて乞うのを捕らえて攫って、この檻の戸を開けたおまえが」
 静謐な眦がかすかに歪む。滲む苦悩に、心をひたひたと愉悦が満たす。
 この自分はどう見えるだろう。氷か、焰か、闇そのものか。
 当主たる座も、身を流れる血も、自分を顧みる際に浮かぶのは父の姿だ。旧家当主として君臨し、自分にすべてを与え、い、奪った存在。
 千代子の裏切りを決して許さず、連なるその血を絶え尽くすまで収まらなかった、地獄の業火のごとき父の姿。
 自分はあれと同じなのだ。意に沿わぬものを許さず、捕らえ、嬲り、灼き尽くす。その手に堕ちたものは、壊れるまで従うしかない。
 千歳も、鷹守も。
「……あれの母親の所業が許されざるものだとは理解しております。しかし、産み落とされたあれ自体に、果たしてどれほどの罪があるか。何を強いても、どれだけ責めても、お心が安らぐことにはならない。むしろ、」
「鷹守」
 耳に届く自らの声。その愉悦に満ちたやわらかな響きに、まるで睦言のようだと思う。
 そう、これは睦言だ。磨き抜いた爪の先で、静かに、やさしく、凍りつく心の扉を叩く。
 開けよ、入れよ、差し出せと、爪を光らせ囁く声だ。それが睦言でなくてなんだという。
 その心の、一番やわらかく血の濃い部分を、この爪の前に。そう囁いて、差し出される心にゆっくりと爪を埋めていく。
 これ以上の愉悦が、この世のどこにあるという。
「あいつの罪は生まれ落ちたことではない。俺を受け入れないことだ」
「……尚道さま……」
 麗しい眦が滲む。彼らの血の、最も美しい部分のひとつ。
 それは静謐を保つよりも、濡れて滲んで歪む様がより美しいと知ったのはいつだったか。
 それを教えた眦は誰のものであったのか。
 はるかに遠い記憶の闇を、大輪の牡丹が堕ちていく。白と赤が混じりあう、やわらかな花弁を散らして。
「次に千歳のことで俺を諌めればすべてを奪う。……再びその名を失うだけで済むと思うな」


 千代子が身籠っていると知れた時に何が起こったのかは、よく覚えていない。
 気がついた時にはすべてが終わっていた。千代子の生家は絶え、弟の鷹守は家を含むすべてを失い、千歳が生まれ、千代子は死んだ。
 覚えているのは、地獄の業火に灼かれる父の姿だ。一族に君臨し、すべてを支配した先代当主。一族の発展のために息子に与えるはずだった花が既に手折られていると知った時、彼は過たず鬼となった。
 先代当主の怒りは苛烈を極めた。地に堕ちた花は踏みにじられ、その花を育てた木は薙ぎ払われて根こそぎ焼かれた。塵ひとつ残らぬほどの、徹底的な断絶。
 だから千代子自身の、その弟の命が先代当主の手から逃れられたのは、奇跡でしかなかった。
 千代子を匿い、千歳を育てた加賀美家はその後長く辛酸を舐めたが、そうまでして守り抜いた命が今こうして弄ばれていることを、善良な彼らはどう思うのか。
 あるいはいっそあの時にと、思わぬ夜はないのだろうか。
 鷹守は当時十二。他家の養子となることで責めを免れたのは、彼が千代子に対し、なんの力も持たなかった故だ。
 正当なる一族の男子、かつ本人に何の落ち度も力もない少年。家が絶えても、その命を道連れにすることだけはという、あらゆる責めに耐えた鷹守家当主の懇願は、その少年に何一つ一族の恩恵を受けさせないという条件のもと、ひとつだけ叶えられたものだった。
 そうして家を、親を、姉を、名前を失い、ひとり生き抜いた彼を呼び戻したのは尚道だ。跡目を継いだ尚道は真っ先に彼を召し抱え、再び鷹守を名乗らせた。
 先代の怒りは推して知るべし。しかし既に当主は尚道、その判断を阻めるものはいなかった。
 鷹守に還った彼に、尚道は命じた。彼と同じように、還るべきものを連れ戻せと。
 拒む術など持たない彼は淡々と当主の命に従い、千歳はこの屋敷に還ってきたのだ。


2.

 控える千歳を見て、その場は明らかに凍りついた。父親の眼が怒りに燃えたぎるのを眺めながら、自分もこうなのだろうかと思う。
 千歳を責める自分もこう見えるのだろうか。加賀美からは、鷹守からは。
 それはなんと闇深い眼なのだろう。既に人とは言えまい。
 だがそれは、いったい何ほどのことなのか。この旧家社会にあって、人のまま人のうえに立つことができるものなど、いったいどれだけいるのだろう。
 この世に生まれ落ちてから、この心が真に安らぐ時など、いったいどれだけあったのか。
 千代子といる時以外には。
 彼女が自分のものになると、信じていられた時以外には。
「何のつもりだ、尚道」
「何に対するご意見か判じかねます。一族の将来に関わる重大事項の協議とお聞きし、なれば必要だろうと最も有能な手足を伴ったのみ。時が惜しい、速やかに始めていただければ幸甚」
 自身への憎悪に燃える場にあって、千歳は静かに目を伏せ、尚道の背後に控える。膝のうえで固めた拳ひとつ、伏せた睫毛ひとつ、かすかにも揺るがない。
 これもまた。
 心を過ぎる静かな影。眼裏で大輪の牡丹が花弁を散らす。
 白と赤が混じるやわらかな花弁。春の終わりの、そよ風と雨音。

 これもまた、既に人ではない。


「つまり、私に婚姻せよとおっしゃりたいわけですか?」
「そうだ。何度も言っている。当主たるものがその年まで伴侶を持たず、跡継ぎがないなど赦されることではない」
 燃える眼が自分を射る。旧家当主としてあらゆることを実現した眼。一族を支配し、財を広げ、子を成し、跡目を譲ってなお、一族のために一族を監視し続ける眼。
 これが当主の姿なのだろう。生まれ落ちた時から、彼の姿は決まっていたのだ。これ以外に生の形はない。自分も同じであったはずだ。
 眼裏の牡丹。
 自分と彼を分けたのがあの牡丹の花だとしたら、確かにそれは一族にとっては罪なのだ。あれがなければ、当主は正しく当主であった。そうでないのはあの花のせいだと。
 あの面影をそのまま受け継ぐ、新たな花が咲いているせいだと。
 故に千歳は灼かれている。性別の違いすら忘れさせるほど、あまりに生き写しの容貌かお。性別の違い故に、呪いとしかならない容貌。
 あの新たな花が、せめて女児であったなら。
 罪から咲いた新たな花は、自らが負う罪の影を、その身で雪ぐことができた。母に代わって、当主の隣で咲くことで。
 けれど千歳には、そうして咲くことさえ赦されない。
 子を成さぬ男児。罪を雪ぐ手段を持たず、それでも咲き誇る花。それ故に、当主の心はいつまでもあの花に囚われる。それが呪いでなくてなんであるか。
 そう叫ぶ一族の声が聞こえるようだ。千歳にも聞こえぬはずはない。それでも彼は微動だにしない。自ら燃え盛る憎悪の海に出向き、焰の中心でただ静かに座っている。
 泣いて赦しを乞うこともなく。
 母の罪などわが身には無関係とはねつけるでもなく。
 何も拒まず、否定せず、ただ受け入れない。その咲き方は、この場のすべての理解を超える。
 だから呟くしかない。これは人ではない、と。
 これは既に人ではない。魔だ。当主は魔に囚われている。この魔性がどこまでも一族を呪う。
 そう叫ぶ声が、聞こえるようだ。
「その徒花あだばなを捨てろ、尚道。正統な妻を娶り子を成せ。これ以上、当主としての務めを放棄することは赦さん」
 徒花。呪われた美しい花。灼かれながら咲き誇る大輪。
 これを手放す?
「はて、お言葉の意味が分かりかねます。私は当主の務めを果たしているつもりですが」
「跡継ぎを持たぬ身で何が務めか。ふざけるな!」
 熱り立つ父を眺めながら不思議と凪いだままの心に、散りゆく花弁の幻影を見る。
 呪われた花。
 その言葉は正しいのだろう。実を結ばぬ徒花。正しく千歳を表す言葉だ。
 それを手放す。そう考えて、心に冷たい焰が燃える。
 馬鹿なことを。それを手に入れるために、この座を得たのだ。
「跡継ぎならば何も私が成す必要はない。一族には、既に聖晴きよはるがいるではありませんか」
「聖晴だと?」
 場がざわめく。父の眼が燃える。
 それを眺めながら、心はどこまでも冷たく、散りゆく花弁とその背後に燃える焰を見る。
「当主の血を継ぐ正統な男子。先代の孫、当代の甥であればなんら問題ありますまい。あれは私から見ても実にこの座に相応しい、当主の器を持つものです」
 弟の尚行は、同じ血を引くとは思えぬほどに、やさしく心弱い男だ。その妻もまた、清く控えめな弱い女だ。ただ静かに暮らすことだけを望む彼らの子が、よわい十にして才気匂い立つ支配者の器を持つのは、これもまたなんの因果であることか。
「跡目は聖晴に継がせます。一族の将来には何の問題もない。これ以上、不毛な戯言に時を弄するのはやめていただきたい」
「何が不毛か。自身が健やかなるも子を成さず、尚の字を持たぬものに座を譲るなど赦されることではない!」
 尚の字。その言葉に思わず冷たい笑みが漏れる。
 白鷹家の継承字。本家に出生した男児のみが持つ、当主の座を得る可能性があることを示す文字。尚道も、その弟の尚行にも与えられた一字。
 聖晴はその字を持たない。尚道が当主の座に就いた後に出生したからだ。字は当主の座とともに、尚道の子に継がれゆくことが決まっていたからだ。
 それを違えることが赦されるのは、当主が子を成せぬと判明した場合のみ。家の継承に、それ以外の方法がない場合のみだ。
「おまえは子を成せぬものではない。なれば尚の字を持たぬ聖晴にその座を譲ることは赦されぬ。次の当主はおまえの子でなければならない」
「馬鹿なことを。既にあるものを捨て、あえて必要のないものを得よとおっしゃるか。私が子を成せば、次代には聖晴とその子のふたりが存在する。一族の財をあえて散逸させる正当性が血の一滴など、本末転倒もいいところだ」
 場が凍る。そして瞬時に怒りで燃える。
 当主の言ではない。その血を継いでゆくことが何よりの務めであるはずの当主。その口が、血筋の直線をあえて曲げると言っている。そう、渦巻く怒りが叫んでいる。
「そんなことは赦さん!」
「赦す赦さぬを判じるのは誰でもない。この座は今私のもの。私の判断がすべてのはずだ。そうでなければ、この座にどれほどの価値があるか」
「尚道!」
「家を継いでゆくという務めは果たしましょう。ただその術が、我が身より生まれる血ではないというだけ。同じ色の血と同等の才を持つ、この座に相応しいものに譲る。それ以上のことは不要のはずです」
 場が静まる。だがそれは理解でも納得でもない。
 怒りと憎悪。あまりに深いその闇が、海の底のような沈黙を生む。
 重い沈黙にふと息を吐きたくなる。
 こんな場は、こんな空気は、こんな扱いには慣れているはずなのに。
 それでもこの座にあることを、自ら選び取ったはずなのに。

 そうだ、自分は選んだのだ。当主という生き方を。
 その座に就いても、千代子を得ることはないと知りながら。
 否、千代子を得られないからこそ。

「話は終わりだ。これで失礼させていただく」
 沈黙を断ち切り、腰を上げようとした尚道に、なおも「待て」と父親の声が降る。
 視線がぶつかる。千歳への憎悪に燃えていた眼に、今は何の色もない。
 心がしん、と冷えるのを感じる。
 これは畏れだろうか。瞼の裏で花が散る。
 この、漆黒よりもなお深い闇色の瞳。人としてのすべての感情を捨て去った、ただ与えられた生のためにのみ生きる、すべてを呑み込む闇の色。
 この色を知っている。
 地に堕ちた花の影を引き継いで、新たに咲いた大輪の花。
「……なんです」
 声は静かに響いたはずだ。今さら、父の闇がなんだという。千代子の家を灼き払ったあの時から、とうに地獄に堕ちているのだ。
 彼も、自分も。
「跡目についてのおまえの意見はわかった。だが当主の婚姻にはそれ以上の意味がある。聖晴の存在ではどうにもならんことはわかっているはずだ」
 婚姻。繰り返されるその言葉に、自然うんざりと息が漏れる。
「婚姻は当家と他家を繋ぎ、財を拡大し一族の基盤を固めるもの。当主一代がその機会を失うことなど、一族にとって容認できる損失ではない。当主の務めを語るおまえは、これをどう考える」
 一族。
 父にとってはそれがすべてだ。彼にとって、この世のすべてはそのためにある。俺も、俺の生も、彼自身さえ。
 財。基盤。発展。将来。
 なんとめんどうなことだ。
「婚姻は財を成しますが、同時に失うリスクと表裏一体。他家を取り込むも取り込まれるも、時に人の手ではどうしようもない。ならばそれに依らず、同等の財を成せば良い」
「……なんだと」
 眇められる闇色の眼を正面に見る。
 何もかもがめんどうだ。
「聖晴に跡目を譲るまでに、婚姻によるものと同等の財を成しましょう。それが叶えば異論はあるまい。むしろ当家の財が他家に流出することも、次代で財が無意味に散逸することもない。跡目と蓄財、その両方が実現するなら、婚姻は不要ということだ」
「口を慎め。それがどれほど困難なことか、知らぬわけでもないだろう」
「問題ありません。当家には極めて有能な家令が存在することを、ご存じないわけではありますまい」
 感情を殺した闇色の眼に、再び地獄の業火が滲む。
 それを見つめ返しながら、既に心は何も感じなかった。
「千歳」
 呼びかけに、千歳は目礼で応える。静謐な筆で引いたようなその眦には、いささかの歪みもない。
 やはりこれは人ではない。
 これも、自分も、父も。この場の誰もが、既に心を闇に捨て去った後。
 そうやってただ、今ここに与えられた生を生きている。
「聞いたとおりだ。聖晴がこの座を継ぐまでに、婚姻と同等の財を成せ」
「正気か尚道」
 父の声が耳を刺す。
 この声は何に似ているだろう。氷の刃のような声。
「正気とは。私はいつでも正気です」
 この声は。
 耳に届くこの声も、父のものと同じく聞こえる。
「私はこれを酔狂で飼っているのではない。一族の重大事項に必要となる、最も有能な手足と申し上げたはず。この年で家令の務めを果たすのは、他家に類を見ない才だ」
 もしもこれが千歳以外のものに対する言ならば、これほど名誉なことはあるまい。
 事実、千歳は得難い使用人だ。どこまでも淡々と、命じたことを完遂する。彼が現在の立場を得てから、旧家社会での白鷹家の地位は間違いなく上がった。
 けれどその功績者は決して公の場には出ない。当主の代理、当主の伴。公式に右腕たる立場を示す場に、彼は一度も出たことがない。
 あくまでも陰で、当主とその側近のみが知る存在。秘された花は、家令として一族を支えるその才さえも、人知れず使い果たされて終わる。
「これはその身に受けた呪い以上に、我が一族に恩恵をもたらす。その才をもって、私の婚姻で得るもの以上の蓄財を実現すると約束しましょう」
 手放すことなどありえない。
 その身のすべてを差し出させ、喰らい尽くす。
 瞼の裏で花が堕ちる。
「成せ」
 当主の命に、千歳は静かに顔を伏せる。水を打ったような沈黙のなか、雨の最初の一滴のように、静かな声が落ちて沈んだ。
「かしこまりました」

3. 

「この後のご予定は、」
「すべて取りやめる」
 尚道の返事に、鷹守は唇を引き結んで目を伏せた。千歳が静かに襖を開く。
 襖が閉ざされる一瞬、尚道は鷹守に告げた。
「聖晴を呼べ」

「……っ」
 噛みつくように口を塞ぐと、喉の奥で息詰まる音が聞こえた。
 荒々しく身体をまさぐる手の動きに、千歳の肩が、背が震える。上着をむしり取るようにして畳に投げ、ネクタイを乱暴に引く。自身のものと揃いのタイピンがはじけ飛び、畳にかすかな傷がついた。
 引き寄せた腰は細い。けれど確かに男のものだ。この身体には、自分の血を受け取る器はない。
 ならばなぜ抱く。なんのために、何を求めて。
 そんな声が遠く聞こえる。
「千歳」
 耳元で名を呼べば、ふれあった肌が熱を増す。
 悦ぶようなその反応は幻影に過ぎないと知りながら、甘い汗の匂いに心が灼ける。
「千歳」
 彼は応えない。滲む眦に睫毛を伏せて、声を殺して唇を噛む。あっさりと自分を受け入れる身体は、その快楽で心のありかを隠すようだ。身体が悦んで見えるほど、心は深く雲隠れする。
 いっそこの肌を裂いてやれば、熱い血のなかに溶け出した心を呑むことができるのだろうか。
 昏く燃える欲望が頭を灼く。いっそこの肌を、
「俺を求めろ」
 この声はどう聞こえるだろう。
 何に似ているのだろう。
 耳にそよ風が、眼裏に牡丹の花が、甘い地獄へ自分を誘う。
「俺の名を呼べ、千歳」
 彼が応えることはない。万が一にも応えないために、自らに鞭打って声さえ殺す。口づけに応え、絡ませた舌で唾液を呑むその白い喉から、自分の名が音として生まれることはない。
 なぜそれほどに拒む。
 何度問うたかわからない焦燥に、白い肌を強く吸う。首筋に、肩に、花びらのように痣が咲く。
 眼裏の闇を牡丹が散る。艷やかな髪に刺した、白と赤が混じりあう、やわらかな花弁。 
 自分ではない男に、ふれることを許した花弁。
 
 この身体には、牡丹の花弁が咲いている。


「聖晴を跡継ぎに……」
 呼び出しに青くなって駆け付けた弟は、尚道の言に言葉を失う。その震える唇を眺めながら、何が彼と我を分けたのか、尚道はぼんやりと考える。
 例えば生まれ落ちる順番が違っていたら、彼が我に、我が彼に、その心まで変わるのだろうか。
 それともこれは生まれ持ったひとつのさだめ、置かれた場所を問わず決まった花を咲かせる種なのだろうか。
「それは、先代も承知のことなのですか」
「先代?」
 怯えを滲ませた声に、憐れみに似た冷笑が浮かぶ。その表情を見て、また弟は凍りつく。
「先代が否ならなんだと言う。当主は俺だ」
「それはもちろんわかっております。ですが……ですが、」
「尚行」
 優しく名を呼べば、弟は糸が切れたように動きをとめた。見開かれた眼が、畏れに揺れながら自分を映している。
 鷹守と同じだな、と思う。胸に昏い愉悦が満ちる。この声で呼びかけて、心臓を差し出さぬものはいない。
 千歳以外には。
「当主は俺だ。おまえの息子は俺がもらう」
 弟の喉がごくりと動く。扉を叩く猛禽の爪に、彼は迷って凍りついている。
 その心臓を、彼の息子を。
 差し出すと既に決めている自分に、向き合うことを。
「……あの子を、守ってくださいますか」
 絞り出された声は諦念に満ちている。それが苦さより甘さを伴うことを、彼も自分も知っている。
 そう生まれ落ちたのだ。
 ならば膝を折り、その首を差し出す以外に道はない。
「もちろんだ。誰にも否とは言わせない」
 千歳も、甥も。
 俺のものだ。


 春の終わりのその日、なぜ千代子がこの屋敷を訪れていたのかは覚えていない。
 思い出せるのは、庭で牡丹の木を前に、あの花だと庭師に告げているところからだ。あれ、と指さす自分に、庭師はその大輪の花をってくれた。
 白と赤が混じりあう花弁。この色、この大きさ、この咲き具合。どうしてもこの花がいいと、焦れるような思いで大きな鋏を眺めていた。

「あなたに似合う」
 差し出された花を見て、千代子は嬉しそうに笑った。
 ふたつ年上だった千代子の背に、尚道はまだ届いていなかった。十を数える年。精一杯踵をあげて、尚道は千代子の髪にその花を飾った。
 あまりにも遠い、春の終わりのその日。
 艷やかな黒髪に、白と赤が艶めかしく溶け合う花弁はよく映えた。花よりも美しい、頬を染めたその顔。
 いつかこの背が彼女の背を追い越して、この腕が彼女を抱き上げられるほど強くなったら。
「婚姻の時には、またこの花を贈るよ」
 この花はあなたによく似合う。
 きっと、世界で一番美しい花嫁だよ。

「おまえに似合うよ」

 その声に、遠い春の日の風が舞う。


 目線の先。
 渡り廊下から見る庭は、終わりかけた春の陽光に満ちている。そこに、向かい合うふたり。
 視線が縫い留められたように、その光景から目を離すことができない。
 光を弾く艷やかな黒髪。
 やわらかな笑みを湛えた瞳。
 滑らかな手のなか、甘く匂うようにあでやかな花が咲いている。
 白と赤が混じりあう花弁。
 あの日の、牡丹。

  ーーー……に、似合う
 
 甘く囁く声は誰のものだ。


「何を……している」
 自分の声を遠く聞く。
 ゆっくりと、一枚の絵のようなその姿が動く。
 静かに伏せられる瞳。
 代わりに弾けたのは、幼い声と陽光のごとき笑顔だった。
「ごきげんよう、伯父さま」
「……聖晴」
 名を呼べば、甥は満面の笑みを浮かべて駆けてきた。その後ろを、千歳がゆっくりとこちらに向かってくる。
 その手に咲く、大輪の花。
「それは、なんだ」
 自分の声が遠く聞こえる。

 千代子に贈った牡丹の花。
 あの木は、焼いた。

「僕がやったんです、伯父さま」
 千歳が口を開くより先に答えて、聖晴は無邪気に首を傾げた。潤んだような瞳は、自身の行為をただ楽しむ、春のような光が満ちている。
「綺麗でしょう?こちらに伺うと聞いて、うちから剪ってきたんです。千歳に似合うと思って」
「……千歳に、」
 呟くようなこの声は自分のものだろうか。
 千歳。
 千歳に。

  ーーー……に、似合う

 この声は誰のものだ。

 無邪気に笑う甥の後ろで、千歳は手の中の牡丹を見ている。
 白と赤が混じりあう、艶やかな花弁。
「千歳には牡丹がいっとう似合うって、僕、いつも思っていたんです。あの一輪は今朝咲いたんですよ。そんな日にんでくださるなんて嬉しいな」
 眼裏に咲く牡丹。
 それは記憶の花か、それとも目の前の花だろうか。
 ならばあの顔は。

 自分を見つめる、あの顔は。

「どうしてこのお屋敷には牡丹の木がないんだろう。とても美しいのに。千歳に、こんなによく似合うのに」
 聖晴の無邪気な声を聞きながら、心には牡丹の花弁が散りつもる。
 やわらかな、艶やかな花弁を浴びながら、自分を見つめる、花よりも美しい顔。


 ……これは、どちらの顔だ。


4.

 跡継ぎにするという話を、聖晴はきょとんとして聞いていた。丸く見開かれる瞳に浮かぶのは驚きだけで、戸惑いも困惑もない。
「僕、ここで暮らすことになるんですか?」
「そうだ。正式な発表には準備の時間を要するが、おまえは速やかにこの屋敷に居を移せ」
 速やかに、と舌で転がすように呟いて、少年はこくんと首を傾ける。
「今日から、ですか?」
「……それでもいい」
「お兄さま!」
 遮ったのは尚行だ。青ざめつつもはっきりと抗議の色を見せる弟に、尚道は純粋な驚きを覚えた。彼が自分に抗議することなど、これまでの人生でいったい何度あっただろう。
 我が子とは、かくも大切なものなのか。
「好きにしろ。今日でも、今日でなくても」
 投げやりに言えば、尚行は小さく「失礼しました」と呟く。そして無邪気に大人の返事を待つ我が子に、今日は帰ると告げた。
 聖晴は素直に頷くと、ねぇ伯父さま、と問いかけた。小首を傾げて見つめてくる様は、無邪気な幼さと、それ故の強さに満ちている。
 自らの未来が輝くものであると疑わない強さ。自分がこんな瞳をしていたのは、いつのことだったろうか。
 あるいは、一度もなかったのかもしれない。
「僕が将来、伯父さまの跡を継いで、当主になったら」
 聖晴、と慌てて制止する父親の声を無視して、少年は輝く瞳で尚道を射る。
 真っ直ぐな強い瞳。
 ふと、軽い目眩を覚えた。
「伯父さまのものは、すべて僕のものになる?」
 尋ねる声はどこか遠い。自分を映す春の陽光のような瞳。
 こんな瞳を。
 自分は、いつ……
「伯父さま?」
 目を閉じて目眩をやり過ごし、尚道は呼びかける声におざなりに答えた。
「ああ。すべて、おまえのものだ」
 なにもかもくれてやる。
 すべてが、あまりにもめんどうだ。

「あの花はどうした」
 問われた千歳はゆっくりと瞬いた。意図を判じている表情。寝間着の裾から手を差し入れると、人形のような白い顔に苦悶が滲む。
 朱が差していく耳元に唇を寄せ、名を呼びながら囁く。あの牡丹の花をどうした、と。
「……牡丹、」
 眉間に刻まれた皺は、与えられる刺激に耐えるためか、あるいは問いかけを拒むものか。花の名前を呟く唇を塞いで、寝間着の帯を解く。夜を裂く衣擦れの音に、露わになる細い肩が震えた。
「部屋に……飾って、あります」
 膝を跨いだ千歳の脚がかすかに震えている。白い内腿を伝う香油が灯りを弾く。温い春の夜に、色づく肌が溶けるようだ。
「他の男からの贈り物を、俺の屋敷に飾るとはな。……危ない遊びが好きと見える」
「っ、」
 突然強さを増した刺激に、滑らかな背が大きくしなる。震える手が縋るように肩を掴み、俯いた顔からこぼれた涙が尚道の頰を濡らした。
「その姿勢で耐えるのは辛いだろう。もっと縋って身を任せればいい」
 耳元で嗤うと、肩を掴む手に力がこもる。憎悪渦巻く協議の場では静謐そのものだった眦が紅く滲んで、汗と涙が顎を伝う。
 快楽に耐え、大きく上下する喉を啄む。ひゅ、と風のような吐息が鳴る。赤く脈打つ耳を舐めあげ、背に浮く羽根の名残を指でなぞる。
 熱く震える吐息が、髪に、耳に、首筋にかかる。そのかすかな滲みにさえ心が灼ける。
「千歳」
 あの日と同じ花。同じ顔。
 記憶が、現実が、心を灼く。
「千歳」
 そうだ、これは千歳だ。千代子ではない。自分が与える快楽に泣く、自分の血を受け取る器を持たない男の身体。これは千代子ではない。
「千歳」
 闇に舞う牡丹の幻想を振り払うように、白い肌を貪る。その肌に点々と花びらが散る。自分だけが咲かせる花。
 これは千歳だ。千代子ではない。

 だからこれは、俺のものだ。


 手に入れる。俺ではない男が手折ったあの花を。
 今度こそ。
 この花こそ。
 

 鳴き声を呑み下す喉を啄み、噛み締める唇を舌で割り、彼自身も知らない、身体の最奥を抉る。
 そのすべてを喰らい尽くす。
 そのために、そのためだけに、この座を得たのだ。


 千歳のすべては俺のものだ。
 手放すことなどありえない。

 
 この花を散らすのは、俺だ。





「千歳!」
 その姿を認めるなり、聖晴は千歳に駆け寄った。膝を折って、「これをあげるよ」と差し出された花を受け取りながら、千歳はやわらかく微笑む。
「ありがとうございます」
「おまえは今日も綺麗だね。僕が知っているなかで、おまえが一番綺麗だ」
「恐れ入ります」
「知ってる?僕は今日からここで暮らすんだ。伯父さまの後継者にしていただいたんだよ」
「これは僥倖。素晴らしいお跡継ぎを得られて、ご当主さまもお心安くあられるでしょう」
 千歳の言葉に満面の笑みを浮かべ、聖晴はあのね……と千歳の耳元に口を寄せた。
 千歳はわずかに顔を傾けて、少年の内緒話を聴く。その手のなかで咲き誇る花は、血に浸したような深紅の牡丹だ。
 春の終わりを告げる風が、やわらかな花弁をそっと揺らす。
「ねぇ千歳」
 嬉しそうに笑いながら、少年は甘く囁く。その声を、花弁を揺らした風がさらっていく。


 僕が伯父さまに代わって当主になったら、伯父さまのものはすべて僕のものになるんだ。
 だから、




 おまえもいつか、僕のものになるんだよ。

 

あとがき

第三の男登場、って10歳かよ!!
※実際の第三勢力になるのは成人後です(念のため)

太陽属性の庭師とかが攫っていってくれると良かったんですが、人生から逃げる気のない千歳がついていくはずもなく……救いは永久に訪れない。

さらなる続篇になるかはともかく、ハタチくらいになった聖晴×千歳のワンシーンとかは書いてみたい気もする今日この頃。
当主発狂不可避。
加賀美……加賀美は……どこ行ったんでしょうね??(おい)

あとなにげに鷹守ね。彼と千歳の邂逅は書いてみたいなぁ。
TALESで連載してみようかな……

(BL作はこちらから↓)


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