【企画SS#タイトルから書く文芸賞】悲しみの風景
彼女は哀しみを集めていると言った。
「悲しみじゃなくて?」
「そう、そっちじゃない」
彼女は愚かな子どもを慈しむように笑い、綺麗にまとめられたスクラップブックを見せてくれた。
「これが哀しみ?」
「そう。綺麗でしょう?」
哀しみって綺麗なのか。いい言葉だと思っていなかったわたしは、曖昧に「ふぅん」と答えた。
「これが特に好きなの」
彼女が示したのは、古い外国の家族写真だった。美しい母親と精悍な父親。ふたりの間に、天使のような少女。
美しすぎて白々しい、セピア色の写真。わたしは鼻白んで眉を寄せた。
「嫌いなのね」
彼女はふふ、と優しく笑った。
「どうしてこれが哀しみなの?幸せそうじゃない」
わたしの物言いはオトナからの評判が悪かった。そんな言い方は子どもらしくない、かわいげがないと言われる度、わたしは頑なに『そんな言い方』を選び続けた。
彼女はわたしを窘めない。ただ憐れむように微笑んで、わたしの髪をそっと撫でた。
「幸せそうだからよ。哀しみは、とても甘いの」
意味がわからなくて、でもなぜかそう言えなくて、わたしはまた、鼻白んだように「ふぅん」と言った。
「じゃあ、悲しみは?苦いの?」
「悲しみは…」
呟いた彼女は遠くを見ていて、その声はとても小さかった。
悲しみは、…
帰宅した父は、本を読むわたしを見て満足そうに笑った。わたしの物言いを子どもらしくないと責めながら、『暗夜行路』を読むことは誇らしい。それが父のなかでどう両立するのか、わたしには理解できなかった。
けれど父が機嫌良くわたしの頭を撫でる、それだけで充分だったのだ。
「作文で代表になったんだって?」
「うん。発表の日は見に来てくれる?」
訊くと父は眉を寄せる。わたしは慌てて言葉を継いだ。
「ごめんなさい。お仕事だもんね」
「ああ、ごめんな。…頑張りなさい」
頷くと、父は満足そうにわたしの頭を撫でた。その、大きな手。
その日わたしは、学校から直接彼女の家に向かった。
作文の発表は上出来だった。だから彼女に、ただ聴いてほしかったのだ。わたしが何を書き、どう読んだのか。…誰に見てほしかったのかを。
門扉は音もなく開き、わたしはいつもどおり庭に向かった。
名前も知らない木々が生い茂る庭。今にして思えば、決して広くはなかったのだろう。けれど門扉からは奥が見通せないことで、わたしには森のように感じられた。
生い茂る葉の美しさを楽しみながら進むと、不意に目の前に大きな掃き出し窓が現れる。その瞬間が好きだった。掃き出し窓をコツコツと叩けば、カウチにいる彼女は滑るように歩いてきて窓を開けてくれる。「玄関から入ればいいじゃないの」と笑いながら。そんな瞬間が、とても好きだった。
けれどその日、わたしは窓を叩かなかった。木々を抜けた先、その大きな窓のなかの光景に、わたしの足は根が生えたように動かなかった。
カウチに横たわる彼女。広がる長い髪。ショールは細い肩から滑り落ちて、床にすみれ色の水溜まりを作っていた。
白い彼女の手。指輪のない、磨かれた爪が唯一の装飾であるその美しい手が伸ばされた先には、その手がすがりつく広い肩は、その肩からつながる精悍な横顔は…
仕事だと言ったはずだ。だから作文を聞きに行くことはできないと。眉を寄せて。だからわたしは謝って…
違う、と気づく。父は一言も、「仕事だから行けない」とは言わなかった。
言ったのはわたしだ。眉を寄せた父の顔、行き場を失くした大きな手。その曇る顔に笑ってほしくて、その手に頭を撫でてほしくて、わたしが言った。…わたしが。
ああそうだ。わたしは父に。わたしは父を。わたしは、父を…。
目の前の光景に、心が割れる音がした。
ああそうだ。わたしはただ、父に。けれど今、わたしは父を。その笑顔は、その手は、本当は、本当は、その人は今日、わたしを…。
「哀しいと悲しいは、どう違うの」
あの日、彼女は遠くを見ながら答えた。愚かな子どもを慈しむ、優しい声で。スクラップブックを撫でながら。
「…ほしかったのよ。どうしても、何よりも…でも、」
手に入らなかった。
「それが、『哀しい』?」
「そうね」
「なら、『悲しい』は?」
彼女は微笑んだ。それは甘い、…とても甘い笑みだった。
その日わたしは知ったのだ。悲しいということ。…失うということ。
その日、あの窓のなか。その笑顔は、その手は、その風景は、わたしのためのものではなかった。
根が生えたように動けずに窓のなかを見つめながら、耳の奥では、彼女の呟きが揺れていた。
悲しみは、…なんにも、ないの。
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