【企画短編#noteでBL②】箱庭のメタモルフォーゼ
毎月恒例、BL祭りに今回も参加いたします。
なみさん、いつもありがとうございます!!
こちらは二作目の投稿です。
一作目はこちら。
合わせてお読みいただけると嬉しいです!
それでは、よろしくお願いいたします!
ジャンル
日常×主従
あらすじ
19歳の伊織は、お世話係の清羽から子ども扱いされることに反発している。幼い頃から傍にいる清羽にとって、伊織はいつまでも大事なお坊ちゃまでしかない。毎日の忘れ物確認に手製の弁当。夕食準備の手伝いさえ心配されて、その過保護ぶりに伊織はついに爆発した。もう子どもじゃないと認めさせたい。友人・翼の提案で、『ひとりでできるもん!』と初めてのクッキー作りに挑んだがーー。
「初恋を拗らせ」た(※翼談)結果、過保護なお世話係と箱入りお坊ちゃまの関係はどんな変化を遂げるのか。
本編
【テーマ】お題で書くBL〜ブロマンス(10,000字以内)
【お題】激重感情仄暗不穏
※以下NG
「死ネタ(名言されてなければOK)」
「年下ワンコ攻め」
「裏社会等のノワール、安易な暴力表現」
「虐待、いじめ、迫害等の可哀想な過去」
【タイトル】箱庭のメタモルフォーゼ
(字下げ含み約9,800字)
今日も清羽は小うるさい。
「伊織さま、お忘れ物はありませんか」
「ないよ、全部持った」
「小澤教授のレポートは」
「持った」
「経済学入門の参考書籍は」
「持った」
「お弁当は⋯⋯」
「あーもううるさいな、学食に行くから弁当はいらないって⋯⋯、」
言いかけて目が合う。心持ち眉を下げて、瞳に睫毛の影を落として、唇を微笑の形に引いたまま、言葉を呑み込んだ表情。ぐ、と喉が詰まるのを感じる。
ズルい。
「⋯⋯やっぱいる、弁当」
「⋯⋯学食には、」
「やめにする。⋯⋯作ってくれたんだろ」
手を出すと、清羽の顔がパッと輝く。男にしては白い頬に、血の色まで透かして。
本当にズルい。
手のひらに乗せられたあたたかい重さに、ため息を呑み込む。
「ありがとう。⋯⋯行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
お気をつけて。お帰りをお待ちしています。
いつもどおりにそう言って、清羽は首を傾ける。小さい子どもを見るように。そして続ける。いつもどおりに。ずっとずっと、変わらずに。
「清羽の大切な、伊織さま」
「今日も完璧だなぁ、お世話係の愛情弁当」
「うるせ」
いいなーお金持ちは、と思ってもいないことを呟きながら、翼がパンの袋を開ける。卵焼きちょーだい、と言って、応える前に摘み上げた。
「あっおい」
「うまぁー。清羽さんまじで料理上手いな」
「卵焼きなんて、誰が作っても同じだろ」
「それは自分で作らないやつが言っていいことじゃないな、清羽さんに怒られろ」
「うるさい」
それしか言えない俺に、翼はニッと笑って焼きそばパンにかぶりつく。手元には牛乳のパック。
「張り込みの刑事か」
「何時代のステレオタイプ? それに張り込みならあんパンだろ」
「そうなのか?」
「知らんけど」
「なんなんだよ!」
「はは。刑事ドラマは見たことないのか」
「う⋯⋯」
「お坊ちゃまも大変だなぁ」
そう言う笑顔にはからかいも同情も感じられず、ただ本当にそう思っただけに見えた。
だからふ、と気が抜ける。気を張っていたことを知らされる。
「別に、お坊ちゃまとかじゃない。単に清羽が過保護なだけで」
「住み込みの専属お世話係が十何年付いてるのは、普通にお坊ちゃまだと思うが」
「⋯⋯そんなんじゃない。シッターロイドなんか普通だろ」
「シッターロイドならな」
まずビジネス現場で実用化されたアンドロイドは、汎用化を経て、家事、介護、育児と様々な場面で使われている。家庭内で子どもを見守るシッターロイドは、既に国内ではあたりまえの機能だ。
「シッターロイドは卵焼きを作らない。シッターロイドは忘れ物の確認をしない。あれは単に、危険な状態を察知して制止するだけだろ。自分のために尽くしてくれるお世話係をシッターロイド扱いなんて、いくらなんでも失礼すぎる」
「⋯⋯ごめん」
「謝るなら俺じゃない」
わかってる、と口のなかで呟いて、ピックに刺さったウインナーを噛む。タコさんがいい。ピックは飛行機のやつがいい。そんな幼稚園児のワガママを、清羽はいまだに守り続ける。
「俺はもう19だぞ」
「いくつになっても、清羽さんには『ウチの可愛い伊織さま』なんだろ」
わかってる、ともう一度呟く。それがもどかしくて、苦しい。
今朝見た表情が目に浮かぶ。眉を下げて、微笑んだままで、弁当を持っていけなんて言わない。なのにあの表情を見ると胸が苦しい。
本当に、清羽はズルい。
清羽がいつからウチにいるのかは知らない。気がついたらそこにいて、微笑んでいた。「清羽の大切な伊織さま」と言いながら。
幼稚園に行きたくない。遠足にこっそりおもちゃを持っていきたい。どんな時も、清羽はやさしく微笑んで、俺をそっと抱き上げた。「少しお話をしましょう」。そう言われて、拙い訴えに頷いてもらって、相槌のように名前を呼ばれる。伊織さま。清羽の大切な、伊織さま。そうしていると、いつだってすべてはどうでもよくなった。
俺が幼稚園に行き、学校に行き、勉強し、友人に囲まれると、清羽は嬉しそうに笑う。清羽の自慢の伊織さま。清羽の大切な、伊織さま。そう言って笑う。だから俺はもっとそんな顔が見たくて、悲しい顔をさせたくなくて、いつもーー
「伊織さま」
「うわっ」
突然現れた清羽の顔に思わず仰け反る。気遣わしげに眉を寄せた、綺麗な顔。
やや細面の輪郭、切れ長の目、白くて滑らかな肌質。至近距離で見るそれらに、勝手に鼓動が暴れ出す。
「どうか、なさいましたか?」
散らかる思考とうるさい鼓動を誤魔化すように、なんでもない、と素っ気なく答えて目を逸らす。ソファで少しボーッとしてただけなのに、今にも額を合わせてきそうだ。
清羽は一瞬、問いかけるように瞬きをしてーーふっと、やわらかく微笑んだ。
イタズラに気づいた、大人の表情。
「ご夕食を、承ります」
「なんでも⋯⋯いい、」
「カレーとパスタならどちらを?」
「⋯⋯カレー」
「かしこまりました」
俺の答えを聞いた清羽は、エプロンを手にキッチンに向かう。小学生の俺が授業で作って、清羽にやった。水色の地にポケットがついただけの、縫い目の歪みまくったそのエプロンを、清羽はいまだに使い続ける。俺がやったのはもうずっと前のことなのに。清羽の作ったものじゃなければ食べないと、駄々をこねて困らせたのは、もうずっと前のことなのに。
なんだ、カレーかパスタって。
「⋯⋯伊織さま?」
隣に立った俺に、清羽が訝しむ顔をする。気づいていないのだろうか。もう、目線がほとんど変わらないこと。
「俺もやる」
「清羽がいたします。伊織さまはソファでお待ちくださいませ」
「いいよ、俺だってカレーくらい作れる!」
カッとなって言い返す。清羽が大きく目を見開く。思いがけない自己主張をした子どもを見る表情。
「⋯⋯かしこまりました。では、お願いいたします」
清羽の唇に微笑が浮かぶ。うん、と言って、俺は隣で玉ねぎを剥き始める。俺がいないほうが早いことくらい、邪魔をしているだけなことくらい俺にもわかる。でも。
隣の清羽をそっと窺う。視線に気づいて、清羽はすぐに笑顔を返す。俺のことなら何でもお見通しの清羽。
俺のためなら、いつでも笑ってくれる、清羽。
それがひたすら、嬉しくて、苦しい。
「今日の講義は、いかがでしたか」
「経入は全然わかんない」
「ふふ」
「笑いごとじゃない、」
「失礼しました。でも、伊織さまなら大丈夫です。清羽は知っておりますよ。伊織さまが優秀なことも、とても頑張り屋さんなことも」
頑張り屋さんて。ガキかよ、と不貞腐れながら玉ねぎに向かう。薄い皮がうまく剥がれず、指先に力を込めたら爪が食い込んで汁が飛んだ。
「いって、飛んだ」
「大丈夫ですか。やはり清羽が、」
「こんくらいなんだよ。過保護すぎる」
「ですが、」
「清羽っ」
どん、と玉ねぎがシンクに落ちる。睨む俺に、清羽はパチパチと瞬きをする。伊織さま、と呟く声。
「俺は大学生だ」
「存じております」
「ウソつけ。いいか、一般的な19歳は忘れ物の確認なんかされないし、頼みもしないのに弁当が用意されることもない。俺はもう家だって買えるし結婚もできる。玉ねぎくらい剥けるし、毎日夕飯の用意だっていらない!」
「申し訳ありません。清羽が至らずご不快に、」
「違う、至りすぎてるんだおまえは! いつまでも俺を子どもみたいに扱って、おまえがいないと何もできないと思ってるだろ!」
「いいえ、伊織さまはご立派です。清羽などいなくても、」
言いながら、清羽はゆっくりと瞬きをする。瞳が滲むように揺れて、唇に淡く微笑が浮かぶ。
「⋯⋯清羽がいなくても。伊織さまは、何でも、ご自分でお出来になります」
「⋯⋯っ、」
なんだそれ。
そんなことを言わせたかったんじゃない。そんな表情をさせたかったんじゃない。俺はただ、もう子どもじゃないって言いたかっただけで。
今の俺として、清羽に見てほしかっただけで。
「⋯⋯もういい。やっぱ、カレーは清羽が作って」
沈黙に耐えられず、俺は逃げるようにその場を去った。
「友人が初恋を拗らせて爆発霧散しそうな件」
「何を言っている?」
パンの袋を開けながら、翼は大きなため息を吐く。
「気づいてないのか。重症だな」
「なにが」
「お坊ちゃまだもんなー。悪い虫がつかないように、清羽さんが大事に大事に、箱の中で育てたもんな」
「だからなにが!」
「あれ、弁当は?」
焼きそばパンに齧りつく翼が目を丸くする。俺はカバンから同じように焼きそばパンを取り出して、牛乳パックにストローを刺す。
「⋯⋯反抗期?」
「違うっ」
「まじか。死にそうな唸り声出してるから、どうせ清羽さん絡みだとは思ってたけど」
「なんなんだよ、俺の頭がいつも清羽でいっぱいみたいに!」
「違うのか? サークルも入らずバイトもせず、講義が終わったらすぐさま帰宅。恋人もいない。これといった趣味もない。ただ家で、専属お世話係と過ごすのが好きなだけ。その生活のどこに、何が入り込むって?」
並び立てられてぐっと詰まる。確かに俺の生活は大学と家の往復だ。それはつまり、大学か清羽か、ということだ。
両親は実業家として世界中を飛び回る。だから昔から、家で清羽だけと過ごした。両親は事あるごとに俺の同行を促すけれど、清羽がいるから大丈夫だと断ってきた。
家に帰れば清羽がいて、俺のためにあらゆることに心を砕く。勉強も運動も習い事も、困れば清羽に訊けばいい。困らなければ、ただ清羽といればいい。俺はそれで充分だった。
「そんなおまえが、愛情弁当も持たず、まずそうにパンを齧りながら眉間にシワを刻んでいる。どう考えても、清羽さんと揉め事だ」
「⋯⋯うる、さい」
「何がそんなに不満なんだ? 清羽さん、煽り抜きで最高じゃん」
「おまえに俺の気持ちがわかってたまるか。毎日毎日朝から晩まで心配されて、何ひとつできないと思われて、こんな図体になっても隙あらば抱っこされかねなくて、」
「いや清羽さんどんだけ」
「やりかねないんだよあいつは! くそ、自分が何も変わらないからって、俺まで変わらないと思って」
玉ねぎひとつ剥けないと思われてる。そんなことがあるか。
昨日あれだけ言ったのに、今朝も清羽は弁当を作った。お忘れ物はありませんか。その一言にカッとなって、弁当を受け取らずに家を出た。
思い出して、頬に血が昇るのを感じる。握りしめたパンが千切れて、焼きそばがポロポロこぼれ落ちる。
恥ずかしい。
わかってる。翼が言ったとおり、子どもの反抗でしかない。駄々をこねて床を転がるのと変わらない。
子どもじゃないって思われたいのに、やってることは子どもでしかない。だから清羽にも伝わらない。
伝えられない。
油断すると何かが喉から飛び出しそうで、俺は強く唇を噛む。悔しくて、恥ずかしくて、弁当を持ったまま立ち尽くした清羽の顔が、瞳に睫毛の影を落として、それでもやっぱり微笑んで、「行ってらっしゃいませ」と言った清羽が、
清羽の大切な、伊織さま。
「あんな表情を、させたいんじゃない」
なのに、どうすればいいかわからない。
ごめんと言って、いつもありがとうと言って、それでも俺が清羽に望んでいることを伝えるには。
「⋯⋯俺は、どうすればいい?」
悔しくて恥ずかしくて、消えてしまいたい。どうしようもなく子どもで、箱入りで、お坊ちゃまでしかない。
ぐちゃぐちゃの思考と焼きそばパンを握りしめて、俺はただただ唇を噛む。翼の顔が見られない。きっと呆れ果てて、
「そうだなぁ。やっぱ相場は、『ひとりでできるもん!』じゃないか?」
「⋯⋯え?」
場違いなほど明るい声。
ニッと笑って、翼は顔の前に人差し指を立てて見せる。イタズラを思いついた子どもみたいに、瞳をキラキラ輝かせて。
「見せてやれよ。玉ねぎ剥くどころか、ちゃんとイチから何かを作れるって。材料の用意から全部。そうすりゃ清羽さんも言ってくれるんじゃねーの? 『さすがでございます、伊織さま』って」
何かを作る。俺が、ひとりで。イチからぜんぶ。昨夜、玉ねぎの皮剥きすら投げ出して逃げた自分の姿を思い出す。
清羽は。
もし、それを見たら。
「⋯⋯さすがでございますなんて、一足す一を答えても言う」
「うわぁ、清羽さんまじでどんだけ」
「でも言わせてやる、本気のやつ。ちゃんと驚かせて、それから本気の」
さすがでございます、伊織さま、って。
「うわぁ⋯⋯まじでもう、ふたりともどんだけ」
「なんで引いてる」
「一番は、それだけ言ってておまえが無自覚そうなとこだけど」
「え?」
いやそれはいい、と意味不明なことを言った翼は、じゃあさ、と楽しそうに笑った。
「何作る?」
本当に自分が情けない。
「⋯⋯なんかあるだろ、いっこくらい。好きだろうなと思うもの」
「まったくわからん。清羽がもの食ってるとこなんて、見たことないし」
清羽は何が好きなんだろう。何をあげれば喜ぶんだろう。不格好な手作りのエプロンを、いつまでも使い続ける清羽。俺が作れば、きっとなんだって、嬉しいと笑ってくれる清羽。
俺は清羽を全然知らない。知ってるのはただ、清羽にとって、俺がどれだけ大切かだけ。それをどれほど、示してくれているのかだけ。
毎朝の忘れ物確認も。
弁当も。
夕飯のメニューも。
ぜんぶぜんぶ、俺だけのためのものだ。
目の奥がじわりと熱くなって、ぎゅっと目を瞑ってやり過ごす。わかってる。でもどうしても、子どもじゃないってわからせたい。
黙り込む俺に、翼が仕方ないなーと笑う。場違いなくらい、明るい声で。
「なら、無難にクッキーでどうだ? それなら俺も作れるし。教えてやるよ、簡単なやつだけど」
「⋯⋯翼、」
友人の顔が眩しくて、目が痛い。目が痛くて、目の奥が熱い。ふっと肩から力が抜ける。気を張っていたことに気づかされる。
「あり、がとう」
喉に絡む声には気づかない振りをして、翼は大きく笑った。
「だからってなんでおまえも!?」
「いいだろ家まで貸したんだし。会ってみたかったんだよな、清羽さん」
翼はそう言って、「うっわやっぱお坊ちゃま〜」とふざけた調子で続けた。カバンの上からクッキーの缶をぐっと押さえて、俺はエントランスのインターホンでエレベーターを呼び出す。
「写真ないの、清羽さん」
「はぁ? 今から本人に会うのになんで、」
「心の準備。いいのか、俺が『えええ超絶美人じゃん!!』とか叫んでも」
「清羽は男だ」
「そこなのか」
言い合う間にエレベーターが来る。乗り込んでからもうるさい翼に、俺は根負けしてスマホを出した。先日両親が帰宅した際、母にねだられて撮った写真。背後にいた清羽も写っているはずだ。
「これ」
「おーーやっぱ美人⋯⋯、拡大していい?」
翼が写真を見始めると、エレベーターはしんと静まる。上昇音はほとんどしない。今ここで急に電気が消えたら、浮いてるように感じるのかな。そんなことを思いながら、友人を見る。
心持ち首を傾けて、少しだけ眉を寄せて、軽く唇を噛んで。翼はスマホに見入っている。考え込んでいるように。
なんだろう。なんでそんな、難しい表情をしているんだろう。
「翼」
思わず呼びかけると、翼はびくりと肩を揺らして俺を見た。
「なに、写真どうかした? 何か変なもの写ってた?」
「あ、⋯⋯いやごめん。清羽さん、どっかで見たことある気がして」
「え、知り合いにでも似てる?」
返されたスマホには、画面いっぱいに拡大された清羽の顔。やや細面の、文句なく美しい顔。
「いや⋯⋯たぶん気のせいだ」
そう言って、翼は少しだけ笑う。腑に落ちないと感じたところで、エレベーターが居住階に着いた。
「おかえりなさいませ、伊織さま」
清羽はいつもと変わらない。気まずく目を逸らした俺に微笑って、「お客さまですか」と続け
る。
「大学の友達。さっきまで、家にお邪魔してて。だから、俺も」
「そうでしたか。伊織さまがお世話になりました。どうぞ楽しんでいかれてください」
俺の背後で、翼は妙に大人しい。掠れた声で「お邪魔します」と言った後はだんまりだ。あれだけ騒いで写真まで見たのになんなんだとモヤモヤしたまま、清羽の先導でリビングに入った。
「清羽、あの」
「はい。紅茶でよろしいですか?」
「うん、⋯⋯頼む」
心得た笑顔で、清羽はキッチンに向かう。なんて切り出せば良かったんだろう。悶々としながら、クッキーが入った缶を取り出す。
俺が焼いたクッキー。
「あれが、清羽さん?」
翼が呆然としたように言う。そうだよ、写真のとおりだろと応じながら、俺はクッキーをどう渡そうか考えていた。どうするものなんだ、こういう時って。
「なぁ翼⋯⋯」
「若いな」
一瞬、何かわからなかった。翼はキッチンのほうを凝視していて、清羽のことだと思い至る。
「清羽? まぁでもあんなもんだろ。5歳児から見た若い父親、なんだから」
「⋯⋯なんだそれ、」
「なにって、採用基準だよ。それより翼、」
「おい、もしかしてお世話係の採用基準か? なら雇われた時、30前後だったってこと?」
「そうだけど」
俺の答えに、翼はぎゅっと眉を寄せて、また何かを考え始めた。目線はキッチンに向けたままで。
空気が重い。クッキーのことを言い出せる雰囲気じゃなかった。何がそんなに気になるんだろう。手持ち無沙汰で、俺はそわそわと辺りを見渡す。清羽はまだ戻らない。
「⋯⋯気にはなったんだ、写真見た時」
「え?」
唐突に言われて翼を見る。手元のスマホに視線を落として、翼は無表情な声で言う。
「随分若く見えるな、って。でも写りがいいんだろうと思った。どこかで見たとも思ったけど、単に美形だからそう感じるのかな、って。俺も、実物は見たことなかったから」
「⋯⋯なんのことだ?」
翼がゆっくりとこちらを向く。青ざめた顔。胸がざわりと波立つ。なんで、そんな顔を。
「おまえが5歳の時に30前後なら、今、清羽さんは40を超えてるはずだよな。⋯⋯でも、どう見ても30前だ」
その言葉に、胸を満たしていた不快なざわめきが息になって口から漏れた。自分でも驚くほどの深いため息。
自分が、どれだけ緊張していたのかを知らされる。
「だから言ったろ。清羽は全然変わらない、って」
清羽はずっと変わらない。変わっていくのは俺だけだ。あと十年も経てば、きっとどちらが歳上かわからなくなる。
不意に笑いが込み上げる。あんなに真剣な表情で、何を言うかと思ったら。
「そんなことかよ。変なやつだな」
「おまえ⋯⋯それって、」
翼が喘ぐように言う。信じられないものを見るように。
「やっぱり、パピィだったのか」
パピィ。
それはかつて販売された、高機能型育児用アンドロイドの通称だ。女性型のマミィとともに、『子どもに親と変わらない安心感を』というコンセプトで開発された。見た目も挙動も人間と変わらない、シッターロイドとはまったく別の、「子どもを育てるための機械」だった。
「でも、パピィには重大な問題があるってーー子どもの過度な依存が懸念されるって研究結果が出て、メーカーが全台を回収廃棄した。おまえも覚えてるだろ、あの頃ニュースはこの話題一色だった。大人たちは寝ても覚めてもこの話、テレビも新聞もパピィやマミィでいっぱいだった! あれ以来育児用アンドロイドは新規開発されてない。なのにそれが、なんでここに」
「⋯⋯翼、」
「おまえ、自分の状況わかってるのか。あれは機械だ。子どもが依存してしまう、危険だって確認されたアンドロイド。おまえ今まさに、」
「翼!」
喚く友人をようやく止める。掴みかからんばかりの勢いに気圧されながら、俺はゆっくり、言葉を選んで話しかけた。
「パピィの弊害は俺も知ってる。でもそれは、清羽とは関係ないだろう?」
「⋯⋯なに、」
「清羽はパピィなんかじゃない」
あたりまえだ。いくら俺がお坊ちゃまでも箱入りでも、それくらいの常識はある。パピィのことも当然知ってる。
でも、それと清羽は関係ない。
「清羽はアンドロイドなんかじゃない。清羽は清羽だ。俺の、俺のための清羽だよ」
翼が大きく目を見開く。薄く開いた唇から、震える息が吐き出される。
「なら、なんで年を取らない」
「見た目が変わらないことか? それは俺もわからないけど、そういうもんなんだろ、清羽は」
「なに言ってんだ⋯⋯なんだそういうもん、って」
「だって、清羽は清羽だから」
ウチにいつからいるかは知らない。気づいた時にはそこにいて、微笑んでいた。俺のために。それが清羽だ。
清羽の大切な、伊織さま。
清羽はいつもそう言って笑う。清羽は何も変わらない。ずっと、ずっと、俺の、俺だけの、俺のための清羽。
「嬉しいけど、いつまでも子ども扱いされるのは嫌だ。俺はちゃんと変わってるんだから。ちゃんと、今の俺が望むことを叶えてほしい。だからわからせなくちゃ。俺がもう、弁当や褒め言葉くらいじゃ、満足できないって」
そうだ、俺はもう子どもじゃない。
欲しいのは、そんなものじゃない。
「なぁ、清羽」
翼がハッと顔を動かす。紅茶の乗ったワゴンを押して、清羽がキッチンから出てくる。
「はい、伊織さま」
にっこりと笑うその顔は、記憶のなかと変わらない。
俺の、俺だけの、俺のための清羽。
「清羽。俺、クッキーを焼いたんだ」
あんなに悩んで緊張したのに、顔を見ると言葉はするりと形になった。缶を開ける。清羽が作ってくれるものとは全然違う、色も形もまばらなクッキー。
「翼に手伝ってもらったけど。最初から最後まで、全部自分でやったんだ」
「⋯⋯伊織さま、」
「なぁ、食べてみてくれよ」
「伊織!」
翼が弾かれたように声を上げる。青い顔。おかしくなって、俺は心のなかで友人に語りかける。
なんだその顔。まだあんな、あり得ないことを考えてるのか?
清羽がアンドロイドだなんて。
「伊織、⋯⋯伊織、これを見ろ」
差し出されたのは翼のスマホだ。画面には誰かの写真。誰か、若い男性の。
清羽によく似た男性の写真。
「18年前に販売された、当時最新型のパピィだ。パピィは外見のバリエーションも売りだった。顔立ち、肌の色、眼の色、あくまで自然に、⋯⋯人間以上に、安心感や受容性を感じられるように。このモデルの、コンセプトは⋯⋯」
5歳児から見て、友達のように楽しくやさしい、若い父親。
なぁ伊織、よく見ろよ。これは清羽さんだろう?
翼は何を言っているんだろう。これは昔人気だった、育児用アンドロイドの画像だ。清羽によく似た、アンドロイド。
「⋯⋯清羽、」
翼の声が遠のいていく。自分の声も水のなかで聞くようだ。不明瞭な視界のなか、清羽の微笑だけがクリアだった。
「清羽。食べてみてよ、俺のクッキー」
微笑んで、清羽は首を傾ける。小さい頃と同じように。怖い話を聞いて怯える、幼い俺に向けられた微笑。俺を抱き上げて清羽は言った。大丈夫ですよ、伊織さま。
「なぁ、大丈夫だろ? ⋯⋯大丈夫だよな、清羽」
俺はクッキーの缶を差し出す。不格好なクッキー。イチから全部、俺がひとりで作ったクッキー。
「清羽のために、作ったんだ。だから、」
不意に目の前が滲んで歪む。缶を持つ手が震えて、中のクッキーがカタカタ揺れる。ぶつかって、欠けて、崩れていく。俺が作った、清羽のためのクッキーが。
壊れてしまう。
崩れていく心と視界を、ふわりと何かが横切った。
「ありがとうございます、伊織さま」
清羽の手。
「いただきます」
清羽の声。清羽の手がクッキーを掴む。俺が作った、清羽のための⋯⋯
さく、
「⋯⋯え、」
さく。さく、さく。
「美味しいです、伊織さま。とても、お上手にできましたね」
清羽が笑う。俺のクッキーを食べながら。
さすがでございます、伊織さま。
「⋯⋯美味い? 俺が作った、クッキー」
「はい。とても」
「なら、⋯⋯なら、わかってくれた? 俺はもう、何もできない子どもじゃない、って」
「ええ。もちろんです、伊織さま」
「なら、清羽⋯⋯」
「はい、伊織さま」
お望みどおりに。あなたのために。
清羽の微笑んだ唇から、やさしく、甘く、蜜のような言葉がこぼれる。俺のための言葉。
ああそうだ。清羽はいつでも、俺のものだ。
いつだって。
いつまでも。
「清羽の、大切な、伊織さま」
