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意図六部作 第二回 意図とバイアスの関係

副題  
人は、自分のつもりをどこまで信じていいのか

この六部作では、意図を単なる心理ではなく、人間が世界に向けて方向を選ぶ構造として扱う。

第一回では意図の定義を、
第二回ではその歪みを、
第三回では記憶との関係を、
第四回では価値との関係を、
第五回では行動との循環を、
そして最終回では人類史への拡張を考える。

はじめに


人は、自分の意図を自分でわかっていると思っている。

なぜそう言ったのか。  
なぜそうしたのか。  
なぜ黙ったのか。  
なぜ近づいたのか。  
なぜ離れたのか。

その理由を、自分では説明できる気がしている。

けれど、本当にそうだろうか。

人間の行動には、いつも意図がある。  
しかし、その意図はいつも透明ではない。

自分では優しさのつもりだった。  
けれど、本当は相手に必要とされたかっただけかもしれない。

自分では正しさのつもりだった。  
けれど、本当は自分の不安を相手に押しつけていただけかもしれない。

自分では冷静な判断のつもりだった。  
けれど、本当は過去の傷や思い込みに引っ張られていただけかもしれない。

ここに、意図とバイアスの関係がある。

バイアスとは、単なる間違いではない。  
それは、思考や判断の向きを知らないうちに傾ける力である。

そして意図とは、その傾いた世界の中で生まれる。

だから人は、自分の意図を信じすぎてはいけない。

バイアスとは何か


バイアスとは、物事を見たり、判断したり、意味づけたりするときに生じる偏りである。

人は世界をそのまま見ているわけではない。

過去の経験。  
育った環境。  
知識。  
恐怖。  
期待。  
価値観。  
人間関係。  
傷ついた記憶。  
成功体験。  
失敗体験。

それらを通して世界を見ている。

つまり、人は裸の現実を見ているのではない。  
自分の内側にある解釈の癖を通して、現実を見ている。

その癖が、ある方向へ偏る。  
それがバイアスである。

バイアスは悪意とは限らない。  
むしろ、多くの場合、それは人間が素早く判断するために必要なものでもある。

すべてを毎回ゼロから考えていたら、人は何も決められない。  
だから脳は、過去のパターンを使う。

これは危ない。  
これは安心できる。  
この人は信用できる。  
この場では黙った方がいい。  
これは自分に関係がある。  
これは無視していい。

そうやって、人は世界を処理している。

しかし、その便利な処理が、同時に誤解を生む。

見えているつもりで、見たいものだけを見ている。  
考えているつもりで、過去の結論をなぞっている。  
選んでいるつもりで、すでに決まっていた方向へ進んでいる。

ここに、バイアスの怖さがある。


意図はバイアスの外側に立てない


意図とは、行動の背後にある向きである。

何をしたいのか。  
何を守りたいのか。  
何を避けたいのか。  
何を伝えたいのか。  
何を得たいのか。  
何を失いたくないのか。

その向きが、意図である。

しかし、その意図は真空の中で生まれるわけではない。

意図は、過去の経験や価値観や感情の中から生まれる。  
つまり、意図は最初からバイアスの影響を受けている。

たとえば、人を助けたいという意図がある。

一見すると、それは善いものに見える。

けれど、その奥にはいくつもの可能性がある。

本当に相手を助けたいのか。  
相手に感謝されたいのか。  
助ける自分でいたいのか。  
見捨てる自分を許せないのか。  
過去に助けられなかった誰かを、今の相手に重ねているのか。

この違いは大きい。

行動としては同じ「助ける」でも、意図の内側には別の力が働いている。

そして、その力の多くは自覚されていない。

だから人は、自分の意図を説明するとき、しばしば後から物語を作る。

私は正しかった。  
私は善意だった。  
私は相手のためを思っていた。  
私は仕方なくそうした。  
私は悪くなかった。

それは嘘とは限らない。

しかし、完全な真実とも限らない。


自己正当化バイアス


もっとも意図に深く関わるバイアスのひとつが、自己正当化である。

人は、自分の行動を間違いだったと認めることが苦手である。

なぜなら、間違いを認めることは、自分の判断力や人格に傷をつけるように感じられるからだ。

だから人は、自分の行動に理由を与える。

あれは仕方なかった。  
相手にも原因があった。  
あの状況なら誰でもそうした。  
自分はむしろ我慢していた。  
あれは相手のためだった。

こうして人は、自分の意図をきれいに整える。

しかし、本当は違うことがある。

怒りを正義と言い換える。  
支配を心配と言い換える。  
執着を愛と言い換える。  
逃避を優しさと言い換える。  
無関心を大人の対応と言い換える。

このとき、意図はバイアスによって書き換えられている。

人は、自分の行動を守るために、自分の意図まで作り変えてしまう。


確認バイアス


確認バイアスとは、自分が信じたいことを裏づける情報ばかり集めてしまう傾向である。

これは意図にも強く影響する。

たとえば、ある人を「信用できない」と思ったとする。

すると、その人の小さな沈黙も怪しく見える。  
返信が遅いことも不誠実に見える。  
何気ない言葉も裏があるように聞こえる。

逆に、ある人を「いい人だ」と思っているとする。

すると、その人の雑な対応も忙しかっただけに見える。  
失礼な言葉も不器用なだけに見える。  
約束を破っても事情があったのだと思える。

人は、見てから判断しているつもりで、実際には判断したあとに見ていることがある。

先に結論がある。  
その結論に合うように、相手の行動を解釈している。

このとき、自分の意図も歪む。

相手を理解しようとしているつもりで、実は自分の結論を守ろうとしている。  
相手を疑っているつもりで、実は過去の傷を再確認している。  
相手を信じているつもりで、実は見たくないものを見ないようにしている。

確認バイアスは、意図を現実から切り離す。


期待が意図を作る


人は、現実そのものではなく、期待によって動くことがある。

こうなってほしい。  
こう言ってほしい。  
こう返してほしい。  
こう理解してほしい。  
こう扱ってほしい。

その期待が強くなると、人は現実を待てなくなる。

相手がまだ何も言っていないのに、答えを先読みする。  
相手がまだ何もしていないのに、裏切られる準備をする。  
相手がまだ拒絶していないのに、拒絶された気持ちになる。  
相手がまだ応えていないのに、応えてくれるはずだと思い込む。

こうして、期待は意図を作る。

期待があるから近づく。  
期待があるから試す。  
期待があるから怒る。  
期待があるから黙る。  
期待があるから傷つく。

このとき、人は自分の意図を純粋なものだと思いやすい。

ただ確認したかっただけ。  
ただ気持ちを知りたかっただけ。  
ただ話したかっただけ。  
ただ大切にしたかっただけ。

しかし、その奥には期待がある。

期待は悪ではない。  
けれど、期待を自覚しないまま意図に変えると、相手に負荷をかける。

相手が自分の期待通りに動かないと、裏切られたように感じてしまうからである。


認知的不協和と意図の修正


人は、自分の信念と行動が矛盾すると不快になる。

優しい人間でいたい。  
けれど、人を傷つけた。

誠実でいたい。  
けれど、都合の悪いことから逃げた。

自由を尊重したい。  
けれど、相手を縛ろうとした。

冷静でいたい。  
けれど、感情的に反応した。

この矛盾は苦しい。

だから人は、その苦しさを減らすために意図を修正する。

傷つけたのではなく、必要なことを言っただけ。  
逃げたのではなく、距離を置いただけ。  
縛ったのではなく、心配しただけ。  
感情的だったのではなく、正当な怒りだった。

こうして、意図は後から整えられる。

人は、自分の行動に合わせて、自分の意図を作り直すことがある。

ここが難しい。

人は、自分の意図を語るとき、過去の本当の動機を語っているとは限らない。  
今の自分が耐えられる形に編集された意図を語っていることがある。


バイアスは意図の敵ではない


ただし、バイアスを完全に消すことはできない。

そもそも、人間は偏りなしに世界を見ることができない。

どこに注意を向けるか。  
何を重要だと思うか。  
どの記憶を参照するか。  
誰の言葉を信じるか。  
何を危険と感じるか。

そのすべてに、すでに偏りがある。

だから、バイアスは意図の敵というより、意図が生まれる環境である。

問題は、バイアスがあることではない。

自分にはバイアスがないと思い込むことである。

自分は客観的だ。  
自分は冷静だ。  
自分は正しく見ている。  
自分は相手のためを思っている。

この確信が強くなったとき、人はもっとも危うくなる。

なぜなら、自分の偏りを疑えなくなるからである。


意図を整えるために必要なこと


意図を整えるとは、自分の意図を美しく語ることではない。

むしろ、自分の意図の中に混ざっているものを見ることである。

そこに恐れはないか。  
そこに支配欲はないか。  
そこに承認欲求はないか。  
そこに過去の傷はないか。  
そこに相手への期待を押しつけていないか。  
そこに自分を正当化したい気持ちはないか。

この問いを持つことが、意図を整える第一歩である。

そして、もうひとつ大切なのは、他者の視点である。

自分の中だけで考えていると、意図は自分に都合よく整ってしまう。

だから、ときには他者からの違和感が必要になる。

それは本当に相手のためなのか。  
それは言わなくてもよかったのではないか。  
それは心配ではなく、管理ではないか。  
それは優しさではなく、逃げではないか。  
それは愛ではなく、執着ではないか。

こうした問いは痛い。

けれど、痛い問いによってしか、自分の意図の濁りに気づけないことがある。


メタ認知とは、自分の意図を疑う力である


メタ認知とは、自分の思考を一段外から見る力である。

ただ考えるのではない。  
考えている自分を見る。

ただ感じるのではない。  
感じている自分を見る。

ただ意図するのではない。  
意図している自分を見る。

この距離がなければ、人は自分の意図に飲み込まれる。

怒っているとき、人は自分の怒りを正義だと思いやすい。  
不安なとき、人は自分の確認を誠実さだと思いやすい。  
寂しいとき、人は自分の接近を愛だと思いやすい。  
疲れているとき、人は自分の拒絶を冷静な判断だと思いやすい。

だから、意図を扱うには距離が必要である。

私は今、何をしたがっているのか。  
それはなぜなのか。  
その理由は本当に相手のためなのか。  
それとも、自分の不安を処理したいだけなのか。  
この行動のあと、相手には何が残るのか。

この問いが、バイアスによって歪んだ意図を少しだけ整える。


結論


意図とバイアスは切り離せない。

人は、偏りのない場所から意図することはできない。

過去の経験。  
価値観。  
恐怖。  
期待。  
傷。  
欲望。  
関係の履歴。  
社会的な空気。

それらすべてが、意図の向きを作っている。

だから、人は自分の意図を完全には知らない。

自分では優しさだと思っていたものに、支配が混じることがある。  
自分では正義だと思っていたものに、怒りが混じることがある。  
自分では愛だと思っていたものに、執着が混じることがある。  
自分では冷静だと思っていたものに、恐怖が混じることがある。

それでも、意図を問う意味はある。

完全に透明にはなれない。  
けれど、少しだけ濁りを見ることはできる。

人間にできる誠実さとは、偏りのない人間になることではない。

自分にも偏りがあると認めたうえで、なお自分の意図を問い続けることである。

自分は何を望んでいるのか。  
何を恐れているのか。  
何を守ろうとしているのか。  
何を相手に背負わせようとしているのか。

この問いを失ったとき、意図はバイアスに飲み込まれる。

そして、この問いを持ち続けるかぎり、人は少なくとも、自分のつもりを絶対化せずに済む。

意図とは、ただ内側にあるものではない。  
それは、偏りを抱えたまま、世界へ向かっていく心の方向である。

だからこそ、自分の意図を信じすぎてはいけない。  
しかし、疑いすぎて動けなくなる必要もない。

大切なのは、自分の中にある向きを見続けること。

その向きが、誰かを照らしているのか。  
それとも、誰かを自分の都合のよい場所へ押し込めているのか。

意図とバイアスの関係を考えるとは、結局のところ、自分のつもりの危うさを引き受けることである。


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『バイアスというレンズ 世界をゆがめつつ、立ち上げるもの』

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