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ポテトチップスの袋が白黒になるとき、梱包の未来が見えてくる

副題
中身を買っているつもりで
私たちは外殻に金を払っていた

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🧠ふーんで終わらさずに…NEWSの一歩先に問いがある。』

前回、私はNEWSをただ消費するのではなく、その背後にある構造まで掘ることの重要性について書いた。

NEWSは、出来事そのものでは終わらない。

なぜそれが起きたのか。
何と何がつながっているのか。
誰の判断が入り、どんな構造が表面化したのか。

そこまで考えたとき、NEWSは単なる情報ではなく、世界の切断面になる。

今回扱うカルビーのポテトチップスのパッケージ白黒化も、その典型である。

表面だけ見れば、ただの包装変更である。

だが、少し掘れば、そこには石油、ナフサ、印刷インク、国際情勢、ブランド認知、ラベルレス化、缶飲料、自動販売機、そして私たちが何に金を払っているのかという問いまでつながっている。

つまりこれは、ポテトチップスの話であって、ポテトチップスだけの話ではない。

NEWSの一歩先には、いつも問いがある。

今回は、その問いを一袋のポテトチップスの袋から掘ってみたい。


はじめに


カルビーのポテトチップスのパッケージが、白黒2色になるという。

理由は、印刷インクなどの調達が不安定になっているため。
インクの原料にはナフサが関係しており、そのナフサは原油から作られる。
そして原油は、中東情勢や国際物流の影響を強く受ける。

つまり、ポテトチップスの袋の色は、単なるデザインではなかった。

あの色は、石油でできていた。
化学工業でできていた。
国際情勢でできていた。
物流でできていた。
印刷会社でできていた。
そして、私たちが何気なく手に取る日常の明るさとして、店頭に並んでいた。

だから今回のニュースは、単なるパッケージ変更の話ではない。

生活の表面に、世界の構造が滲み出た出来事である。

けれど、もう一歩踏み込むなら、さらに重要な論点がある。

なぜカルビーは、それができたのか。

なぜポテトチップスの袋を白黒にしても、商品として成立すると判断できたのか。

それはおそらく、カルビーのポテトチップスの認知度が極めて高いからである。


白黒にできる商品と、できない商品がある


すべての商品が、パッケージを白黒にできるわけではない。

新商品なら難しい。
知名度の低い商品なら難しい。
棚の中で目立つことによって、ようやく手に取られる商品なら難しい。

なぜなら、そのような商品にとってパッケージは、ほとんど商品の顔そのものだからだ。

色で目立つ。
写真で訴える。
文字で誘う。
高級感で差をつける。
季節感で手を伸ばさせる。

認知度の低い商品は、パッケージによって存在を発見される。

しかし、カルビーのポテトチップスは違う。

すでに多くの人が知っている。
味も知っている。
袋の形も知っている。
売り場の位置も知っている。
うすしお味、コンソメパンチ、のりしおという名前も、生活の記憶の中に入っている。

つまり、色を削っても、まだ読める。

これはカルビーのポテトチップスという商品が、単に店頭に存在しているだけではなく、人間の記憶の中にすでに置かれているということだ。

ここに重要な逆説がある。

ブランドが強くなるほど、パッケージは弱くできる。

普通は、ブランドが強いほど、立派なパッケージが必要だと思われがちだ。

しかし実際には、ブランドが人間の記憶に深く入っていればいるほど、パッケージは簡略化できる。

ロゴだけでわかる。
名前だけでわかる。
棚の位置だけでわかる。
袋の形だけでわかる。
あるいは、白黒でもわかる。

つまり、包装の役割が、物体の表面から人間の記憶へ移動している。

今回の白黒化は、退化ではない。
むしろ、ブランド認知の成熟によって可能になった簡略化でもある。


梱包には三つの役割がある


ここで、梱包というものを分解して考えてみたい。

梱包には、大きく三つの役割がある。

ひとつ目は、中身を守ること。

湿気を防ぐ。
酸化を防ぐ。
破損を防ぐ。
汚染を防ぐ。
流通中の商品を安定させる。

これは梱包の最も基本的な機能である。

ふたつ目は、情報を伝えること。

商品名。
原材料。
賞味期限。
栄養成分。
アレルギー表示。
製造者情報。
バーコード。
リサイクル表示。

これは、商品が社会の中で流通するために必要な機能である。

みっつ目は、欲望を喚起すること。

色。
写真。
質感。
高級感。
限定感。
季節感。
おいしそうに見せる演出。
棚の中で目立つための視覚的な強さ。

これが、消費者に手を伸ばさせる機能である。

今回の白黒化で削られるのは、主にこの三つ目である。

中身を守る機能は残る。
情報を伝える機能も残る。
だが、欲望を喚起するための色彩や華やかさは、一時的に削られる。

ここに、今後の梱包の方向性が見えてくる。

梱包は消えるのではない。

守る梱包は残る。
伝える梱包も残る。
しかし、誘惑する梱包は削られていく可能性がある。


ラベルレス飲料は、すでにその未来を示している


この流れは、ポテトチップスだけの話ではない。

すでにペットボトル飲料では、ラベルレス商品が広がっている。

水。
お茶。
炭酸水。
箱買いの飲料。

それらの一部では、一本一本に巻かれていたラベルが消えている。

これは環境配慮として語られることが多い。
分別が楽になる。
プラスチック使用量を減らせる。
廃棄時の手間が減る。

もちろん、それは正しい。

だが、もう少し深く見るなら、ラベルレス飲料はこう問いかけている。

私たちは、飲み物の何に金を払っていたのか。

水を買っているつもりだった。
お茶を買っているつもりだった。
炭酸水を買っているつもりだった。

しかし実際には、中身だけに金を払っていたわけではない。

ボトル代。
キャップ代。
ラベル代。
印刷代。
箱代。
輸送代。
陳列代。
冷却代。
広告代。
廃棄処理の社会的コスト。

そのすべてを含めて、一本の飲料として買っていた。

ラベルレス化とは、その中からラベルという層を一枚剥がすことである。

つまり、商品は中身そのものへ近づいているように見える。

だが本当は、商品から余計なものが消えているのではない。

商品を成立させていた外殻の一部が、再設計されているのだ。


顧客はラベル代も払っていた


ここで重要なのは、ラベルは無料ではなかったということだ。

当たり前だが、ラベルにはコストがかかる。

素材がいる。
印刷がいる。
巻きつける工程がいる。
デザインがいる。
管理がいる。
剥がして捨てる手間がいる。

私たちは飲み物を買っているつもりで、ラベルにも金を払っていた。

ただし、ラベルは完全な無駄ではない。

ラベルは商品を識別させる。
ブランドを記憶させる。
味を想像させる。
安心感を与える。
選択を早くする。

だからラベル代とは、単なる装飾代ではない。

迷わず選ぶための補助輪に金を払っていたとも言える。

ラベルがあるから、私たちは水を水として見分ける。
お茶をお茶として見分ける。
炭酸水を炭酸水として見分ける。
好きなブランドをすぐに探せる。

しかし、箱買いの場合は事情が変わる。

店頭で一本ずつ選ぶ必要がない。
すでに購入時点で商品を知っている。
外箱や通販ページで情報は確認できる。
飲むたびにラベルで誘惑される必要がない。

だからラベルを削れる。

つまり、ラベルレス飲料もまた、認知度と購入形態によって可能になった簡略化である。

ここでも同じ構造がある。

知っている商品ほど、包装を削れる。


缶飲料は、中身より外殻が重い


さらに考えるべきなのは、缶飲料である。

缶コーヒー。
缶ジュース。
缶ビール。
エナジードリンク。
炭酸飲料。

私たちはそれらを飲み物として買っている。

しかし、物理的にはかなり強い外殻を買っている。

缶は鉄やアルミでできている。
光を遮る。
密封する。
落としても壊れにくい。
冷えやすい。
積み上げやすい。
自動販売機に対応しやすい。
輸送にも向いている。

缶は非常に優れた容器である。

だが同時に、かなり重い形式でもある。

飲み物を買っているつもりで、私たちは金属容器を買っている。
中身を買っているつもりで、中身を安全に運び、冷やし、識別し、片手で飲めるようにする形式を買っている。

自動販売機で買う缶飲料なら、さらにそこへ別のコストが乗る。

自販機本体。
設置場所。
補充作業。
電気代。
冷却。
釣り銭管理。
決済システム。
物流。
回収。
人件費。

だから、飲み物の価格とは、中身の価格ではない。

それは、中身をいつでもどこでも安全に飲める状態へ変換するための形式の価格である。

厳密に言えば、自販機飲料の原価のほとんどが缶代であると断定するには、商品や流通条件ごとの検証が必要になる。

だが、少なくともこうは言える。

私たちは飲み物そのものだけではなく、飲み物を飲める状態にする外殻と仕組みに、大きな割合で金を払っている。


商品とは、中身ではなく形式である


ここまで見ると、商品というものの姿が変わってくる。

ポテトチップスは、じゃがいもだけではない。

薄く切られた芋。
油。
塩。
調味料。
袋。
空気。
印刷。
賞味期限。
ブランド。
棚。
物流。
価格。
記憶。

そのすべてが結びついて、ポテトチップスという商品になる。

缶コーヒーも、コーヒーだけではない。

コーヒー。
砂糖。
ミルク。
缶。
プルタブ。
冷却。
自販機。
通勤途中に買えること。
片手で飲めること。
飲み終わったら捨てられること。

その全体が、缶コーヒーである。

つまり商品とは、中身ではない。

中身を、安定して、識別可能で、購入可能で、消費可能な状態にした形式である。

近代の商品は、内容物ではなく、形式として売られてきた。

この形式があるから、私たちは遠くで作られたものを、近くで、同じように、何度でも買える。

商品とは、中身と外殻の結合体である。

そして今、その外殻が問い直されている。


梱包は無駄だったのか


では、梱包は無駄だったのか。

そう簡単には言えない。

過剰包装はある。
不要なラベルもある。
見栄えのためだけの箱もある。
資源を使いすぎた装飾もある。
開けた瞬間に捨てられるだけの包装もある。

それらが見直されるのは当然である。

だが、梱包をすべて無駄として扱うのは浅い。

梱包は、物と人間の接続面である。

守る。
知らせる。
選ばせる。
記憶させる。
安心させる。
所有した感覚を生む。
贈り物として成立させる。

たとえば高級な菓子の箱は、中身を守るだけではない。
贈る側の気持ちを整える。
受け取る側の期待を高める。
開封する時間を儀式にする。

食器も同じである。

ただ食べるだけなら、紙皿でもいい。
プラスチックのスプーンでもいい。
洗わずに捨てれば楽である。

だが、人間はそれだけでは暮らさない。

皿を選ぶ。
重みを感じる。
料理との相性を見る。
洗う。
しまう。
また使う。
少し欠けても残す。
そこに関係が生まれる。

梱包も同じだ。

ただの外側ではない。
中身と世界をつなぐ外殻である。

だから梱包の簡略化とは、単なる無駄の削減ではない。

関係の形式が変わることである。


誘惑する包装は削られていく


これから、梱包はどうなっていくのか。

おそらく、大きな方向としては簡略化されていく。

資源制約がある。
環境負荷がある。
原材料価格の変動がある。
物流コストがある。
人件費がある。
EC化がある。
箱買いがある。
定期購入がある。
ブランド認知の成熟がある。

これらが重なると、包装の役割は少しずつ変わっていく。

店頭で目立つ必要がある商品は、まだ強いパッケージを必要とする。
新商品は、まだ色と写真とコピーを必要とする。
高級品や贈答品は、まだ開封体験を必要とする。

しかし、指名買いされる商品は違う。

水。
お茶。
炭酸水。
洗剤。
日用品。
定番の菓子。
業務用食品。
箱買い商品。
通販で買われる消耗品。

これらは、誘惑する包装を削りやすい。

なぜなら、購入時点ですでに選ばれているからだ。

棚で誘惑する必要がない。
一本一本が派手である必要がない。
毎回、ブランドの物語を語る必要がない。

すると包装は、守ることと伝えることへ収束していく。

ここで削られるのは、三つ目の機能である。

誘惑する包装。

色彩。
写真。
派手さ。
過剰な演出。
棚での叫び声。

それらは少しずつ弱くなる。

生活は、カラフルな消費空間から、機能の裸形へ近づいていくのかもしれない。


それは貧しさなのか、成熟なのか


ここで判断は分かれる。

包装が簡略化されることを、貧しさと見ることもできる。

売り場が地味になる。
選ぶ楽しさが減る。
商品の個性が薄くなる。
生活の色彩が減る。
買い物が機能的になる。

たしかに、それは寂しい。

人間は中身だけで生きていない。
色で選ぶ。
形で安心する。
重みで納得する。
包装で記憶する。
開ける瞬間に少しだけ気分が変わる。

だから、包装が簡略化されることは、生活から小さな儀式が消えていくことでもある。

しかし一方で、それを成熟と見ることもできる。

過剰な誘惑から距離を取る。
不要な資源使用を減らす。
中身に近づく。
必要な情報だけを残す。
認知された商品は、過剰に叫ばなくても選ばれる。

これは消費文化が少し静かになることでもある。

問題は、どちらが正しいかではない。

梱包の簡略化には、合理化と喪失の両方が含まれている。

無駄が削られる。
同時に、生活の遊びも削られる。

ここを片方だけで見てはいけない。


ポテチの白黒化は、未来の予告である


カルビーのポテトチップスが白黒になる。

この出来事は、一時的な対応かもしれない。
インクの調達が安定すれば、また元に戻るかもしれない。

だが、構造としては未来を示している。

認知度の高い商品は、包装を削れる。
箱買いされる商品は、個別ラベルを削れる。
ECで買われる商品は、店頭訴求を削れる。
環境負荷が問題になれば、過剰包装は削られる。
原材料が不安定になれば、色や装飾は削られる。

商品は少しずつ、自分の外皮を脱ぎ始めている。

ただし、それは裸になることではない。

新しい外殻へ移行することだ。

物理的な包装は薄くなる。
その代わり、ブランド認知は人間の記憶の中に置かれる。
商品情報は通販ページやQRコードへ移る。
選択の場は棚から検索画面へ移る。
所有感はパッケージからレビューやブランド経験へ移る。

つまり、包装は消えるのではない。

場所を変える。

袋から記憶へ。
ラベルからデータへ。
棚から画面へ。
色彩から認知へ。

この移動が、梱包の未来なのだと思う。


おわりに


ポテトチップスの袋が白黒になる。

それは小さなニュースに見える。

けれど、そこには大きな構造がある。

色は石油から来ていた。
インクは国際情勢とつながっていた。
袋は物流と化学工業の産物だった。
パッケージは記憶の装置だった。
ラベルは選択の補助輪だった。
缶は飲み物を運ぶための金属の外殻だった。

私たちは中身を買っているつもりだった。

だが本当は、中身を安全に届ける形式に金を払っていた。
中身を見分けるための記号に金を払っていた。
中身を欲しくなるための色に金を払っていた。
中身を生活の中に置けるようにする外殻に金を払っていた。

だから、梱包とは無駄ではない。

梱包とは、中身と世界を接続する外殻である。

ただし、その外殻は今、再設計されようとしている。

守る包装は残る。
伝える包装も残る。
だが、誘惑する包装は削られていく。

そのとき私たちは、何を失い、何を得るのか。

白黒になったポテトチップスの袋は、その問いを静かに差し出している。

色が消えたのではない。

色を支えていた世界が見えるようになった。

そして、梱包という外殻の奥にあった商品社会の本質が、少しだけ露出したのである。

ポテトチップスの袋が白黒になる。

それだけなら、ふーんで終わる。

けれど、そこで終わらせなかった瞬間、袋の向こう側に世界が見えてくる。

ナフサが見える。
原油が見える。
中東情勢が見える。
印刷インクが見える。
ブランド認知が見える。
ラベルレス飲料が見える。
缶という外殻が見える。
そして、私たちが中身だけではなく、外殻と形式に金を払っていたことまで見えてくる。

NEWSとは、出来事の報告ではない。

問いの入口である。

ふーんで終わらせた瞬間、世界は平面になる。

だが、なぜと問うだけで、生活の表面には奥行きが戻ってくる。

白黒になったポテトチップスの袋は、そのことを教えている。

色が消えたのではない。

問いが残ったのである。


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