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水国家ニッポンのパラドクス

副題

豊穣と飢餓の狭間で、水を持つより、水を動かす国

はじめに|「水の国」を支える四つの順位


日本は、水に恵まれた国だと言われる。

山には森林が広がり、谷には川が流れ、水田には水が張られている。

梅雨がある。

台風が来る。

蛇口をひねれば、ほとんどいつでも安全な水が出る。

こうした風景と生活のなかで、私たちは日本を「水の国」だと考えてきた。

だが、世界と比較してみると、少し違う姿が見えてくる。

図1 日本の水をめぐる四つの順位。
総水資源量、1人当たり水資源量、年間降水量、水使用量は、それぞれ別の指標である。日本は「雨が多い国」という印象だけでは捉えきれず、水が多いこと・使えること・使っていることが必ずしも一致しない。

日本の国土全体の平均年間降水量は、長期平均で約1668ミリメートルである。

乾燥国ではないが、国別比較では48位前後であり、世界的に突出した多雨国というわけでもない。

この数値は、2022年だけの実測雨量ではなく、国土全体について算出された長期平均値である。

また、日本の再生可能な国内水資源の総量は、年間約430立方キロメートルである。

総量だけで見れば、国際比較では27位前後に位置する。

しかし、総量が一定程度あっても、それを一億人を超える人口で分ければ、一人当たりの余裕は小さくなる。

さらに、人口一人当たりの再生可能な国内水資源量は、2022年時点で年間約3437立方メートルである。

国別比較では、日本は中位より下に位置し、「人口一人当たりで水が潤沢な国」とは言いにくい。

ところが、その一方で日本の年間淡水取水量は約797億立方メートルに達する。

国際比較では、世界10位前後の規模である。

つまり日本は、

雨量では世界有数ではない。

一人当たりの水資源にも大きな余裕はない。

それでも、水を使う総量では世界上位にいる。

のである。

この四つの数字は、ひとつの疑問を生む。

日本は本当に、水の多い国なのだろうか。

それとも、

水を大量に動かすことによって、水が多いように見えている国

なのだろうか。

図2 自然の水は、そのまま社会の水ではない。
雨や河川の水は、ダム、浄水場、水路、下水処理場などの仕組みを通ってはじめて、家庭・農地・工場で使える「社会の水」になる。

第1章|日本は、なぜ水の国に見えるのか


日本の水の風景は、たしかに豊かである。

川がある。

湖がある。

水田がある。

山を歩けば沢が流れ、町には水路が残っている。

しかし、目に見える水の多さと、安定して利用できる水資源の多さは同じではない。

日本の降雨は、梅雨や台風の時期へ集中する。

河川は外国の大河川と比べて短く、勾配が急である。

山に降った雨は、何もしなければ短時間で海へ流れていく。

国土交通省も、日本では降雨の季節的な偏りと河川の急勾配によって、水を安定して確保することが難しいと説明している。

それでも、私たちの生活では水が安定して届く。

それは自然が水を無制限に与えているからではない。

ダムが水を貯める。

堰が川から水を取り入れる。

用水路が農地へ水を運ぶ。

浄水場が飲める水へ変える。

水道管が家庭や病院や工場へ届ける。

下水処理場が、使い終わった水を処理して自然へ戻す。

つまり、蛇口から出てくる水は自然そのものではない。

自然の水を、制度と技術によって利用可能な水へ変換したもの

である。

日本は、水が余っているから水の国なのではない。

限られ、偏って降り、すぐに流れ去る水を、

貯める。

運ぶ。

浄化する。

配る。

戻す。

その巨大な仕組みを持っているから、水の国に見えている。

日本の水の豊かさは、自然資源の量だけでは説明できない。

水を利用可能な形へ変換し続ける、社会の能力によってつくられた豊かさなのである。


第2章|水を持つ国ではなく、水を大量に動かす国

日本の年間淡水取水量は、約797億立方メートルである。

再生可能な国内水資源量に対する割合では、約19%に相当する。

この数字だけを見れば、

「日本人は水を浪費している」

と考えたくなるかもしれない。

だが、ここでいう水使用量とは、厳密には水源から取り出した取水量である。

取水された水が、すべて消滅するわけではない。

家庭で使われた水は、下水処理を経て河川や海へ戻る。

工業用水は、工場内で回収され、繰り返し使われることがある。

農業用水も、一部は作物に吸収され、一部は蒸発し、一部は地下へ浸透し、残りは下流へ流れる。

FAOの定義では、取水量には実際に消費された水だけでなく、導水途中の損失や、利用後に河川や排水網へ戻る水も含まれている。

したがって、797億立方メートルという数字は、

日本が一年間に消滅させた水の量

ではない。

より正確には、

日本社会が一年間に河川や地下水などから取り出し、農地、都市、産業へ動かした水の量

である。

つまり、日本の水の豊かさを説明するのは、ストックの大きさではない。

フローの大きさである。

図3 日本は、巨大な水槽ではなく、巨大な配管に近い。
日本の水の豊かさは、水を大量に保有することよりも、取水し、運び、配り、処理し、自然へ戻す流れを維持することによって支えられている。

第3章|日本は、何に水を使っているのか


日本の淡水取水量のうち、約67%は農業用である。

生活用水は約17%で、工業用水は約16%である。

図4 日本の水使用の中心は、家庭ではなく農業である。
年間取水量の約3分の2が農業用水に使われる。水使用量が世界上位だからといって、家庭生活で大量に浪費しているとは限らない。



とりわけ、水田農業は大量の水を必要とする。

田に水を張る。

水温を調整する。

雑草の成長を抑える。

土壌の状態を保つ。

用水路を通して、上流から下流へ水を流す。

ただし、田へ入れた水がすべて米の中へ取り込まれるわけではない。

一部は地下へ浸透し、一部は河川へ戻り、下流の農地で再び利用される。

したがって、農業用水の多さをそのまま浪費と呼ぶことはできない。

それでも、日本社会が食料生産のために、世界上位の規模で水を動かしていることは確かである。

ここに、次の逆説がある。

日本は、国内農業に大量の水を使っている。
それにもかかわらず、食料の多くを国外に依存している。

日本の2024年度の食料自給率は、カロリーベースで38%、生産額ベースで64%である。

さらに、国民の日常生活に必要な熱量を基準とした摂取熱量ベースでは46%と試算されている。

つまり日本は、

国内の水をあまり使わないから、食料を輸入している

のではない。

国内でも大量の水を使いながら、それだけでは現在の食生活を支えきれず、国外の水にも依存している

のである。


第4章|見えない水を輸入する


私たちは、国外から水そのものを大量に輸入しているわけではない。

タンカーで飲料水を運び、日本の水道を満たしているわけでもない。

だが、食料を通じて、国外の水を受け取っている。

小麦を輸入する。

大豆を輸入する。

トウモロコシを輸入する。

牛肉を輸入する。

コーヒーを輸入する。

それらを育てるために、現地では雨水、河川水、地下水が使われている。

水によって生産された商品を輸入することは、その生産に使われた水を、間接的に輸入することでもある。

これが、バーチャルウォーター、つまり仮想水である。

日本の仮想水輸入量については、計算方法や対象品目によって異なる。

2000年のデータを使った推計では年間約640億立方メートル、2005年のデータを使い、木材など対象品目を広げた推計では約800億立方メートルとされた。

この数値は、日本国内の年間淡水取水量と、ほぼ同じ規模である。

図5 日本の食生活は、国外の水資源にも支えられている。
小麦、大豆、飼料、牛肉、コーヒーなどの輸入は、それらの生産に使われた水を間接的に利用することでもある。仮想水輸入量は、推計上、日本国内の年間取水量に近い規模に達する。


もちろん、推計年も定義も異なるため、単純に足して、

「日本は年間1600億立方メートルを使っている」

とは言えない。

しかし、規模感としては重要である。

日本は国内でも約800億立方メートルの水を動かし、
それと同程度の国外の水を、商品や食料の形で利用している。

日本の食卓は、国内の川やダムだけでできているのではない。

北米の農地。

南米の大豆畑。

オーストラリアの牧草地。

東南アジアの農園。

そうした場所の雨や川や地下水が、食料へ変換され、日本へ届いている。

つまり日本の水圏は、国境の内側だけに存在していない。

日本の生活圏は、世界各地の水資源まで広がっている。


第5章|水を食料へ変える回路は、なぜ細くなったのか


水があれば、食料が生まれるわけではない。

水を食料へ変えるには、農地が必要である。

耕す人が必要である。

種や苗が必要である。

肥料が必要である。

家畜を育てるなら、飼料も必要になる。

農業機械が必要である。

収穫した作物を保存し、加工し、都市へ運ぶ流通網も必要になる。

つまり食料とは、

水、土地、労働、資材、技術、時間、共同体を結びつけた社会的な生産物である。

図6 水は、単独では食料にならない。
農地、農業者、種苗、肥料・飼料、農業機械、水路、物流、保存・加工といった社会的回路がそろってはじめて、水は人が食べられる形へ変換される。

日本では、農地も人も減っている。

2024年の基幹的農業従事者は約111万人で、2000年の約240万人から半分以下へ減少した。平均年齢は69.2歳で、65歳以上が全体の7割を超える。

農業とは、農家が一人で畑を耕せば成立するものではない。

水路を管理する人がいる。

農道を直す人がいる。

害獣を防ぐ人がいる。

農業機械を修理する人がいる。

天候や土の性質を知る人がいる。

地域で作業を分担し、水を順番に使う関係がある。

その共同管理まで含めて、初めて水は食料へ変わる。

土地だけを残しても、農業は残らない。

水だけを残しても、食料は生まれない。

日本は、水を食料へ変える能力をまったく持たない国ではない。

しかし、

水を食料へ変換する社会的な回路を、長い時間をかけて細らせてきた国

ではある。


第6章|日本は何を差し出し、何を得たのか


なぜ、その回路は細くなったのか。

単に、農業政策を間違えたからではない。

日本は工業化と都市化を進めるなかで、農村から都市へ労働力を移してきた。

国内で高い費用をかけてすべての食料を生産するよりも、広大な農地を持つ国から安く輸入する方が、平時には効率的だった。

輸入によって、日本は多様な食生活を手に入れた。

季節や国内の気候に縛られず、さまざまな食品を買えるようになった。

小麦。

肉。

果物。

大豆。

コーヒー。

飼料穀物。

農業に投入されていた人や資本の一部を、製造業やサービス業へ移すこともできた。

つまり日本は、ある日突然、

「食料自給を捨てよう」

と決めたわけではない。

工業化。

都市化。

貿易自由化。

価格競争。

消費者の選択。

そうした無数の判断が積み重なった結果として、

国内農業の一部と、非常時の自立性を差し出し、
安価で多様な食料と、都市化・工業化の余地を得たのである。

図7 日本は、失っただけではなく、交換してきた。
国内農業の一部、農村の担い手、技能、非常時の自立性を差し出す代わりに、安価で多様な食料、都市化、工業化の余地を得た。同時に、貿易、海上輸送、為替、国外の水と農地への依存を引き受けた。

これは、合理性のない交換ではなかった。

輸送が止まらない。

市場が機能する。

輸入先で十分な水と農地が確保される。

通貨の購買力が維持される。

その条件が続くかぎり、効率のよい仕組みだった。

だが、交換には代償がある。

国内で生産しないということは、国外の水、農地、労働、環境へ依存するということである。

農業を縮小するということは、現在の生産量だけでなく、

技能。

水路。

農地。

人間関係。

将来の選択肢。

それらを少しずつ手放すことでもある。

豊かさとは、何も失わずに得ることではない。

何を差し出し、どの依存を引き受けるかを選ぶこと

なのである。


第7章|水の国が飢えるとき


平時には、この構造は問題なく動いているように見える。

水道から水が出る。

店には食料が並ぶ。

国内で生産できないものも、海外から届く。

だが、その仕組みの一部が止まったとき、日本の水の豊かさは別の顔を見せる。

戦争。

輸出規制。

外交摩擦。

海上輸送の混乱。

燃料価格の高騰。

輸入先での干ばつ。

肥料や飼料の不足。

円の購買力の低下。

こうした変化によって輸入が滞っても、国内に雨が降っていれば、すぐに食料を増やせるわけではない。

農地は翌日に増えない。

農業者も増えない。

肥料も、飼料も、種も、機械も、突然は用意できない。

荒れた農地を耕作可能な状態へ戻すには時間がかかる。

失われた技能や水路管理の共同体は、非常事態を宣言しただけでは復活しない。

水が存在することと、

その水を食料へ変換できることは、

同じではない。

日本の脆弱性は、水がまったくないことではない。

水を食料へ変える回路が長く、複雑で、その一部を国外へ預けていること

にある。

日本は、水道水を飲みながら飢える可能性を持つ。

図8 蛇口から水が出ても、食料が届くとは限らない。
水、農地、農業者、飼料、肥料、機械、物流のどこかが途切れれば、水のある国でも食料供給は崩れる。現代の飢えは、水不足だけでなく、社会的回路の断絶によっても起こり得る。

それは水がないからではない。

水を食料へ変えるまでの構造が途切れるからである。

これが、「水国家ニッポン」の最も深いパラドクスである。


第8章|水民主主義とは何か


では、すべての食料を国内で生産すればよいのだろうか。

話は、それほど単純ではない。

日本の人口、国土、気候、食生活を考えれば、完全な食料自給には大きな費用がかかる。

食料輸入そのものを悪と考える必要もない。

異なる土地が、適した作物を生産し、交換することには合理性がある。

問題は、依存していることではない。

何に依存し、何を失い、その依存が途切れたときにどこまで代替できるかを理解していないこと

である。

ここで必要になるのが、水民主主義という考え方だ。

水民主主義とは、水を誰か一人の所有物として考えるのではなく、

限られた水を何に使うのか。

誰に配るのか。

どの地域へ送るのか。

どの世代へ残すのか。

その選択を、社会全体の問題として考えることである。

飲料水に使う。

農業に使う。

工業に使う。

発電に使う。

河川や湿地の生態系へ残す。

そして、国内で生産しない代わりに、国外の水をどこまで利用するのか。

問うべきなのは、家庭でシャワーを何分短くするかだけではない。

もちろん、節水は無意味ではない。

だが、日本の水問題の中心は、個人の水道使用量だけにはない。

農地をどう残すか。

農業用水路を誰が守るか。

老朽化した水道管をどう更新するか。

輸入先の水不足へどう配慮するか。

食料と飼料の調達先をどう分散するか。

非常時に、どの作物を優先して育てるか。

平時の効率性と、危機に耐える余白をどう両立するか。

必要なのは、すべてを国内へ戻すことではない。

水と食料の流れが一部止まっても、社会全体が止まらない余白を残すこと

である。


結び|水国家を再定義する


日本は、世界でも突出して雨の多い国ではない。

人口一人当たりの水資源量にも、大きな余裕があるわけではない。

それにもかかわらず、年間の淡水取水量では世界上位に位置する。

国内で大量の水を動かし、

さらに食料や商品を通じて、国外の水も利用している。

日本の水と食料の豊かさは、自然から無条件に与えられたものではない。

二つの巨大な仕組みによって成立している。

一つは、

国内の水を貯め、運び、浄化し、配り、戻すインフラ。

もう一つは、

国外の水によってつくられた食料や商品を輸入する貿易。

である。

日本は、水を大量に持っている国ではない。

国内外の水を、絶えず大量に流通させることで、水の国であり続けている国

なのである。

だから問うべきなのは、

「日本に水はあるか」

だけではない。

その水を誰が動かしているのか。

その水を何へ変換しているのか。

その仕組みを次の世代まで維持できるのか。

国外の水によって得た豊かさの負担を、誰が引き受けているのか。

そして、その流れが止まったとき、日本は何を自分の手でつくれるのか。

水国家とは、単に雨の多い国ではない。

限られた水を生活と食料へ変換し、
国内外の流れが揺らいでも耐えられる余白を残し、
その仕組みを未来へ渡せる国である。

もはや、「水がある」で満足する時代は終わった。

問うべきは、

その水で、私たちは何を育て、
何を差し出し、
どの未来を残しているのか。

ということである。


この記事のまとめ


日本は、水が豊富だから「水国家」なのではない。

降水量は世界的に突出しておらず、人口一人当たりの水資源量にも大きな余裕はない。

それでも日本は、世界上位の規模で水を取り出し、農地、都市、産業へ動かしている。

さらに、国内の水だけでは現在の食生活を維持できず、国外で水から食料へ変換されたものを大量に輸入している。

つまり日本の豊かさは、

国内の水インフラと、国外の仮想水の両方によって支えられている。

日本とは、水を持つ国ではない。

水の流れを止められない国なのである。


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