【職場の盗用劇】

ー 承認という小さな魔法をめぐる物語

※この記事は約1650文字です。


ある日の職場で、奇妙な光景を目にした。

お菓子を配って周囲から「ありがとう」と声をかけられている同僚A。その姿を見つめるBの目が、どこかじっとりと光っていた。

Bは60代の男性 妻子あり 持ち家あり 職場歴も20年以上 表面だけ見れば、安定した人生のモデルのような存在だ。

だがその日、Bは突飛な行動に出た。

なんと、Aからお菓子を盗み取り、自分が買ったかのように装って皆に配りはじめたのだ。

そして周囲は、何も知らずに「ありがとう」とBに笑いかけていた。

■ 誰もが欲しがる、小さな“ありがとう”

お菓子の価値は、たかが200〜300円かもしれない。

※具体的にいうと、アルフォート

だが、それを配るという行為は、もっと大きな意味を持つ。

ちょっとした気遣い。ちょっとした存在感。

それは、他人との間に“やさしいつながり”をつくるための小さな魔法なのだ。

Aはその魔法を、自分のお金で買っていた。

一方、Bはその魔法を、他人の懐から盗んで行使した。

この違いを、私たちはどのように受け止めればいいのだろうか。

■ 「わかってほしい」が言えない男たち

Bの行為は、倫理的に言えば明確な“盗用”だ。

だが、それを単純な悪と断じるのはどこかためらわれる。

Bには「注目されたい」「誰かに見てほしい」という切実な思いがあったのではないか。

──だが、その感情を言葉にできなかった。

──ましてや自腹を切ることすらできなかった。

その結果、最も安直で最も卑劣な方法に手を染めた。

それは、自分のために他人の善意を横取りすること。

だがその背景には、「それでも、誰かにありがとうと言われたかった」という、悲しいほど人間的な渇きがあった。

■ 矮小なトリックスター:老年の子どもたち

Bの姿は、ある種の“劣化したトリックスター”に見える。

規範を壊し、社会に小さな波紋を起こすが、そこに知恵や創造性はない。

あるのは、「自分も注目されたい」という、成熟しきれなかった承認欲求だけ。

これは社会的には成功しているが、感情の成熟が追いつかなかった老年世代の、縮こまった自己表現なのかもしれない。

家庭でも、地域でも、職場でも、「あなたはよくやっている」と言ってもらえる機会が減っていく。

だからこそ、わずかな“ありがとう”に過剰な意味が乗るのだ。

■ 誰がこの“盗用”を責められるのか?

もちろん、倫理的に見ればBの行為は責められるべきだ。

だが私たちは、それを笑い飛ばすことができるだろうか?

※私は微笑ましい場面として笑ってしまった。

もしかすると、私たちも日々の中で、

• 他人のアイデアを自分の言葉として話したり

• 人気のある行動を真似して承認を得ようとしたり

• 小さなズルで「自分もがんばってる」と言われたいと願ったり

そんな形で、知らず知らずのうちに“承認の魔法”を借りているかもしれない。

■ 結論:盗んだのは、お菓子じゃない

Bが盗んだのは、お菓子ではない。

「感謝されるという場面」そのものだった。

そしてそれは、「あなたはここにいていい」という、存在の承認そのものだった。

だから私たちは、この一件を“ちょっと変な職場エピソード”として片付けるのではなく、
「なぜ人は、ここまでしてまで“見られたい”と思うのか?」という問いへと開いていくべきなのだ。

【あとがき】

もし、この記事を読んで「そんな奴、最低だ」と思ったなら──

どうかその怒りの中に、自分の中にある「見てほしい気持ち」がどこにあるかを探してみてほしい。

もしかしたら私たちもまた、誰かの“魔法”を、そっと借りて生きているのかもしれない。

「人のフリ見て我がフリ直せ」

それがこの記事の本意である。

……なお、Bには愛する家族がいる。

奥さんも娘さんも美人で、誕生日にはケーキとワインで祝ってくれる。

それでも、職場では「ありがとう」が欲しかった。

家庭で満たされていても、別の場では別の承認が必要になるのが、人間という生き物なのかもしれない。

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