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関ヶ原古戦場巡り(傍観軍編)

11月末にお父さんと関ヶ原古戦場巡りをしてきました。西軍、東軍、反応軍、傍観軍で紹介できたらと思います。(傍観軍編)

傍観軍の陣所の最寄駅は関ヶ原の東の垂井駅ですが、関ヶ原同様案内板なども多く、観光案内所ではマップがいただけます👍

カッコいいマップ!

関ヶ原決戦当日、南宮山の軍勢(毛利長宗我部軍)は吉川広家が抑えて全く動かず、西軍敗北の要因となります。
南宮山は関ヶ原の東南にあたり、家康が最初に布陣した桃配山よりも南東。もし動いたら東軍を挟み撃ちできるポジションにありました。

毛利輝元は、三成らと親しい安国寺恵瓊らの後押しで大坂城に入り、西軍の総大将に祭り上げられたかのように言われがちです。

でも、輝元は三成らが(内府ちかひの条々)を発すると、広島から2日のスピードで大坂城に入り、甥の秀元も6万の大軍で大坂城に入るなど、超積極的だったそうです。
この行動は、戦いに乗じて西国に毛利領を拡大することを狙っていたくらいで
(家康とはぶつかりたくはなかった、天下取ったるみたいには思ってなかった)
とも言われてるけど
(やーそれ、総大将に祭り上げられる行動やで💦

毛利元就の孫・輝元は、父・隆元が早世したため、長く二人の叔父・吉川元春と小早川隆景の後見を受けました。
小早川隆景は豊臣秀吉に信頼されていましたが、吉川元春は秀吉とは距離を置いていました。
その元春の息子が吉川広家。

吉川元春、小早川隆景が没すると、代わりに政僧・安国寺恵瓊と広家が輝元を支えます。
秀吉や石田三成と親しい恵瓊に対し、広家は父同様秀吉と距離を置き、恵瓊とも仲が悪かったそうです。
そんな広家に、家康シンパの黒田長政が接近しています💦

長政は、毛利家の将来のために輝元が家康側につくことを広家に何度も勧め、広家もまた輝元を説得します。
最初からガッツリ家康とぶつかる気のない輝元は、西軍総大将でありながら西軍諸将を裏切り、領国の保証を条件に密かに家康と和睦しました。それは関ヶ原の決戦前日の、914日のこと💦

美濃の一ノ宮南宮大社の奥から登っていくと、山頂に毛利秀元陣所。
山腹に安国寺恵瓊陣所。


毛利秀元陣所。かなり高所にあり、全く関ヶ原の様子はみえず、大垣城がよく見えます。
山城としてかなり完成していて、こんなセクシーな土塁もある毛利秀元陣所。
好きです☺️

広家はその時、毛利秀元や安国寺恵瓊らとともに南宮山に布陣していましたが、秀元や恵瓊に輝元の和睦のことは伝えていなかったそうです。

毛利本隊を動けなくさせた、吉川広家陣所。

敗戦後、安国寺恵瓊は京都へ逃げ落ちましたが、東軍に捕縛されます。毛利氏に忠誠を尽くした安国寺恵瓊は、斬首されてしまいます。
結局、毛利氏は本戦前の積極的すぎる行動から領国の保証の話は反故になり、そのことも(悪僧・安国寺恵瓊の責任!)とされてしまったといいます。
元々、毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏であったとも言われる恵瓊。ホント浮かばれませんね‥‥

安国寺恵瓊陣所の案内板がありますが、ここから、未整備の道を結構進むと↓


ホントの安国寺恵瓊陣所に着きます。
ここに至るまで途中からは幅広い軍道のようで、恵瓊は戦う気があったことが感じられます。

南宮山のさらに南には長宗我部盛親陣所があります。ここは竹中半兵衛閑居の地(秀吉がしつこくスカウトしてきたという伝説も残る)とも言われています。

長宗我部盛親陣所。竹中半兵衛閑居でもあります。


立派な僧坊跡を利用しています。


足利・新田氏との戦いで消失した栗原九十九坊という僧坊跡を利用した陣所です。
僧坊跡からはものすごく広大で、ある時期はすごく繁栄していたことが伺えるのですが、全焼し消失した後一箇所に集められた仏像やお地蔵さんの数が凄すぎて、ものすごいオーラ。(私の感想)
とても長くはおられてないところです💦

長宗我部盛親も、より関ヶ原に近い毛利軍が兵を動かしていないため戦うことなく、負け戦になることを認識した時点で兵ごと退却しています。
ですが、お家騒動の話で家康にイチャモンをつけられ、領地没収、大坂の陣までは京都で寺子屋の先生をしていたといいます🥹

もし毛利・長宗我部が動いていたら、という話もよくされますが、どうなんでしょうか。
こんなポイントをついた布石を打てるような東軍に勝てるような気がしなくなってきます。

同じく動けなかった長束正家。
島津の敗走の手助けをしたとも。


残すは(東軍編)ですが、すでにMPVは黒田長政かなあ、という気になってきました。

南宮大社の手水舎