どうして鉛筆を正しく持つのか
先日、とても興味を惹かれる記事に出会った。
これである。
テーマは「鉛筆・箸を正しく持てと言われるが、一方でそれについて真っ当な理由を言ってくれる人は少ない」という風なことである。
この方の結論や落とし所については上記noteを確認いただくとして、これはワタシにとっても大切なテーマになると感じたため、思いを整理し綴ってみようと思い、引用に至ったのである。
第一にワタシの立場を明確にしておくと、
ワタシは鉛筆・箸を正しく持ちたいと考えている側の人間である。
さて、それではここに二つの論が発生する。
一つは
「ワタシが」鉛筆・箸を正しく持ちたい理由
そして一つは
「一般的に」鉛筆・箸は正しく持った方がいいのか
となる。
1日にnoteに使う時間は20分程度にしようと思っているが、毎度の如く気づいたら1時間超が経っていそうな予感が既にバチバチしている。
えへ。
では一つ目の論。「ワタシが」鉛筆・箸を正しく持ちたい理由。
ワタシの捉え方として、鉛筆・箸を正しく持つ、もう少し拡大すると「正しい所作を行う」というのは、「様になる」と言い換えることができる。
分かり易いのは武道関連で、
例えば
弓道を修める人間が弓を引き、矢を射る所作。
剣道の達人が構え、剣を振るう所作。
読者様が想像したそれはきっと洗練された流れるようなもので、人を惹きつける魅力があり、様になった動きではなかっただろうか。
鉛筆や箸を持つ際に「正しい所作」と決められている持ち方も多分同じで、それがその道具を扱う場合に最も「様になる」形なのだと思う。
この「様になる」というのはワタシにとって大切で、
”そう”持たれるように作られた鉛筆・箸を”そう”持つことは、
ワタシが道具に対し礼を失わないことなのである。
何事にも礼が通っている人というのは、ワタシにとって魅力的なのだ。
もう一つある。
鉛筆の役割、箸の役割は、本質的には「書くこと」そして「モノを口に運ぶこと」なのである。
従って、極論この点が達成されていれば実は特段の問題は無く、敢えて「様になる」形でそれを行うというのは、ある種の洗練である。
物事を洗練させることができる人というのは、
・それを洗練させるだけの時間的、ないし精神的余裕があり
かつ
・洗練させるほどそれに対し真摯に向き合っている
人であり、得てしてそのような人は魅力的である。
ここで結論。
結局ワタシは、ワタシにとってのワタシを魅力的な存在にし続けていたいのだ。
だからワタシは、鉛筆や箸を正しく持つようにしている。
二つ目の論。「一般的に」鉛筆・箸は正しく持った方が良いのか。
これについては先述のワタシの価値観は排除して、ワタシが思う一般論を述べることになる。
結論から言えば、YESとなるだろう。
しかし、これも先に言うならば、ワタシは一般に迎合しない。気持ちが悪いからである。
だから、先に書いた通りこれはあくまで「ワタシが思う一般論」に止まり、「ワタシの価値観」では絶対にないということを今一度強調したい。
大抵の場合、何事にも「正しい所作」というものがおよそ決められており、それらは所謂「型」として理屈抜きに世間に浸透していることが多い。
世間に浸透しているというのはつまり、
その型を採用している人間が多いということである。
そして。ところで人間とは、群れで行動する動物である。
群れを成す動物たちの掟とは、端的に言えば「コミュニティで浮いた存在にならない」ことである。
浮けば排除され、時には酷い仕打ちを受けることになる。
いつか記事にするかもしれないが、ワタシは身をもってそれを知っている。
浮かないためにどうするか。
それはコミュニティのルールに従うことである。
そして日本的なコミュニティでは、皆一緒!であることが強く意識される。
つまり、少なくともこの国では。
特段の理由が無ければ多数が採用している型を自分も取り入れることが重要になる。
よって。
群れを追放され酷い目に遭わないために、引いては自分を守るために、正しいと定義されていることには従っておくと良い。
それが鉛筆・箸を正しく持つという些細なことだとしても、である。
それが無難というものだ。
ただ何度も言うけどワタシは。
群れの概念がワタシにとって気持ち悪すぎるが故、このようなことは絶対にしない。
例えこの先また酷い目に遭おうとも、である。
ワタシはワタシ。村人Aではないのだ。
個をどれだけ発揮させるか。それがワタシの人生である。
尖ってなんぼ、はみ出てなんぼ、変と言われりゃ大喜びというのが信条である。
よろしくどうぞ。
