マケラ あるいは 雨やどりの幻想 村上春樹と
クラウス・マケラ。クラシックの貴公子、今最も話題の指揮者だ。昨夜もサントリーホールで、コンセルトヘボウとマーラーの交響曲第5番で名演奏をしたらしい。信頼のおける人物が実演を聴き、絶賛していたので間違いないだろう。
私は、残念ながらまだ実演に接していない。春にパリ管と来日した時も聴きに行けなかった。こちらも大盛況であったから、今度の来日ではそれぞれ五千円はチケットが値上がりしているだろう。
さて、そうなった時の手段は、インターネットである。私が登録しているアップルミュージックにもマケラの録音はいくつかある。その中で、私はパリ管とのベルリオーズ作曲の『幻想交響曲』を聴いてみることにした。実演でも一体何度聴いたか分からないくらい接した「幻想」。いっとき、来日オーケストラは猫も杓子も「幻想」だったのだ。
私自身がチューバを演奏し、またこの曲はチューバ奏者にとっては特別な曲、ということもある。もちろんオフィクレイドのための楽譜であるが、これについてチューバ奏者が論じることに、いささかの不自然さもないと思う。
なかなか論ずることは難しい録音に感じた。とにかく素晴らしいオーケストラである。そして、破綻はなく、よくある打楽器や金管の強調もない。本当に良い意味で「普通」である。これは、マケラファンの人からは怒られそうだが、ある程度の年数のクラシックファンだと、「幻想」は本当に数多聴いており、曲自体の持つ幻惑ではないが、多種多様なスタイルに接している。チェリビダッケのあの異体。ムラヴィンスキーの想像以上の熱。アバドとシカゴ、そしてハーセスのトランペット。
そうした中での「普通」は褒め文句と思ってもらいたい。そして、またこのようなある種のカリスマは結局のところ、実演を聴いてなんぼなんだとも思う。ラトルも、颯爽とバーミンガムとのエロイカの実演をきいて、何か分かった気がした。ヤンソンスもオスロフィルとのローマの松を聴いて分かった気がした。この若き秀英の実演を楽しみに待ちたい。
インターネットで演奏を聴く贅沢は、一部批判もあるかも知れないが、「ながら」聴きができることである。今回は、先述した村上春樹氏の「回転木馬のデッド・ヒート」を引き続き楽しんだ。これは、氏による「幻想」である。作中に「村上春樹」氏が登場する。インタビュアーというか、いわゆる聴き役である。もちろんこれが、本当のことなのか、そんな訳があるかないか、そこは煙に巻かれるし、どうでも良いことだ。「レーダーホーゼン」、「タクシーに乗った男」、「プールサイド」、「今は亡き王女のための」、そしてサルトルの『嘔吐』へのオマージュだろうか、「嘔吐1979」、「雨やどり」、「野球場」と続く。
この何とも言えない異世界と日常の交錯する部屋に、マケラと極上のオーケストラが奏でる「幻想」は、ふさわしい節度でスピーカーを鳴らす。この本が出されたのは、1985年。日本が狂乱し、バブルに向かう上り坂の中、書かれたと思えば、これはまさに醒めた「幻想」なのである。
