考える世界史 第67節 講義:ヴェルサイユ体制・ワシントン体制~「つかの間の平和」が孕んだ時限爆弾~
「すべての戦争を終わらせるための戦争」。そう呼ばれた第一次世界大戦は、1000万人以上の命を奪い、4つの帝国を崩壊させました。未曾有の惨禍を経験した人類は、二度とこのような悲劇を繰り返すまいと、史上初の国際平和機構「国際連盟」を創設し、新たな国際秩序の構築に乗り出します。ヨーロッパにおける「ヴェルサイユ体制」と、アジア・太平洋における「ワシントン体制」。これらは世界に恒久平和をもたらすはずでした。
しかし、その実態はどうだったのか。戦勝国イギリス・フランスによる帝国主義的な既得権益の維持。台頭するアメリカの覇権追求。敗戦国ドイツに対する苛烈な報復。そして「民族自決」という美しい理念の裏に隠された、アジア・アフリカへの植民地支配の継続。この体制は、矛盾と妥協に満ちた「つかの間の平和」に過ぎませんでした。
なぜ、世界に平和をもたらすはずの新秩序は、わずか20年で崩壊し、より悲惨な第二次世界大戦を引き起こす「時限爆弾」となってしまったのか。その構造的な欠陥を、今日の講義で読み解いていきましょう。
第11章 二つの世界大戦
第67節 講義:ヴェルサイユ体制・ワシントン体制~「つかの間の平和」が孕んだ時限爆弾~
導入:二つの「布告」が描いた戦後構想
皆さん、こんにちは。前回までの講義では、帝国主義の矛盾が暴発した第一次世界大戦の経過と、その重圧の中で崩壊したロシア帝国に誕生した史上初の社会主義政権について見てきました。
ここで思い出していただきたいのが、大戦末期に発せられた二つの重要な「声明」です。一つは、1917年11月、ロシア革命の直後にレーニンが発した「平和に関する布告」。無併合・無賠償・民族自決を掲げ、帝国主義列強が秘密裏に結んでいた領土分割の密約を暴露して、世界に衝撃を与えました。もう一つは、翌1918年1月、アメリカ大統領ウィルソンが議会で発表した「十四カ条の平和原則」です。秘密外交の廃止、民族自決、そして国際平和機構の設立を訴えたこの声明は、レーニンの布告に対抗する意図から生まれたものでした。社会主義の理念に世界の平和主義者やアジア・アフリカの人々が引きつけられることを恐れたウィルソンが、資本主義陣営の側から新たな戦後秩序の理念を提示する必要に迫られたのです。
1918年11月、ドイツ革命によって帝政が倒れ、大戦はようやく終結しました。今日のテーマは、この大戦の戦後処理として構築された新しい国際秩序、すなわちヴェルサイユ体制とワシントン体制の成立過程と、その構造的欠陥です。
かつてウィーン会議(1814~15年)で築かれた「正統主義」と「勢力均衡」の国際秩序は、第一次世界大戦によって完全に崩壊しました。代わって登場したのが、「国際連盟」を中心とする「集団安全保障」という20世紀の新たな理念です。しかし、この体制は発足の時点から致命的な弱さを抱えていました。世界最大の経済大国となったアメリカが孤立主義に回帰して連盟に参加せず、社会主義国ソ連と敗戦国ドイツが当初排除されたのです。この歪んだ出発点が、やがて世界をどこへ導くのか。次講以降で扱う世界恐慌とファシズムの台頭、そして第二次世界大戦への道を理解するための、最も重要な土台となる講義です。
パート1:パリ講和会議とヴェルサイユ条約
第1 理想と現実が激突した講和会議
1919年1月、パリのフランス外務省に連合国の代表が集結し、パリ講和会議が開催されました。会議を主導したのは、アメリカ大統領ウィルソン、イギリス首相ロイド=ジョージ、フランス首相クレマンソーの三巨頭です。日本からは西園寺公望らが全権として参加しました。注目すべきは、敗戦国ドイツの代表も、革命を経たソヴィエト=ロシアも、この会議には招かれなかったという点です。戦後秩序は、戦勝国だけの手で一方的に決定されたのです。
会議はウィルソンが前年に発表した「十四カ条の平和原則」を基本理念として進められるはずでした。十四カ条の主な内容を整理しておきましょう。まず、秘密外交の廃止、海洋の自由、関税障壁の撤廃、軍備の縮小といった一般原則があります。次に、個別の領土問題として、ベルギーの主権回復、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還、イタリア国境の再調整、オーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国支配下の諸民族への自治の保障、バルカン諸国の独立、ポーランドの独立と海への出口の確保、そして植民地問題の公正な解決が掲げられました。最後に、第14条として、国際平和機構の設立が提唱されています。「民族自決」の理念と「国際連盟」の構想は、この十四カ条の核心でした。
しかし、理想主義者ウィルソンの前に立ちはだかったのは、各国の剥き出しの国益でした。「虎」の異名をとるフランス首相クレマンソーは、普仏戦争以来の宿敵ドイツを二度と立ち上がれないほど徹底的に弱体化させ、自国の安全保障を確保することに固執しました。ロイド=ジョージも、大英帝国の広大な植民地と海洋覇権の維持を最優先としました。ウィルソンの理想主義は、英仏のエゴイズムとの妥協を余儀なくされたのです。
また、戦勝国であるイタリアも不満を抱えていました。イタリアは参戦の見返りとして「未回収のイタリア」(トリエステ、南チロルなど)の獲得を約束されていましたが、会議で得たのはその一部に留まり、期待していたフィウメ(現クロアチアのリエカ)の領有は認められませんでした。この不満は国内に深い憤りを生み、のちに愛国詩人ダヌンツィオによるフィウメ占領事件を引き起こし、さらにはムッソリーニのファシスト党台頭の温床となっていきます。
第2 ヴェルサイユ条約の苛酷な内容
1919年6月28日、連合国はヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で、敗戦国ドイツにヴェルサイユ条約を調印させました。1871年にプロイセンがフランスを破ってドイツ帝国の成立を宣言した、まさにその場所です。場所の選定そのものが、フランスの復讐心を象徴していました。条約の内容は、ドイツにとって極めて過酷なものでした。
まず、領土の割譲です。アルザス・ロレーヌ地方はフランスに返還されました。この地域は1871年の普仏戦争でドイツがフランスから奪ったものであり、フランスにとっては半世紀にわたる宿願の達成でした。ザール炭田地方は15年間、国際連盟の管理下に置かれ、その間の炭坑の採掘権はフランスに与えられました(のち1935年の住民投票でドイツに復帰)。石炭はこの時代の最重要資源であり、ザール炭田の管理権をフランスに委ねるということは、ドイツの工業力を直接的に削ぐことを意味していました。
東方では、ポーランドの海への出口を確保するために、ドイツ本土と東プロイセンの間にポーランド回廊と呼ばれる地域が割譲され、ドイツの国土は東西に分断されました。バルト海の貿易港ダンツィヒ(現グダニスク)は国際連盟管理下の自由市とされました。このポーランド回廊とダンツィヒの問題は、のちにヒトラーがポーランド侵攻の直接的な口実とする、まさに時限爆弾でした。さらに、北シュレスヴィヒはデンマークへ、オイペン・マルメディはベルギーへ帰属が変更され、上シレジアやメーメルなどの地域でも住民投票によって帰属が決定されました。そして、アフリカや太平洋に持っていた海外植民地はすべて没収されました。ドイツは国土の約13パーセント、人口の約10パーセントを失ったことになります。
次に、軍備の厳しい制限です。徴兵制は廃止され、陸軍の兵力は10万人以下に制限されました。空軍と潜水艦の保有は禁止されました。さらに、フランスの安全保障のため、ライン川西岸は連合軍が15年間保障占領し、ライン川東岸50キロメートルは非武装地帯とされ、軍隊の駐留も要塞の建築も禁じられました。いわゆるラインラントの非武装化です。
そして最も深刻だったのが、天文学的な賠償金です。条約には、ドイツに大戦を引き起こした責任があるとする戦争責任条項が盛り込まれ、これを根拠として莫大な賠償が要求されました。1921年、連合国の賠償委員会が決定した額は1320億金マルク。当時のドイツの国民総生産の約20年分ともいわれる途方もない金額です。この過酷な賠償額に対しては、戦勝国の側からも批判の声があがりました。パリ講和会議にイギリス政府の大蔵省首席代表として参加した経済学者ケインズは、ドイツに多大な負担を求める賠償案に反対し、会議の経緯を批判する著書『平和の経済的帰結』(1919年)を著して世に知られました。ケインズは、ドイツ経済を破壊するような賠償はヨーロッパ全体の経済復興を妨げると警告したのです。しかし、この警告は顧みられませんでした。賠償金の重圧はドイツ経済を根底から圧迫し、国民の間に深い屈辱感と怨恨を植えつけました。のちにヒトラー率いるナチ党が政権を掌握する際、このヴェルサイユ条約への憎悪が最大の政治的燃料となったのです。なお、ドイツとオーストリアの合邦(アンシュルス)も明確に禁止されました。
パート2:新たな国際秩序の形成
第1 国際連盟の発足とその構造
ヴェルサイユ条約の第1編には、国際連盟規約が盛り込まれていました。ウィルソンの十四カ条の第14条、すなわち国際平和機構の設立という理念が、条約の冒頭に据えられたのです。1920年1月、スイスのジュネーヴを本部として、世界初の恒久的な国際平和維持機構である国際連盟(League of Nations)が正式に発足しました。
ここで、国際連盟の基盤となった「集団安全保障」という考え方を理解しておきましょう。第一次世界大戦以前の国際秩序は、「勢力均衡」の原理に基づいていました。国家は個別に同盟を結び、パワーバランスによって相手を抑止するという仕組みです。しかし、三国同盟と三国協商という二大陣営のバランスが崩壊した結果が、世界大戦という未曾有の惨禍でした。この反省から生まれたのが「集団安全保障」の理念です。これは、特定の敵国を想定する同盟ではなく、加盟国全体が一つの枠組みに入り、もし加盟国の一国が他の加盟国を侵略した場合には、残りの加盟国全体がその侵略を止めるために共同で対応するという考え方です。国際連盟は、この集団安全保障を初めて制度化した組織でした。
組織の中心は総会と理事会です。理事会の常任理事国には、イギリス・フランス・日本・イタリアの4カ国が就きました。付設機関として、オランダのハーグに常設国際司法裁判所が設置され、国際紛争の司法的解決を担いました。また、労働者の権利保護と労働条件の改善を目的とする国際労働機関(ILO)も設立されました。さらに、国際知的協力委員会(のちのユネスコの前身)や国際連盟保健機関(のちのWHOの前身の一つ)なども設けられ、文化・保健衛生分野での国際協力も推進されました。中小国間の紛争調停や難民支援といった分野では、連盟は一定の成果をあげています。
第2 国際連盟の構造的欠陥
しかし、国際連盟は発足の時点から致命的な弱点を抱えていました。入試でも頻出のポイントですので、しっかり整理しておきましょう。
第一に、提唱国であるアメリカ合衆国の不参加です。これが最大の欠陥でした。アメリカは伝統的な孤立主義(モンロー主義)に回帰する世論の高まりと、ヨーロッパの紛争への巻き込みを恐れる上院(共和党主導)の反対により、ヴェルサイユ条約の批准そのものを拒否し、国際連盟にも加盟しませんでした。第一次世界大戦を経て世界最大の債権国となり、圧倒的な経済力を持つアメリカが欠席したことで、連盟の権威と実効性は大きく損なわれました。
第二に、主要国の排除です。敗戦国ドイツと社会主義国ソ連は、発足当初は加盟を認められませんでした。ドイツは1926年に、ソ連は1934年にそれぞれ常任理事国として加盟しますが、1930年代には日本(1933年)、ドイツ(1933年)、イタリア(1937年)が相次いで脱退し、連盟は形骸化していきます。
第三に、軍事制裁権の欠如です。侵略国に対する制裁手段は経済制裁のみに限定され、武力による制裁の規定を持ちませんでした。つまり、侵略行為を実力で阻止する手段がなかったのです。
第四に、全会一致の原則です。総会や理事会の議決は原則として全会一致とされたため、一国でも反対すれば決定を下せず、迅速な意思決定や紛争解決の能力が極めて低くなりました。
このように、国際連盟は「歯のない虎」と揶揄されるほど、強制力を欠いた脆弱な組織でした。
第3 東欧の新独立国と「民族自決」の光と影
ヴェルサイユ体制の下で、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国という4つの帝国が解体した結果、東ヨーロッパに多数の新興国家が誕生しました。フィンランド、バルト3国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア(セルブ=クロアート=スロヴェーン王国)などです。これらは「民族自決」の理念に基づく独立であり、ウィルソンの十四カ条が生んだ最大の具体的成果といえます。
しかし、この新秩序には深刻な問題が潜んでいました。新国家の国境線は民族分布と必ずしも一致せず、戦勝国である英仏の利害や、ソ連の西方への膨張を防ぐ「防共の防波堤」(緩衝地帯)としての戦略的役割を優先して恣意的に引かれたからです。たとえば、チェコスロヴァキアのズデーテン地方には約300万人のドイツ系住民が暮らしており、ポーランド回廊にも多数のドイツ系住民が残されました。こうした少数民族問題は、のちにヒトラーが領土拡張の口実として最大限に利用することになります。
さらに決定的だったのは、「民族自決」の原則がヨーロッパの白人国家にのみ適用され、アジアやアフリカの植民地には一切適用されなかったことです。大戦に協力すれば独立できると期待していた植民地の人々は、この二重基準に深く絶望しました。その怒りは、朝鮮の三・一独立運動(1919年)、中国の五・四運動(1919年)、エジプトのワフド党を中心とする反英運動、インドのガンディーによる非暴力・不服従運動など、アジア・アフリカ全域で激しい民族運動として噴出することになります。
第4 委任統治という名の植民地再分割
敗戦国ドイツの旧植民地やオスマン帝国の旧領土は、どう処理されたのでしょうか。公然たる植民地の分割は、さすがに「民族自決」を掲げた手前、体裁が悪い。そこで編み出されたのが「委任統治」という巧妙な制度です。国際連盟が戦勝国に統治を「委任」するという形式をとることで、事実上の植民地支配を正当化したのです。
委任統治は、対象地域の発展段階に応じてA式・B式・C式の3段階に分類されました。A式は「独立に近い段階」とされた旧オスマン帝国のアラブ人地域に適用されましたが、実際には受任国(英仏)が軍事・外交の実権を握り、形式的な自治を与えるに過ぎませんでした。B式は旧ドイツ領のアフリカ植民地に、C式は太平洋諸島などに適用され、C式に至っては受任国の領土の一部として統治することが認められており、植民地支配と実質的に何ら変わりませんでした。
中東のアラブ人地域は、大戦中のイギリスの秘密外交(サイクス=ピコ協定)に基づいて英仏に分割されました。イギリスはイラク、ヨルダン(トランスヨルダン)、パレスチナの委任統治を獲得し、フランスはシリアとレバノンの委任統治を獲得しました。大戦中にイギリスがアラブ人に約束した独立(フセイン=マクマホン協定)は完全に反故にされたのです。さらに、パレスチナにはバルフォア宣言に基づいてユダヤ人の入植が進められ、これが現代に至るパレスチナ問題の直接的な火種となりました。
太平洋地域では、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島(マーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島など)が日本のC式委任統治領とされました。赤道以南の旧ドイツ領は、オーストラリアやニュージーランドの委任統治下に入りました。アフリカでも、旧ドイツ領の植民地が英仏などにB式委任統治として分配されています。
パート3:敗戦国・旧帝国領への講和条約群
第1 パリ郊外の講和条約
ドイツ以外の敗戦国とも、パリ郊外の宮殿などで個別に講和条約が結ばれました。まとめて押さえておきましょう。
対オーストリアのサン=ジェルマン条約(1919年)では、オーストリア=ハンガリー帝国の解体が正式に承認されました。チェコスロヴァキアやハンガリーなどの独立が認められ、イタリアに対しては「未回収のイタリア」の一部であるトリエステや南チロルが割譲されました。また、ドイツとの合邦(アンシュルス)は明確に禁止されました。かつてのハプスブルク帝国は、多民族を束ねる広大な帝国から一転して、ドイツ語を話す約650万人の小国へと縮小したのです。
対ハンガリーのトリアノン条約(1920年)では、ハンガリーは旧王国領土の大幅な削減を余儀なくされました。領土の約3分の2を周辺諸国(ルーマニア、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアなど)に割譲するという過酷な内容であり、約300万人のマジャール人(ハンガリー人)が国境の外に取り残されました。この「トリアノンの屈辱」はハンガリーの国民感情に深い傷を残し、周辺諸国との関係を長く不安定なものとしました。
対ブルガリアのヌイイ条約(1919年)では、領土の一部が削減され、賠償金の支払いが課されました。
対オスマン帝国のセーヴル条約(1920年)は、とりわけ苛酷な内容でした。アラブ地域は英仏の委任統治領として失われ、小アジアの一部(イズミルなど)はギリシアなどに割譲されました。ボスフォラス・ダーダネルス両海峡は国際管理下に置かれ、さらにヨーロッパ諸国による治外法権の容認やカピチュレーション(不平等条約体制)の復活が定められました。これは事実上の半植民地化を意味するものであり、オスマン帝国は国家としての主権をほぼ完全に奪われたのです。
第2 トルコ革命とローザンヌ条約
セーヴル条約の屈辱と、条約に基づくギリシア軍の小アジア(イズミル)侵入に対し、オスマン帝国の軍人ムスタファ=ケマル(のちのケマル=アタテュルク)が民族の救国運動に立ち上がりました。彼はアンカラに大国民議会を組織してトルコ国民軍を率い、ギリシア軍を撃退しました(ギリシア=トルコ戦争)。
1922年、ケマルは無力なスルタン制を廃止し、600年以上続いたオスマン帝国を滅亡させました。そして1923年、連合国と新たにローザンヌ条約を結び直し、セーヴル条約の屈辱的な条項を撤回させました。治外法権(カピチュレーション)は撤廃され、トルコの主権と現在のトルコ共和国の国境がほぼ確定しました。同年、首都をイスタンブルからアンカラに移し、ケマルを初代大統領とするトルコ共和国が成立しました。
ケマルはその後、カリフ制の廃止、政教分離の徹底、トルコ文字のアラビア文字からラテン文字への変更、太陽暦の採用、女性参政権の付与など、急進的な西欧化・近代化改革(トルコ革命)を推進していきます。これらの改革は第70講以降で詳しく扱いますが、本講で押さえておくべきポイントは、ケマルの革命がセーヴル条約という不平等な戦後秩序を実力で覆した唯一の成功例だったということです。この成功は、ヴェルサイユ体制下で抑圧されたアジア・アフリカの民族運動に、大きな希望と刺激を与えました。
パート4:ワシントン体制~アジア・太平洋の新秩序~
第1 ワシントン会議の背景
ヴェルサイユ体制はヨーロッパを中心とする国際秩序でした。しかし、中国をはじめとする東アジア・太平洋地域の問題は、パリ講和会議では十分に処理されないまま残されていました。中国はパリ講和会議で二十一カ条要求の撤廃を訴えましたが拒否され、ヴェルサイユ条約の調印そのものを拒否しています。
問題の焦点は日本でした。第一次世界大戦中、ヨーロッパ列強がヨーロッパ戦線にかかりきりになっている隙に、日本は中国や太平洋への進出を急速に拡大していました。1914年、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告した日本は、ドイツの租借地であった山東半島の権益を接収し、翌1915年には中国の袁世凱政権に対して二十一カ条の要求を突きつけました。この要求には、山東半島のドイツ権益の継承だけでなく、南満州・東部内蒙古における日本の権益拡大、さらには中国政府への日本人顧問の配置といった、中国の主権を著しく侵害する内容が含まれていました。さらに、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を占領し、太平洋にも勢力圏を拡げています。このまま日本の膨張を放置すれば、アジア市場への本格的な進出(門戸開放)を狙うアメリカの利益が損なわれます。また、日英同盟の存在は、日本の行動にイギリスのお墨付きを与えているようなものでした。
こうした状況を打開するため、1921年、アメリカ大統領ハーディング(共和党)の提唱により、ワシントン会議が開催されました。建艦競争の抑制(軍縮)と太平洋・極東問題の協議を目的としたこの会議には、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・中国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの9カ国が参加しました。
第2 三つの主要条約
ワシントン会議では、三つの重要な条約が締結されました。
第一に、四カ国条約(1921年)です。アメリカ・イギリス・日本・フランスの4カ国が、太平洋における各国の島嶼領土の相互尊重と現状維持を約束しました。この条約の最大のポイントは、日英同盟の廃棄が決定されたことです。アメリカは、日英同盟が日本を増長させ、日本とイギリスが組んでアメリカと対立する事態を警戒していました。四カ国条約という多国間の枠組みに日英関係を解消させることで、アメリカはこの懸念を払拭したのです。日本にとっては、1902年以来20年近く外交の柱としてきた日英同盟という後ろ盾を失うことを意味し、外交的に大きな打撃でした。
第二に、九カ国条約(1922年)です。参加9カ国すべてが、中国の主権尊重・領土保全、そして各国の経済的機会均等と門戸開放を約束しました。この条約に基づき、日本は第一次世界大戦で獲得した山東半島の旧ドイツ権益を中国に返還し、二十一カ条要求の大部分を撤回させられました。なお、中国代表はこの会議で、関税自主権の回復、治外法権の撤廃、外国軍隊の撤退、租界の回収といったより踏み込んだ主張を行いましたが、いずれも列強によって拒否されました。九カ国条約は、アメリカが長年主張してきた「門戸開放」政策を国際条約として確定させたものであり、アメリカ外交の勝利であると同時に、日本の中国進出に対する強力な歯止めとなりました。
第三に、ワシントン海軍軍縮条約(1922年)です。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5カ国が、主力艦(戦艦・空母)の保有トン数の上限と比率を、米5、英5、日3、仏1.67、伊1.67と定めました。さらに、以後10年間の主力艦の建造禁止が取り決められました。日本海軍はこの比率を不公平だと訴えましたが、押し切られています。この軍縮条約は、建艦競争による各国の財政負担を軽減する効果がありましたが、補助艦艇(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)は制限の対象外であったため、のちにこの分野での軍拡競争を招くことになります。
第3 ワシントン体制の意義と限界
これら三つの条約群によって形成された、アメリカ合衆国主導の1920年代のアジア・太平洋地域の国際協調体制を「ワシントン体制」と呼びます。ヨーロッパ中心の「ヴェルサイユ体制」と、このアジア・太平洋の「ワシントン体制」を合わせて、戦間期の国際秩序を「ヴェルサイユ=ワシントン体制」と総称します。
ワシントン体制は、アメリカが国際連盟には参加せずとも、自国の圧倒的な経済力と政治力を背景に、独自の形で国際秩序を形成・主導していたことを示しています。思い出してください。アメリカは1899年と1900年に国務長官ジョン=ヘイが門戸開放宣言を発して以来、一貫して中国市場への自国の参入権を確保しようとしてきました。九カ国条約は、この門戸開放政策を多国間の国際条約として法的に確定させたものであり、アメリカにとっては20年来の外交目標の達成でした。
日本はこのワシントン体制を受け入れ、幣原喜重郎外相の下で国際協調外交(幣原外交)を展開しました。しかし、ワシントン体制には重大な弱点がありました。九カ国条約には違反した場合の制裁規定がなく、各国の「善意」と「自制」に依存する仕組みだったのです。この点は国際連盟の軍事制裁権の欠如と同じ構造的欠陥です。国内の軍部や右翼勢力からは「軟弱外交」との批判が高まり、1930年代に入ると満州事変(1931年)をきっかけにワシントン体制は実力で打ち破られていくことになります。
パート5:難関大合格への「思考の深化」
第1 ヴェルサイユ=ワシントン体制の構造的矛盾
ここまで見てきたヴェルサイユ=ワシントン体制の全体像を、論述問題で問われる視点から整理しておきましょう。
この体制は、表面上は「国際連盟」「集団安全保障」「軍縮」「民族自決」といった平和主義の理念を掲げていました。しかし、その実態は、戦勝国である英仏米の圧倒的な優位に基づく「現状維持体制」でした。ここで、19世紀のウィーン体制との比較が有効です。ウィーン体制もまた戦勝国主導の「現状維持体制」でしたが、敗戦国フランスを含む五大国の「勢力均衡」によって秩序を維持する仕組みを持っていました。これに対しヴェルサイユ体制は、敗戦国ドイツを徹底的に排除・抑圧することで秩序を維持しようとした点に本質的な違いがあります。
ドイツは天文学的な賠償金と軍備制限によって経済的・軍事的に徹底的に抑え込まれ、イタリアは戦勝国でありながら十分な見返りを得られず、日本はワシントン体制によってアジア進出を封じ込められました。これら「持たざる国」の不満はマグマのように蓄積され、やがて1929年の世界恐慌を引き金として、ファシズムという形で一気に噴出することになるのです。
第2 戦争の「助長」と「抑制」のダイナミズム(東大2006年第1問関連)
東京大学の論述問題では、近代以降のヨーロッパにおいて、戦争はなぜ大規模化・総力戦化したのか、そしてそれに対抗する平和維持の努力はいかに展開されたかが問われています。
第一次世界大戦において戦争を「助長」したのは、帝国主義列強の市場・植民地争奪によるブロック化(三国同盟・三国協商)と、初等教育や徴兵制を通じて育成された排他的なナショナリズムです。これらが国家の全経済力と国民を動員する「総力戦」を生み出しました。一方で、戦争を「抑制」しようとする動きとして、ソヴィエト政権の「平和に関する布告」があり、これに対抗してウィルソンが「十四カ条」を発表し、その帰結として国際連盟という史上初の集団安全保障機構が設立されました。総力戦の惨禍が、逆説的に平和維持のシステム構築を推し進めたという構造を理解することが重要です。
第3 アメリカの孤立主義とワシントン体制の二面性(京大2011年第3問関連)
京都大学の論述問題では、1921年から1930年までの時期に、アメリカが関与することでどのような政治的・経済的国際秩序が形成されたかが問われています。
アメリカの「孤立主義」は、しばしば「引きこもり」と誤解されます。しかし、正確には「ヨーロッパの紛争には縛られない」という意味であり、自国の国益に関わるアジア・太平洋やラテンアメリカには極めて積極的に介入しました。その象徴がワシントン会議です。アメリカは国際連盟という枠組みの外で独自に会議を主催し、日本の膨張を封じ込め、中国市場の門戸開放を確定させました。さらに経済面では、ドーズ案(1924年)やヤング案(1929年)を通じてアメリカ資本をドイツに貸し付け、ドイツの賠償金支払いを間接的に支えることで、ヨーロッパ経済の安定化にも深く関与しました。連盟の外にいながら、世界最大の債権国としての経済力を武器に、政治・経済の両面で国際秩序を主導していたのがアメリカの実像だったのです。
第4 総力戦と女性参政権の実現(東大2018年第1問関連)
東京大学の論述問題では、第一次世界大戦前後に多くの国で女性参政権が実現した背景が問われています。
第一次世界大戦は、前線の兵士だけでなく、銃後の兵器・弾薬生産や経済活動が勝敗を左右する「総力戦」でした。男性が前線に動員された穴を埋めるため、多数の女性が軍需工場での労働などに従事し、国家の存亡を支えました。この社会的貢献が、参政権を要求する強力な根拠となったのです。さらに、ロシア革命で成立したソヴィエト政権がいち早く男女平等の普通選挙権を認めたことが、資本主義諸国に対する政治的圧力にもなりました。その結果、イギリス(1918年の第4回選挙法改正、1928年に完全平等化)、ドイツ(1919年のヴァイマル憲法)、アメリカ合衆国(1920年の憲法修正第19条)などで次々と女性参政権が実現しました。「総力戦」における女性の貢献が、政治参加の権利拡大につながったという因果関係を明確に述べられるようにしておきましょう。
第5 委任統治と「民族自決」の欺瞞(京大2006年第1問関連)
京都大学の論述問題では、1910年代から1950年代にかけての中東アラブ地域の「分割・独立・離脱」の経緯が問われています。
ウィルソンの「民族自決」は、東欧においてはポーランドやチェコスロヴァキアなどの独立を実現させました。しかし、アジアやアフリカには適用されませんでした。とくに中東では、大戦中のイギリスの三枚舌外交が深刻な矛盾を生んでいました。イギリスはまず1915年のフセイン=マクマホン協定でアラブ人にオスマン帝国からの独立を約束し、対トルコ戦の協力者として利用しました。ところが翌1916年には、秘密裏にフランスとサイクス=ピコ協定を結び、戦後の中東を英仏で分割支配する取り決めを交わしていたのです。さらに1917年のバルフォア宣言では、ユダヤ人に対してパレスチナにおける「民族的郷土」の建設を支持すると表明しました。アラブ人への独立の約束、英仏による分割の密約、ユダヤ人への入植支援。この三つの相互に矛盾する約束が、委任統治という形で固定されたのです。
「委任統治」の実態は植民地支配の継続にほかならず、「民族自決」の美名は、敗戦国の領土を戦勝国が再分割するための方便として機能しました。この構造を理解することは、現代の中東問題やパレスチナ問題の根源を理解する上で不可欠です。
まとめ
今日の講義のポイントを整理します。
パリ講和会議では、ウィルソンの「十四カ条」を理念としつつも、英仏の報復と権益維持が優先されました。ウィルソンの十四カ条そのものが、レーニンの「平和に関する布告」に対抗して社会主義の理念への支持拡大を防ぐ意図から生まれたものであった点も重要です。ヴェルサイユ条約により、ドイツはアルザス・ロレーヌの返還、ポーランド回廊の割譲、全植民地の没収、軍備の厳しい制限、ラインラントの非武装化、そして1320億金マルクという天文学的な賠償金を課されました。この過酷な条件はドイツ国民の屈辱感と怨恨を深め、のちのナチス台頭の温床となりました。
世界初の集団安全保障機構として国際連盟が設立されましたが、提唱国アメリカの不参加、独ソの排除、全会一致の原則、軍事制裁権の欠如という四つの構造的欠陥を抱え、侵略行為を実力で阻止する手段を持たない「歯のない虎」でした。
東ヨーロッパでは「民族自決」に基づいてフィンランド、バルト3国、ポーランド、チェコスロヴァキアなど多数の新国家が誕生しましたが、国境線は民族分布と一致せず、深刻な少数民族問題を抱え込みました。一方、アジア・アフリカには民族自決は適用されず、敗戦国の旧領土は「委任統治」という名目で戦勝国に再分割されました。この二重基準への怒りが、三・一独立運動や五・四運動などアジア各地の民族運動を激発させました。
セーヴル条約による半植民地化に対し、ムスタファ=ケマルがトルコ革命を起こしてギリシア軍を撃退し、ローザンヌ条約で主権を回復してトルコ共和国を建国しました。これはヴェルサイユ体制を実力で覆した唯一の成功例でした。
アジア・太平洋では、アメリカ主導のワシントン会議により、四カ国条約(日英同盟の解消)、九カ国条約(中国の門戸開放、日本の山東権益返還)、海軍軍縮条約(主力艦比率の制限)が結ばれ、日本の膨張が抑制されました。ただし九カ国条約には違反に対する制裁規定がなく、体制の維持は各国の善意に依存する脆弱なものでした。
ヴェルサイユ=ワシントン体制は、英仏米の優位に基づく「現状維持体制」であり、ドイツ・イタリア・日本という「持たざる国」の不満を内包する、構造的に不安定な秩序でした。
次回予告
「つかの間の平和」を実現したヴェルサイユ=ワシントン体制。しかし、この体制の下で、各国はそれぞれに深刻な課題と向き合うことになります。
戦勝国イギリスでは、第4回・第5回選挙法改正による女性参政権の実現や、史上初の労働党内閣の誕生という民主化が進む一方、長年の懸案であるアイルランド独立運動が激化し、アイルランド自由国の独立を認めざるを得なくなります。大英帝国は「イギリス連邦」への再編を迫られるのです。
一方、敗戦国ドイツは、1320億金マルクという天文学的な賠償金の重圧に喘ぎます。支払いの遅れを口実としたフランス・ベルギーによるルール占領(1923年)を機に、史上空前のハイパーインフレーションが発生し、経済は壊滅的な打撃を受けます。シュトレーゼマンのレンテンマルク発行や、アメリカ資本の導入(ドーズ案)によって、この危機をいかに乗り越えるのか。
次回、第68講「第一次世界大戦後の欧米諸国①」。ヴェルサイユ体制の下で揺れるイギリスとドイツの姿を追います。それでは、本日の講義はここまで。復習として、「ヴェルサイユ体制とワシントン体制の構造的欠陥をそれぞれ説明せよ」という問いに答えられるようにしておいてください。解散。
