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上司「俺が読みやすい文章を書け」は傲慢?

BASE株式会社執行役員の柳川です。金融事業の事業責任者をしています。私はエンジニア→PdM→事業責任者というキャリアを歩んできました。現在は事業戦略、プロダクト戦略、組織戦略全ての責任を持ちながら、事業責任者を務めさせていただいています。

今回は、書きやすい文章と、読みやすい文章の違い、そしてそこにAIが果たす役割について書いてみようと思います。実は僕自身、AIに助けられて文章が書けるようになった人間の一人です。

書きやすい文章と読みやすい文章は人それぞれ違う

書きやすい文章と、読みやすい文章は人それぞれ違います。自分が読みやすい文章が他人も読みやすいと思っている人いませんか?全然そんなことないです。
自分が書く文章のスタイルに近いものがわかりやすい人もいます。これが割と一般的だと思います。
書きやすい文章と読みやすい文章が違う人もいます。自分が書いた文章を後から読んで、読みにくいなと思う人ですね。

もちろん多くの人に共通して読みやすい文章みたいな概念もあります。ただそういう文章を書くには訓練が必要ですし、そういう文章を読むのにも訓練が必要なのです。
人は思った以上に文章を書けていませんし読めていません。

余談だけど、この訓練ができるのが大学に行く意味だと思っています。
いわゆる構造化されたテキストを、書く訓練と読む訓練ができる。ただ注意しないといけないのは、構造化されたテキストって誰もが読みやすいわけではないのです。訓練を積んだ人だけが読みやすいのです。
ここにある種分断がある。同じ言語を使っているつもりでも、我々は思ったよりも分断されているんですよ。これを忘れちゃいけない。

そもそも読みやすい文章とは

そもそも文章が読みやすい、読みにくいというのは文体とかスタイルの話だけではありません。むしろ人間の思考の順番の癖や、関心の優先順位の方が影響が大きいと考えています。
特にビジネスにおいては、何か知りたいことがあって文章を読むわけです。その知りたいことに辿り着くまでに距離があるとイライラして「読みにくいな」と思うわけです。「要するに何が言いたいの?」とか思ってしまうわけです。そして知りたいことって人によって違うんです。
もちろんセオリーはあります。最初に結論をとか、大きい話から小さい話へとか。本もいっぱい出てますよね。
そういうテクニックはありつつも、そもそも相手の知りたいことを想定した上で文章を書けていますか、みなさん。
僕の体感では相手の知りたいことを想定した上で文章を書けている人は全体の1割くらいな気がします。なぜか。だって訓練してないんだもん。

現代社会、特にビジネスの場においては、相手の話とか文章を、「何言っているかわからない」とフィードバックするのは最大限の侮辱であり屈辱なのです。だから誰も言ってくれないのです。「お前何言ってるかわからないよ、相手に理解のコストをかけてるよ」ってというフィードバックは相当愛されていないと言ってもらえないです。新卒だと教育する前提というコンテクストがあるので言ってもらえたりしますよね。
でもそのようなフィードバックをされたからって、わかりやすく話せたり文章が書けたりするわけではないのです。
わかりやすい文章の書き方を短期間で教える決定的なメソッドはないのです。なので地頭がいいとか悪いみたいな話に終始したり、これは会社に入る前に教育されることなので、やはり学歴が大事なのでは、みたいな話になったりするのです。

という前提がありつつ、最近思っていることがあります。
これからはそれぞれの人が、それぞれに、文章を読みやすく変換してくれるAIのルールを持つ時代になるのではないでしょうか。

文章を読みやすく変換してくれるAIのルールを育てよ!

言語 to 言語の変換は生成AIが大得意です。Cursorとかでルール定義しておくと、結構いい感じに自分に合わせて翻訳してくれます。重要なのはサマライズじゃなくて翻訳だということ。何が重要なのか、何が関心ごとなのかは人によって異なるという部分が肝なんです。その関心ごと中心に変換することが大事。ただの要約では代替にならない。
つまり自分の関心ごとはなんなのか真剣に向きあってみろ!そしてルールにしろ!ということなのです。
実際にCursorなどを使いながら、バイブコーディング的にルールを作っていけるので試してみてください。

僕はみんながみんなそれぞれに、自分の認知に向き合って、変換のルールを育てていく時代になると思うんですよね。そしてそのルールは、さながらあなたの思想を表している。
AIが出したアウトプットをそのまま使うなんてありえなくて、AIによって逆に自分と向き合うことになる。

書く場面で考えても、読み手のことを考えて文章を書くのって結構カロリー使いますよね。でも変換してくれるAIがあれば箇条書きで思ったことをつらつら書けばいいんですよ。思考も飛び飛びでいい。書きやすい文章を思うままに書けばいい。最後に言語 to 言語の変換をかければいいのです。

これで書き手も読み手もストレスのない世界が来る。

まぁこの辺の具体的な話はね、僕よりも専門家に任せます。

「俺が読みやすい文章を書け!」は傲慢ではあるがそれに類する何かはあってもいい

「俺が読みやすい文章を書け!」は傲慢ではあります。ただそれがある意味文章の書き方を矯正するきっかけだったりはします。
文章の書き方を矯正するきっかけになるという書き方をしましたが、実際はもう少し深くて、相手のことを知ろうとするきっかけでもあると思います。相手に読みやすい文章を書くというのは、相手が何を考えているか知るということなのです。でも現代においては、「俺が読みやすい文章を書け!」パワハラ的だよね。言えないよねー。
別の切り口になりますが、認知のスタイルを合わせていくというのは、議論をしチームで仕事をしていくことの役に立ちます。つまり読みやすい文章を知ることは、相手を知ることであり、チームワークの始まりなわけです。

これらのことを考えると、
①上司が自分のための文章翻訳ルールを作り
②上司が自分の読みやすい文章に変換するAIを部下に配って
③部下が自らの文章をそのAIにかけ
④その後読み直すことで上司の認知を理解していく
というやり方はあり得るのではないかと考えています。

(もちろん逆もあってもいいと思うけれど、基礎的な文章の書き方とか思想ができていない人の変換ってただのAIそのままだったりするから、その辺はよしなに。)

すごい時代だよね。それぞれの言語の変換ルールを交換することが相手を知ることになるなんて。だってそのルールはもはや人格に近くて、それを持っているだけで相手の分身を持っていることに近いわけよ。すごいよね生成AIって。

実際僕もぐちゃぐちゃだった思考をAIにぶちこみ、「こう書くとみんなに伝わるんだよ!」と言うことをAI先生に教えてもらったのでnoteが書けるようになったところがあります。昔の僕は言いたいこと多すぎて詰め込みすぎる上に、その詰め込んだ話はハイコンテキスト過ぎて、その説明は不足しているという感じでした。この経験があるゆえに、AIに人間の出力を矯正させる的なアプローチは現実味があると考えています。

改めて、AIは人を成長させるために伴奏させるのが良い使い方だと思います。AIはただ単に仕事を代行させる召使ではないのです。

AIが出してきた結果をそのまま使っちゃう問題について

さてみなさん、文章を書いてアウトプットする時にどのような段階を踏みますか。もちろん以下のような段階を踏みますよね。

①文章を書く
②セルフレビューする
③人に渡す

ちゃんと②セルフレビューするをやってますか皆さん。やってない人結構いると思う。
できれば1日おいてセルフレビューすべきです。自分で書いてわかってるつもりになっちゃってるからめんどくさくてセルフレビューしないでしょ。
そもそもちゃんと真剣に、自分が書いた文章が人に伝わるか考えたことありますか?その視点で真剣にセルフレビューしてますか?そして「これじゃ伝わらないかも」、と思った時に構成を変えてリライトするところまでやってますか?「盛り込みすぎたかも?」と思って内容を減らすとかも大事だったりします。
読み手の理解力とか善意に甘えてませんか?
セルフレビューがだるいと思ってんなら人にレビューさせるな!


という感じでセルフレビューハラスメントをかましましたが、ではAIを活用して文章を作る場合はどのような段階を踏むでしょうか。

①AIに叩き台を出してもらう
②内容を確認してブラッシュアップする
③人に渡す

これもちゃんと②内容を確認してブラッシュアップするをやってますか?多分従来の文章のアウトプットの中で、セルフレビューできてない人はやってないですよ。やってるつもりでも甘くなっている。
AIが出してきた結果をそのまま使っちゃう問題の根本原因はここにあると思っています。自分が書いたアウトプットを読み直さない人は、当然にAIが書いたアウトプットも読み直しませんよ。AIが介在しようとしなかろうと人間の行動は変わらない。

ここまでの話を聞いて絶望しないでください。この②の作業を少しでも楽にすために、文章を読みやすく変換してくれるAIのルールを育てよ!ということなのです。つまり自分が人に何かを伝えようと思った時に気をつけている癖をしっかり認知してルールにしようねということなのです。

「本気で人に読んでもらえる文章書こう!」みたいなモードになる時って読み手が厳しい時なので、厳しい上司やメンバーを持つか、不特定多数向けに発信するのはおすすめです。

近現代は文章を読んで理解して伝えるスキルに寄りすぎていた

少し話のトーンを変えていきます。
現代社会を生きる我々は文章や、言語化を神格化しすぎているのではと感じています。近現代においては、文章を読んで理解して伝えるというスキルに偏重しすぎていた。
「ただそれだけが人の知能を表す」というような誤解を与えてしまいかねないくらいにです。

つまり、「言葉が通じなければ人ではない」とでも言いかねない状況です。

しかし実際には文章や言語化することだけが知能ではなくて、言語化できないことも含めた知能があります。認識の仕方として目先行とか耳先行とかの話もあります。でもそれだけじゃない。そもそも文字じゃなくて、画像とかイメージとか香りとかそういう言語以外の感覚認知が優れている人もいます。そしてそれらは劣ったもの、と捉えられてしまいがちな世の中の雰囲気があります。言葉にできないから、言語化できないから、言葉を発せられてないから、考えてないなんてそんなことないです。

複利の話がある

ただし、複利の話があります。どういうことかというと、認知する能力自体は鍛える必要があるのだということです。そして認知する能力を鍛える機会は、世の中の主流な認識する方法に依存してしまうのです。
いろんな情報が言葉で存在する世の中です。そして言語ができる人が優秀とさせる状況で、どうしても優秀な人のところに情報や機会が集まります。
つまり言語が得意な人が複利的に成長しやすい、そういうある意味不平等な状況があるのです。

元々の世界を認識する方法それぞれの得意不得意に貴賎はないけれど、鍛えやすか鍛えにくいかには差が出てしまう。そして残酷なことにこの積み重ねが本質的な認知能力や実力の差になりうるのです。

言語 to 言語ではない変換も自在にできる世の中になるはず

言語 to 言語ではない変換も自在にできる世の中になれば、機会格差も減ると思われます。今は言語が人々の間を媒介する主要な手段になってしまっているけれど、それぞれの人が本当に得意な認識の方法に変換してコミュニケーションできるようになるはず。言語 to 色とか言語 to 音楽とか。

ということでまずは言語 to 言語の認知の差を埋めていこう。

まとめ

言語化できないと考えてないとか、頭が悪いとか判断されてしまう世の中なわけです。考えてても、発信してないと、伝わらないと考えてないと思われてしまう世の中なのです。
子供の時に言われた、何言っているかわからないとか、それによって頭が悪いと思われるみたいなことは、本当によくないですよ。相互無理解の果てですよ。そんなの嫌なので、AIがコミュニケーションの媒介をしてくれるキューピットになる世界を夢想しながら業務活用していくのです。

途中セルフレビューハラスメントかましましたが、僕も100%どんな時でもしっかりできいるかというと怪しいです。出来上がったと思い込んでる文章読み直したくないよね。気持ちはわかる。でも全然出来上がってないんだなこれが。

ということで、自分用の文章を読みやすく変換してくれるAIのルールを育てるぞ!配るぞ!

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