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値段のつかない野菜に、物語を戻す──評価経済から実存経済へ

【要点3行】

  • 農作物が安いのは、価値がないからではない。生命に不可欠であり、誰もが買える価格を求められるから、使用価値だけでは高値をつけにくい。

  • 後期資本主義は必要性ではなく、ブランド、物語、差異、注目といった評価価値に価格をつける。農産物のブランディングも、この回路を利用する。

  • だが物語が、商品を高く売るためだけでなく、土地、人、食卓の関係を暮らしへ戻すなら、評価価値は実存価値への通路になる。



序|大切だから、安い

農作物は、命を支える大切なものなのに、なぜ安いのか。

普通に考えれば、重要で、誰もが必要とするものほど高くなるはずだ。食べなければ人間は生きられない。株式や広告やコンサルティングがなくても、今日すぐに死ぬわけではない。だが食料がなくなれば、社会は数日で機能を失う。

それなのに、農作物は少し値上がりしただけで高いと言われる。

農家だけではない。

介護、保育、物流、清掃、建設、インフラ保守。社会が止まらないために必要な仕事ほど、その重要性に見合う価格や賃金がつきにくい。

ここには、ひとつの逆説がある。

価値がないから安いのではない。
重要すぎるため、高くすることを社会が許さない。

食料も介護も保育も、一部の富裕層だけが買える商品にはできない。全員が利用できなければ社会そのものが成立しないからだ。

そのため価格は抑えられ、不足分は家族の無償労働、現場の献身、低賃金、補助金、使命感、そして「感謝」という言葉によって埋められる。

社会は「大切な仕事です」と称賛する。

しかし、その大切さを価格では支払わない。


1|価格は、重要性を測っていない

価格は、物の重要性を測る数字ではない。

少なくとも、豊かになった社会ではそうである。

食料が不足している非常時には、農作物の力が前面に出る。貨幣を持っていても食べ物が買えなければ意味がない。平時には背景へ退いていた「食べなければ死ぬ」という使用価値が、むき出しになる。

このとき、農家が突然価値を持ったのではない。

もともとあった価値が、露出しただけだ。

平時には、流通、輸入、備蓄、価格政策、補助金、農家の自己犠牲によって、その価値が見えなくなっている。

豊かな社会では、生きるために必要なものが十分に供給される。すると消費者は、その商品があること自体を意識しなくなる。

水道から水が出ること。

店に米や野菜が並ぶこと。

道路が補修されること。

子どもを預けられること。

高齢者が介護を受けられること。

すべてが「当然」として背景化される。

不可欠なものは、失われるまで価値が見えない。

そして、失われていないあいだは安さを要求される。


2|必要なものではなく、違うものが高くなる

生活必需品が行き渡った後期資本主義では、人は物そのものだけを買っているわけではない。

ブランド、イメージ、物語、希少性、環境への配慮、健康的な生活、洗練された自分、所属している共同体。

物に付随する「記号」を買っている。

自動車の広告は、エンジンの構造を説明しない。

仲のよい家族が週末にキャンプへ行く映像を流す。売っているのは移動手段ではなく、その自動車を所有した先にある生活である。

後期資本主義は、必要性ではなく差異と注目に値段をつける。

私がこれまで使ってきた言葉に置き換えれば、価値は三つに分けられる。

使用価値は、食べる、動く、暖める、運ぶといった機能である。

評価価値は、ブランド、物語、評判、希少性、他者からどう見られるかという価値である。

そして実存価値は、それを作ること、食べること、誰かと分け合うことが、自分の暮らしや生そのものを形づくる価値である。

現代の商品価格を大きく膨らませるのは、主に二番目の評価価値だ。

農作物は、使用価値が極めて高い。

しかし、普通のナスやキュウリや米は、使用価値だけで比較されやすい。同じ棚に並び、重さ、形、鮮度、価格で選ばれる。そこで起きるのは、際限のない価格競争である。

対して、高級フルーツには産地、品種、贈答、希少性、見栄、季節、特別な体験が乗る。

食べるためだけに買うのではない。

贈る自分、贈られる関係、特別な時間まで含めて買う。

使用価値が低いから高いのではない。

使用価値以外の価値を膨らませる余地が大きいから、高くなる。


3|農産物に物語をつける

農産物の価格を上げるには、物語をつければよい。

誰が作ったのか。

どこで育ったのか。

どんな農法を使ったのか。

どのような土地や風土があるのか。

なぜ、この作物を作るのか。

それを食べることで、どのような未来に参加できるのか。

有機栽培、地産地消、国産、地域ブランド、農家直送、六次産業化。これらはすべて、農産物の使用価値に評価価値を乗せる試みとして読める。

だが、物語をつければ何でも売れるわけではない。

余った果物をジャムにしただけでは、加工品が一つ増えるだけだ。市場にはすでに無数のジャムがある。

必要なのは加工そのものではなく、その商品が誰のどんな欲求や関係に届くのかという翻訳である。

一方で、物語だけでも農業は成立しない。

葉のわずかな変色に気づくこと。

土の水分を読むこと。

紐を素早く結ぶこと。

収穫量を安定させること。

暑さや雨や虫に対応すること。

こうした泥臭い技術が、使用価値の土台を支えている。

使用価値なき評価価値は、広告になる。

評価価値なき使用価値は、買い叩かれる。

農産物を経済的に成立させるには、両方が必要だ。

ここまでは、一般的なブランディングの話である。


4|テロワール・ヴェルデも、評価経済である

私が朝晩、SNSに投稿している「テロワール・ヴェルデ」も、評価経済の回路を使っている。

うりぼー農園で採れた野菜。

近くの人から受け取ったニンニクや葉物。

厚木でつくられた酒。

それらを料理し、皿に盛り、写真を撮り、誰が作ったものなのかを書き残す。

ただのナスやニンニクとして消費すれば、一食で終わる。

しかし、土地、人、畑、季節、料理、酒を一つの物語として編み直すと、農産物は単なる食材ではなくなる。

「どこで、誰が、どう育てたか」が見える。

つまりテロワールヴェルデは、農産物にストーリーを持たせ、付加価値を上げる試みでもある。

ここまでは、評価経済の文法で説明できる。

写真をきれいに撮る。

名前をつける。

継続して発信する。

土地と料理を結びつける。

差異を生み、注目を集め、農産物の評価価値を高める。

ブランド、広告、SNSが使ってきたものと同じ回路だ。

だが、私はテロワールヴェルデを、単なる地域ブランディングとしてやっているわけではない。

高く売ることだけが目的なら、もっと効率のよい見せ方があるだろう。


5|物語を貼るのではなく、回収する

広告は、商品に物語を貼りつける。

テロワール・ヴェルデは、商品から切り離された物語を回収する。

市場に並んだ野菜からは、多くの情報が削ぎ落とされている。

土の匂い。

育てた人の手。

猛暑の日の水やり。

虫に食われた葉。

収穫した時刻。

受け渡したときの会話。

料理した夜の空気。

一緒に飲んだ酒。

市場にとって、それらは価格計算を複雑にする余計な情報である。だから農作物は、規格、重量、等級、産地という交換可能な情報へ圧縮される。

テロワール・ヴェルデが行っているのは、その圧縮を解くことだ。

架空の物語を付加しているのではない。

そこにあったのに、市場を通る過程で切り落とされた関係を、もう一度見えるようにしている。

この違いは大きい。

前者は、物語によって商品を高く売る。

後者は、物語によって商品を再び暮らしの中へ置き直す。

もちろん、実在する関係を語れば、自動的に評価経済の外へ出られるわけではない。

畑も料理も地域も、SNSの中では「丁寧な暮らし」という記号に変換される。関係そのものより、それを営んでいるように見える自分が商品になる危険もある。

重要なのは、集まった評価がどこへ戻るかだ。

注目が自分の数字だけに蓄積されるなら、それは通常の評価経済である。

だが、その注目が農家への関心、地域での交換、次の栽培、誰かとの食事、土地への理解へ戻っていくなら、評価は循環を始める。


6|評価価値は、実存価値への通路になる

物語が価格を上げるだけなら、評価価値で終わる。

物語が人と土地を結び直すなら、実存価値へ接続する。

うりぼー農園の野菜を食べる。

それを誰かに渡す。

受け取った野菜を料理する。

料理を記録する。

記録を見た人が、作った人や土地を知る。

自分でも何かを育ててみたくなる。

ここでは、農産物は商品であると同時に、関係を発生させる媒体になっている。

食べることが、栄養を摂取するだけの行為ではなくなる。

自分がどこに住み、誰と関わり、何を育て、何を食べているのかを確認する行為になる。

これが、私の考える「実存経済」への接続である。

実存経済とは、お金を否定する経済ではない。

物語や評価を否定する経済でもない。

使用価値、評価価値、実存価値を切断せず、循環させる経済である。

農作物には使用価値がある。

その背景を語ることで評価価値が生まれる。

その評価が人と土地との関係をつくり、暮らしへ戻れば、実存価値になる。

そして、その関係が次の栽培や交換を支えることで、再び使用価値が生まれる。

使用価値から評価価値へ。
評価価値から実存価値へ。
実存価値から、再び畑へ。

価値は上へ積み上がるのではなく、循環する。


結|高く売ることの、その先へ

農作物は重要で大切なのに、なぜ安いのか。

重要で大切だから、誰もが買える価格を要求される。

そして、使用価値だけでは高値をつけにくい後期資本主義の中で、農家は物語を求められる。

物語を持たせる。

ブランドをつくる。

差異を生み出す。

付加価値を上げる。

それは必要な試みだ。農産物の価値を価格へ翻訳しなければ、農業を続けられない人がいる。

だが、その先がある。

物語は、農産物を高く売るためだけのものではない。

農産物が本来持っていた土地、人、時間との関係を、暮らしへ戻すこともできる。

テロワールヴェルデは、評価経済への参入である。

同時に、評価経済を使って、その外側にある実存経済へ渡ろうとする試みでもある。

物語を貼りつけて、野菜を高くするのではない。

切り落とされていた物語を戻し、野菜をもう一度、私たちの生へつなぎ直す。

暮らしそのものが研究であり、研究そのものが暮らしであるなら、この朝晩の食卓もまた、小さな経済実験なのだ。


参考

・科学的に楽しく自給自足ch
「【衝撃】なぜ農作物価格は上がらないのか。日本経済の『闇』」
https://youtu.be/zPmLfWMtwPs
・拙稿「承認は通貨であって価値ではない——実存経済の構造」
https://note.com/gilles1974/n/n6bf557a934ee
・拙稿「評価経済の次にくるもの――「実存経済」という思考的枠組み/「見られる価値」から「在り方の価値」へ」
https://note.com/gilles1974/n/n5d87f765d8b3

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