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評価経済の次にくるもの――「実存経済」という思考的枠組み/「見られる価値」から「在り方の価値」へ

長いあいだ、「推し活」という文化がどうしても理解できなかった。

誰かに熱狂し、応援し、その人の評価に一喜一憂する。
グッズを集め、SNSで拡散し、同じファン同士で盛り上がる。

周囲では当たり前に見えるその光景が、私にはどうにも不思議だった。

冷めていたわけではない。
他人に無関心だったわけでもない。

ただ単純に、

なぜそこまで、他人に自分の感情の軸を預けられるのか

という感覚だけが、最後まで腑に落ちなかった。

推しが成功すると自分まで嬉しくなり、
推しが批判されると自分が傷つく。

その心理構造そのものが、私にはどうしても身体感覚として理解できなかったのである。

いま振り返れば、この違和感こそが、
評価経済という社会構造を考える最初の入り口だった。

推し活とは要するに、

  • 他者の物語を自分の物語に重ね

  • 他者の評価を自分の評価として受け取り

  • 他者の成功を自己実現の代替にする

きわめて評価経済的な振る舞いだったからだ。


評価経済という予言

この構造を早くから見抜いていた人物がいる。
岡田斗司夫氏である。

2000年代の段階で岡田氏は、次のように語っていた。

「これからはお金より評価が通貨になる」

さらに、

「フォロワー数は、未来の信用スコアになる」
「人はお金のためより、評価のために頑張るようになる」

当時は先鋭的に聞こえたこれらの言葉は、その後ほぼ完全に現実となった。

SNSが生活基盤に組み込まれ、
影響力が権力となり、
可視化された評価が事実上の通貨となった。

岡田氏の著書タイトルが示すとおり、

『評価経済社会 ―― ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』

という認識は、極めて正確だった。


評価は通貨になり、同時に制約となった

評価経済の本質について、岡田氏はこうも述べている。

「お金は一人で持てるけど、評価は一人では持てない」

評価は常に他者の存在を前提とする。
だからこそ人を強く動かし、同時に強く縛る。

そして、

「評価は麻薬のようなもの」

という言葉も残している。

承認と可視化を動力とする社会は、
依存と疲弊を不可避的に内包していた。


評価経済の構造的限界

評価経済は成功した。
しかし同時に、その欠陥も明確になった。

① 評価のインフレ

数字は増えるほど価値を失う。
評価は本質的に希薄化する。

② 評価の可操作性

”バズ” は設計可能であり、炎上すら価値になる。
評価と実態の乖離が常態化した。

③ 評価依存による疲弊

常時比較と承認競争は、人間の心理的コストを過度に高める。

評価経済とは要するに、

他者のまなざしに全面的に依存する社会

であった。
その構造が、いま根本から揺らいでいる。


判断軸はどこにあるのか

推し活への違和感を突き詰めると、構造は単純だった。

自分の判断軸が外にある人は評価を求め、
判断軸が内にある人は自己の基準で判断する。

評価経済は前者にとって合理的な社会であり、
後者にとっては常にどこか不自然な社会だった。

私は最初から後者の側にいた。
だからこそ推し活という文化が身体感覚として理解できなかったのである。


AIがもたらす決定的転換

この評価経済の限界を決定的に可視化したのが、生成AIの登場である。

AIは、

  • 文章を大量生成できる

  • 画像や動画を無制限に作成できる

  • 拡散や ”バズ” を人工的に設計できる

評価を「作るコスト」をほぼゼロに近づけた。

結果として、

  • フォロワー数

  • いいね

  • 再生回数

といった評価指標の信頼性は急速に低下していく。

AI時代において、

「見た目の評価」は原理的に偽造可能

となったのである。


ここまでの論点を整理

いまここまでで提示した論点を簡潔に整理すると、次のようになる。

  • 評価経済は、他者のまなざしを中心に回る社会モデルだった

  • 推し活はその象徴的な行動様式である

  • 評価は一時的には通貨として機能したが、構造的に疲弊を生んだ

  • AIの登場によって、評価そのものが容易に偽造可能になった

  • その結果、「見られる価値」の信頼性が根本から揺らぎ始めている

ここまでが、いま私たちが直面している現実である。

そして、この状況の先に見えてくるのが――

「どう在るか」を価値の中心に置く社会、
すなわち実存経済という発想である。


評価の次に残るもの

評価が容易に操作できる世界で、何が価値として残るのか。

残るのは次の要素だけである。

  • 実際に積み上げられた時間

  • 継続された行動

  • 逃げなかった履歴

  • 具体的な関係性

いずれも、現実の中でしか生成できない価値である。


次の価値基準

貨幣経済

→ 何を持っているか

評価経済

→ どう見られているか

次の社会

→ どう在るか

評価の量から信頼の質へ。
見せ方から在り方へ。


信頼経済、あるいは実存経済

次の社会では、

  • 影響力の広さより、関係の深さ

  • 数の多さより、時間の長さ

  • 拡散より、継続性

が価値の中心になる。

私はこの段階、プロセスを、

”Existential Economy (実存経済)”

うりぼー

と呼ぶことにした。
AIに聞いた限りでは、この言葉を使っている人は世界にいないとのこと。
おそらく、世界にない完全なオリジナルの概念ではないだろうか。


実存経済の思想的基盤

ここで避けて通れないのが、サルトルの実存主義との関係である。

実存主義の中心には、サルトルの有名な言葉がある。

”実存は本質に先立つ”

サルトル

人はあらかじめ与えられた本質を生きるのではなく、
行動と選択の積み重ねによって、自らの在り方をつくっていく――。

この思想は、「評価」ではなく「在り方」を重んじる実存経済の発想と深く響き合う。

評価経済が価値の中心に置いたのは、
「どう見られているか」という外側の本質だった。

しかし実存主義は逆にこう問いかける。

「あなたは実際にどう生きているのか」

実存経済が問うのも同じ方向の問いである。

「あなたはどう生き、その結果どんな信頼を積み上げたのか」

その意味で実存経済は、

実存主義を、社会と経済の言葉に翻訳した概念

と言っていい。


さらに実存経済は、

  • プラグマティズム
    行動と結果を価値の中心に置く姿勢

  • コミュニタリアニズム
    共同体の中で形成される信頼を重視する視点

とも強く結びつく。


したがって実存経済は、

実存主義 × プラグマティズム × コミュニタリアニズム

の交点に位置する価値観である。


地域社会という実例

この転換はすでに現実に起きている。

地域コミュニティでは、

  • 目立つ人

  • 発信のうまい人

よりも、

  • 約束を守る人

  • 継続して動く人

  • 面倒な役割を引き受ける人

が圧倒的に信頼される。

評価ではなく履歴。
数字ではなく関係。


私の立ち位置

振り返れば、私はずっと

  • 外側の評価に寄りかからず

  • 内側の基準で判断し

  • 小さくても継続する

という生き方を選んできた。

評価経済では圧倒的に不利だったかもしれない。
しかしAI時代に入り、その姿勢がようやく時代と噛み合い始めている。


結論

評価経済が問うたのは、

「どう見られているか」

実存経済が問うのは、

「あなたはどう在るか」

である。

では私たちは、
数字に映らない価値を、どこまで信じ続けられるだろうか。

フォロワーの数でも、再生回数でもなく、
積み重ねた時間と行動そのものを。

見せ方ではなく在り方を、
評価ではなく信頼を。

その価値を引き受ける覚悟があるかどうかが、
これからの時代を生きる分かれ道になる。

私たちはその覚悟を、本当に選ぶことができるのだろうか?

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