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 真下みこと『きみは悪口を言わない』

  第一話「見守り隊見習い」限定公開!

お母さんが、友だちのママに怒られている――
小学三年生のあきらは、最近毎朝がゆううつだし、恥ずかしい。
お母さんが、登下校時間の通学路に立ち児童の安全を守る「見守り隊」の隊長になり、張り切っているからだ。
しかしある朝、お母さんの目の前で、人気者の同級生・達哉くんが自転車にはねられてしまい、あきらを取り巻く環境が変わっていく……。

きっとあなたも応援したくなる。
かつてのあなたに似た、この子どもたちを。
感涙必至、要注目作家の新境地!
まだ自分の気持ちをうまく伝える術を知らない子どもたちの日々を描く、
9/25発売『きみは悪口を言わない』第一話にあたる「見守り隊見習い」を限定公開!

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著者プロフィール
真下みこと(ました・みこと) 1997年生まれ。早稲田大学大学院修了。2019年『#柚莉愛とかくれんぼ』で第61回メフィスト賞を受賞、2020年同作でデビュー。著書に『あさひは失敗しない』『茜さす日に嘘を隠して』『舞璃花の鬼ごっこ』『わたしの結び目』『かごいっぱいに詰め込んで』『春はまた来る』
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『きみは悪口を言わない』

「見守り隊見習い」

 あきらは最近、学校に行くのがゆううつだ。
 今朝はお母さんが作って置いていった味噌汁を電子レンジで温めて、炊飯器のごはんを茶碗によそった。ホットミルクモードで温めたのに味噌汁は吹きこぼれてしまい、しゃもじについたごはんのカピカピがこれから食べるごはんにくっついてしまった。六月になってから、雨の日が続いている。今日は一日曇りらしいけれど、そんなこともどうでもよかった。
 学校は、行くまでは面倒だけれど、行ってしまえば友達もいるし案外楽しい。そんなふうに言う大人はたくさんいた。けれど、あきらにとって問題なのは学校そのものではなく、学校に行くまでの道、通学路だった。
 うちの学校では、登下校を見守る「見守り隊」という人たちがいる。朝は登校の多い七時半から八時半の一時間、放課後は十四時半から十五時半の一時間、蛍光色のウインドブレーカーをお揃いで着て、学校に行くまでの角に一人ずつ立って、みんなにあいさつをするのだ。PTAの中で話し合って決めた人たちがやっていることで、ボランティアなのだとお母さんが言っていた。あきらにとって見守り隊の人たちというのは毎朝あいさつしてくるお揃いの蛍光色のウインドブレーカーを着たお母さんたちで、返事をするのが面倒だなくらいにしか思っていなかった。
 ――おはようございます!
 見守り隊の人たちのあいさつの声は先生のものよりも大きかった。どんなときもみんな同じあいさつしかしないのも、お祭りで売っているお面を貼り付けたみたいな笑顔も正直怖かったけれど、あきらにとってはそんなこと、どうでもいいことだった。
 四月に、お母さんが「隊長」になるまでは。
 見守り隊は小学三年生までの親がやるもので、三年生の親の誰かが代表、つまり見守り隊の隊長になることになっている。今年のメンバーは母親ばかりだ。
 そんなふうに説明するお母さんは少し嬉しそうで、それを聞いたお父さんは眉間にしわを寄せていた。
 元々、お母さんが見守り隊だということであきらはよく友達にからかわれていた。
 いつまで見守ってもらってるんだ、マザコン、みたいなことはよく言われていて、あきらはそのたびにちげーよ、と大きな声で反論した。しかし実際にお母さんがいる場所では直接反論もできず、最近ではお母さんのあいさつを無視することが多くなっていた。
 そんな生活が二年続いたのちに、お母さんは蛍光色のウインドブレーカーだけでなく、隊長と書かれた赤い腕章をつけるようになったのだ。
 ――まっすぐ帰るのよ。
 隊長になって偉くなったのか、お母さんは見守り隊の最中、あいさつ以外の言葉も喋るようになった。他の見守り隊は相変わらず、さようならと決められた言葉しか喋らなかったので、あいさつ以外も喋っていいのは隊長だけなのかもしれない。
 この間も、達哉くんと一緒に帰ろうとしたら校門のあたりにお母さんがいて、
「まっすぐ帰るのよ」
 と繰り返し言っていた。達哉くんは足が速くて女子にモテる男子だったから恥ずかしいところを見せたくなくて、あきらはお母さんを見て見ぬふりをした。
「まっすぐ帰るのよ」
「まっすぐ帰るのよ」
「今日のごはんはカレーよ」
 声を聞き、達哉くんがあきらの方を見た。
「お前の母ちゃん?」
「違う」
 思わずそう答えたけれど、その後、達哉くんがうちに遊びに来ることになり、あきらの嘘はあっさりバレた。
 今日もお母さんが隊長として、あきらを含めた小学生の登下校を見守っている。あきらが学校に行くのをゆううつに感じる理由は友達でもいじめでもなく、見守り隊の隊長である、あきらのお母さんだった。
 壁にかけられた時計の針が進んでいく。あと五分したら七時五十分で、家を出なければならない。残り半分というところでごはんを味噌汁に入れてしまい、お茶漬けのようにかき込んでから、あきらはいつも通りカギをかけて家を出た。

 あきらが学校に向かうまでは信号付きの大きな横断歩道があり、スーパーと車屋さんと牛丼屋さんとコンビニがある側と、学校がある側を繋いでいる。横断歩道には見守り隊のおばさんと、それとは別のおじいさんが立っていて、おじいさんはボソボソとあいさつをしてくる。おじいさんにはあいさつを返さなくても怒られないので、返事をしていなかった。
 今日もおじいさんの声を無視して信号を渡り、渡った先で見守り隊の人にあいさつをして、細い一本道を一人で歩く。途中、いつも見守り隊のおばさんが立っている電信柱に誰もいないことに気づき、あいさつしなくて済んでラッキー、と呟いた。
 あきらと仲がいい友達はみんな校門を出て左側に家があり、あきらは右側なので一緒に学校に行く友達はいない。ただ、もしも同じ方向の友達がいたとしても、待ち合わせをするなんて面倒だから、結局一人で学校に行っていた気がする。あきらの同級生の女子はほとんどグループを組んで行動しているので、女子はどうしてあんなに一緒に行動したがるんだろうと、あきらはたまに考える。大抵の場合は一瞬考えて、それからすぐに忘れてしまう。来週発売のゲームを誰が買うのかという情報に比べて、その疑問はあまり大事ではない。
 そんなことを思いながら右に曲がって学校のある道に出ると、学校の目の前に救急車が来ていて、あきらのお母さんは救急車の大人や先生たちと何か話をしている様子だった。あきらはお母さんに見つからないように、こっそり小さな横断歩道を渡って校門をくぐり抜けて、何事もなかったかのように校舎に入った。
「やべーらしいよ」
 下駄箱で話しかけられ、振り返るとあきらと同じ二組の翔吾くんがいた。
「救急車、轢かれたの三年生だって」
「轢かれた? 救急車に?」
「わっかんないけど……」
 考え込んでいると、二組の女子で唯一、常に一人で行動している中村がやってきた。
「もう救急車いなくなってたから、轢いたのは救急車じゃないでしょ」
「どゆこと?」
 中村は女子で一番身長が高い。男子の中で小さい方のあきらは、中村と話すと見下ろされてしまう。度の強いメガネの向こうにある黒目が、名探偵みたいにキラッと輝く。
「救急車が轢いたんだったらその場から救急車いなくならないでしょ」
「なんで?」
 翔吾くんが上履きで床を蹴りながら聞く。
「ゲンバケンショー? そういうの、あるらしいし」
「それって何すんの?」
 あきらも気になったことを聞いてみる。すると中村はわかんないと笑って、先に階段を上がっていった。
「あいつ、変なやつだよな」
 中村の背中に翔吾くんが投げかけたので、うん、と相槌を打つ。
「女子の友達いないって、変だよ」
「だな」
 二人で勝手に納得し合って、階段を競走しながら上がった。
 チャイムが鳴り、ユリ先生がパタパタと教室に入ってきた。
「ユリリン遅刻ー」
 いつも髪の毛に違う色のリボンをつけてくる里中が明るく言った。さっきあきらたちに話しかけてきた中村は、教室では息を止めているみたいに動かない。
「ごめんなさい、えーっと出席取ります」
 ユリ先生が出席簿を開き、一人ずつ名前を呼ぶ。うちの学校では、出席の時間に自分の体調をみんなの前で発表しないといけない。あきらは体調が悪いとかいいとかを誰かに知られたくなかったので、いつも「はい元気です」と答えている。クラスメイトもきっと知られたくないだろうと思って、自分が名前を呼ばれるまでは耳を塞いでいるので、いつも反応するのが遅れてしまう。
「三浦あきらさん」
 先生の口の形と目線から、あきらは自分が呼ばれていると推測して返事をした。
「はい元気です」
「山田達哉さん、は」
 先生が一瞬目を伏せる。ユリ先生に限らず、先生たちはときどきこういう表情をする。英語の時間に来るALTのジョーンズ先生が、わかりやすく日本語で話してくれるときの顔とよく似ている。きっと大人たちの言葉を子ども用の言葉に変換するための時間で、あきらはあまりこの顔が好きではない。
「知っている人もいるかもしれないけれど、ついさっき自転車に轢かれてしまって病院に行きました」
 クラスが少しだけざわめき、そのほとんどは「どゆこと?」で構成されている。ユリ先生がしずかに、とやさしく制した。いつもならこんな注意の仕方ではしずかにならないけれど今日は違った。先生の話の続きが「どゆこと?」の答えになることを期待する、ドキドキとワクワクでいっぱいの沈黙だった。
「学校の目の前、車も自転車も走ってる道路があるよね。いつも危ないよーって注意しているところ。そこを走っていた自転車と山田さんがぶつかって、山田さんは足が痛いそうだから、見守り隊をやってくれていた三浦さんのお母さんが救急車と警察を呼んでくれました。今は自転車に乗っていた人と警察の人、それから三浦さんのお母さんも立ち会ってくれて、どんな状況でぶつかっちゃったのか、などを確かめてくださってるそうです」
 ケーサツだって、やばくね、事件ってこと、いや事故でしょ、事故って何、達哉大丈夫かなあ。そんな声が飛び交った。ユリ先生は諦めたように笑って、
「もしかしたら山田さん、少しの間学校を休むことになるかもしれないけど、よろしくね」
 とみんなに伝え、それから一時間目の国語が始まった。お母さんのせいでみんなの前で三浦さんと何度も名字を呼ばれてしまい、あきらは恥ずかしくて顔を上げられなかった。

 ドアのカギを開けると、玄関にはお母さんの靴があった。いつもなら家にいるときはおかえり、と明るい声がするのに、今日は何も言われなかったのであきらは拍子抜けした。
「ただいま」
 あきらがそう言ってやっと、
「ああ、帰ってきてたの」
 と力なく返すだけだった。あきらは達哉くんのことを聞こうとしたけれど、お母さんはそのままリビングのテーブルに突っ伏して眠ってしまった。
 今日はまっすぐ家に帰ること、遊びに行かないこと、と先生に言われていたので誰とも遊びの約束ができなかった。暇だったあきらは寝ているお母さんの横で今日出された宿題を終わらせることにし、ランドセルから漢字ドリルを取り出す。宿題になっていたのはまとめ問題のページだったので、名前の枠に「三うら あきら」と書き込み、一問ずつ問題を解いていく。
 あきらの家にはゲーム機も漫画もファンタもない。たくさん持っている達哉くんがうらやましくて、去年のクリスマスにはサンタさんにゲーム機を頼んでみたが、二十五日に目が覚めると枕元には図鑑が置かれていた。泣いてサンタを責めるあきらに、お母さんはゲームなんてやったら頭悪くなるんだから、と言った。そうやって知ったサンタさんの正体を、あきらはまだ友達に話せないでいた。
 思ったよりも宿題が早く終わり、また暇になったのでテレビをつける。ケーサツのドラマをやっていて、いつもならチャンネルを変えるけれど今日はちょっと見てしまった。学校の前に、こんな人たちが来たんだ。お母さんはケーサツの人と何を話したんだろう。ワクワクしながら見ていると、お母さんが目を覚まして、
「宿題やったの?」
 と言った。お母さんは、あきらが勉強しているときは見ていないのに、遊んでいるときだけこうやって注意する。
「やった」
 それだけ返してテレビを見ていると、お母さんがやってきてテレビを消した。
「今日のおやつはバナナケーキだから」
 キッチンに向かうお母さんを見て、あきらは顔をしかめてしまう。お母さんのケーキは甘くないので、あまり好きではない。
 コップに汲んだ水でバナナケーキを流し込んでいると、ピンポーン、とインターホンが鳴った。誰か友達が来てくれたのかも。そう思ってモニターのところまで行くと、知らないおばさんたちが並んで立っていた。
「お母さーん」
「はいはい」
 ピ、とボタンを押してから、お母さんはよそ行きの声であいさつしている。開けますね、と言ってお母さんがエントランスのカギを開けた。おばさんたちがエレベーターで五階まで上がってくる前に、あきらはリビングのドアをちょっとだけ開けて、お母さんの後ろ姿を見ていた。
 もう一度インターホンが鳴り、お母さんがドアを開ける。あきらはなんとなく耳を手で作った輪っかで囲ってみた。三人、玄関に入ってくるのが見える。
「わざわざ来ていただいてすみません、スリッパそんなにたくさんないんですけど」
「いいえ、私たちはここで結構です」
 お母さんの後ろ姿にかぶって姿は見えないが、キンキンとひびく声を聞いて、翔吾くんママだとわかった。一度家に遊びに行ったとき、ポテチを床にこぼして大声で怒鳴られたのを思い出す。あれ以来、あきらは翔吾くんの家には行っていない。
「達哉くん、左足捻挫してギプスすることになったんですよ?」
「せっかく区のサッカークラブのレギュラーだったのに」
「来月の試合は厳しいって」
「だからね、あなたの見守りが悪かったからじゃないのって」
「だって三浦さん、事故を見てなかったでしょう」
「それは、一年生の子たちが喧嘩をしてて」
 あきらのお母さんの声がする。すかさず、翔吾くんママがキンキン声を上げた。
「はあ?」
「この期に及んで何を言い訳してるんですか?」
「普段私たちにあれだけ口うるさく言ってるのに」
「しかも事故が起きた途端に意気揚々と仕切り出して」
「目立ちたいだけなんでしょう」
 おばさんたちは六年生を送る会の別れの言葉みたいに一人一人順番に喋っている。
「あのね三浦さん」
 翔吾くんママが、怒るときのキンキン口調とは全然違う、ゆっくりとした喋り方で言った。
「三浦さんが四月に見守り隊の隊長になって、二ヶ月半ですか。これまで私たちに散々注意してきましたよね、真面目に見守ってくださいって。シフトや遅刻にも厳しいし自分の当番じゃないときも来てあいさつをちゃんとしてくださいとかウインドブレーカーのチャックを上まで上げてくださいとかどうでもいいことでいちゃもんつけて。それで? 自分が見守ってるときは事故を見てもいない? 何も見てなかったのに偉そうに現場検証にまで立ち会って? 何がしたいんですか。三浦さんがちゃんと見守り隊としてやってたら、こんな事故は起こらなかったんじゃないんですか?」
 さっきまで賑やかだったおばさんたちは黙っている。あきらもなんとなく息をひそめ、みんなで一緒にしずかにしていた。
「……すみませんでした」
 消え入るような声がして、あきらのお母さんが頭を下げた。おばさんたちはそれに返事もせず、ドアを開けてガタガタと帰っていった。
 あきらは覗き見していたことがバレないように、すばやくテーブルについた。ランドセルから漢字ドリルを取り出して、やっていたような感じを出しておく。本当は、今日の分の宿題はもう終わっている。ごはんを食べてから何をしようかと考えていたが、お母さんが戻ってこない。
 リビングのドアを開けると、お母さんはまだ玄関にいた。あきらはなんとなく怒られる予感がして、そっとドアを閉めた。何も言わないとき、大抵お母さんは怒っている。
 テレビをつけるとつまらないニュース番組が始まったので、あきらはぼうっとソファに座っていた。お母さんはいつも十八時ごろからごはんを作り始めるのに今日は何もしていない。リビングには来ないからまだ玄関にいるのだろう。お父さんはだいたい十九時ごろに帰ってくる。
 ニュース番組が終わったところでガチャ、という音がした。予想よりも五分早くお父さんが帰ってきたらしい。
「おかえり」
 言わないとお母さんに怒られるから、あきらはお父さんにあいさつをした。いつもはあきらより先にあいさつするお母さんは、今日は何も言わない。
「ただいまー。って、どした?」
 お父さんが靴を脱ぐ音がする。お母さんは返事をせず、あきらが玄関に向かった。
「おー、あきら。お母さんどうしたの」
「なんか、達哉くんが自転車に轢かれて、お母さんが見守り隊やってて、救急車とケーサツが来て、僕は学校に行って、達哉くんはネンザして、さっき翔吾くんママとかがうちに来て、お母さんが謝った」
「ん?」
 お父さんは眉間にしわを寄せ、困った顔のまま固まった。あきらの説明ではわからなかったのかもしれない。
 それからリビングに入ったお父さんはまだ困った顔のままで、お母さんは元気がなくて、あきらはお腹が空いていたのでそう言うと、天丼の出前を取ることになった。
「警察官には感謝されたんだけど、どうして子どもが危ない目に遭うところを見ていなかったんだろうってずっと後悔してて」
「だから言ったじゃんPTAなんて引き受ける必要ないって。あんなのそもそも先生の仕事なんだから」
「PTAっていうか、見守り隊は親の仕事だし……」
 そんな会話を聞きながら食べる天丼は、衣がびちゃびちゃであまりおいしくなかった。
 ごはんを食べ終わったころ、電話が鳴った。お父さんが動かなかったのであきらが子機を取ると、お母さんに渡しなさいと言われたのであきらは渋々お母さんに渡した。
「はい三浦です。あれ? あのー、ちょっとお電話遠いようですけど……」
 よそ行きの声にあきらが顔をしかめていると、お母さんは早々に子機を置いた。
「間違い電話かしら」
 お父さんはビールを飲みながらテレビを見ていて、あきらも水を飲みながらテレビを見ていたので、お母さんの言葉に答える人は、このテーブルにはいなかった。

 翌朝、新聞を取りに出たお父さんが、戻ってくるなりため息をついた。
「なんだこれ……」
 反射的にごめんなさいと言うと、あきらは関係ないからと告げられた。お母さんがキッチンから出てくる。
「どうしたの」
「いやこれ、何だと思う?」
 お父さんが出したのは、スーパーのチラシに何か落書きがされたものだった。
「死ね、って……」
「そういえば昨日、うちに何人か文句を言いに来てたんだっけ」
「まだその人たちだって決まったわけじゃ……」
「だったらこれ、誰が……」
 ぼそぼそと言い合う二人を横目に、あきらは録画した音楽番組を見ていた。お父さんがテレビを見ているときはリモコンを譲りなさいとお母さんに言われていたから、お父さんがテレビを見ていない時間をあきらは無駄にできない。電話が鳴った。二人が忙しそうだからあきらが出ようとすると、
「出なくていいから」
 とお母さんに言われた。せっかくなので出たかったが、怒られそうなのでやめておいた。
「そういえば」
 お父さんが思い出したように口を開いた。
「手が足りないプロジェクトの応援に行くから、しばらく夜遅くなる」
 その言葉に、あきらは運動会の応援団長を想像したが、お母さんは悲しそうな顔をしていた。
 その日は、お母さんは見守り隊に出かけず、あきらはなんだかほっとした。今日は当番ではなかったのだろう。見守り隊の人へのあいさつを適当にこなし、いつも通り校門を通った。
 学校に着くと、下駄箱で翔吾くんに会ったのでおはようと言ったのに、翔吾くんは聞こえないふりをした。不思議に思って教室に行くと、クラスのみんなが教室の壁沿いに立っている。あきらはとりあえず席につき、みんなをぐるっと見回した。あきらと目が合った人は目を伏せたので、運動会のダンスでやらされたウェーブみたいだと思った。
 机の引き出しに昨日忘れていった教科書を見つけ、パラパラとめくるといくつかのページに落書きがしてあった。今朝、お父さんが見せてくれたチラシと同じような、黒いマジックを使って書いたものだった。
 体育の授業ですれ違うたびに「無能の子」と言われた。昼休みにいつものドッジボールにまぜてもらおうとしたら「お前はダメ」と断られた。みんなは先生に気づかれないようにいじわるをしてきたので、ユリ先生は何も言わなかった。
 帰り道、あきらはひとりぼっちだった。よく考えるといつも一人なのだけど、なんだか今日はあきらとあきら以外の境界がくっきりと描かれているみたいだった。油性ペンの太字で輪郭をなぞったように、あきらだけがこの世界から、ぽっかりと浮いていた。
 あきらは寂しいと感じることがあまりない。今日学校で何があったとお母さんが聞いてきても、何もなかったと返すことが多い。あきらにとって毎日は同じことの繰り返しで、この日が楽しくてこの日が悲しいみたいな違いが、日々の中ではなかった。
 だけど今日、あきらは授業で当てられたとき以外、誰とも会話をしなかった。あきらが毎日普通に過ごせたのは嬉しいや悲しいをすぐに友達に話していたからで、それがないと頭の中に言葉のかけらが溜まっていき、心の大切な場所にぽっかり穴があいた感じがした。
 この穴がある感じを寂しいと言うのであれば、あきらは今日、とても寂しかった。

「ただいま」
 カギを開けて、玄関であいさつをした。お母さんはいるはずなのに返事がなく、あきらはすぐにリビングに向かった。
「あのね」
 声をかけてみるけれど、お母さんは眠っていたので返事がなかった。リビングでお母さんが眠っているのは、これまではあまりないことだった。だけど昨日も今日もお母さんは寝室ではなくリビングで寝ていて、あきらはとりあえずランドセルを片付けた。
 テレビを見ているとお母さんが起きてきて、宿題は、と聞いてきた。
「今日はない」
 画面から目を背けずに言って、あきらは友達の家ではYouTubeが見られるのにと思った。あきらのお母さんはインターネットも嫌いだ。だからあきらは、スマホはもちろん、パソコンもYouTubeも禁止されている。お父さんがスマホでゲームをしているときにあきらも借りようとするのだが、ゲームの途中で話しかけるとお父さんは不機嫌になる。不機嫌なお父さんを見ると嫌な気持ちになるので、あきらはいつもテレビを見ている。クラスでテレビを見ているのはあきらくらいなのでクラスメイトの話についていけず、学校が終わってから友達の家でYouTubeを見せてもらって流行を追いかけていた。
 昨日は事故があって先生に遊びに行くことを禁止された。今日は、先生は何も言わなかったけれど、あきらはクラスの誰とも話していない。
 勉強しないあきらへのお母さんの苛立ちを背中で感じながらも、ソファから動くことができない。ぽっかりあいた穴を埋めることができなくても、こうやって画面に集中していれば気が紛れた。
「お母さん、買い物に出られない」
 後ろから聞こえた声は、テレビの雑音とごっちゃになった。
「何?」
 聞き返すと、お母さんが同じ言葉を繰り返してから言った。
「外に出て、人と会うのが、今は怖い」
「怖い……?」
 あきらはゆっくり考える。翔吾くんママに怒鳴られてから、あきらは翔吾くんの家に怖くて行けなくなった。お母さんも怖い人がいる。きっとこの間来たおばさんたちだ。あきらもお母さんも、翔吾くんママが怖いのだ。
「ごはんどうしたらいいかわからなくて……」
 泣きそうな顔で言われたけれど、あきらも夜ごはんを用意したことがなかったからどうしたらいいのかわからなかった。
「えー、どうすんの?」
 だからそのまま言葉にしたら、お母さんが消え入りそうな声で謝った。
「ごめんなさい」
「いいけど」
 反射的にそう返したが、どうして自分が謝られたのかよくわかっていなかった。お母さんはそのままリビングで寝てしまい、あきらはお母さんの隣でテレビを見ていた。
 明日は雨が降ったり止んだりを繰り返すでしょうと綺麗なお姉さんが言ったところで、お母さんのスマホが光った。普段は触っちゃいけないと言われていたから、お母さんが寝ている今が触るチャンスだと思った。
 画面が暗くなってしまったので文字があったあたりを触り、再び表示された文字を音読する。
「夜、外で食べる」
「え?」
 お母さんが起きてしまい、スマホに触れた人差し指が固まった。
「なんか、お父さんから来てて、夜は外で食べるって、だから、お母さんに言おうと思って、別にスマホ触りたかったわけじゃなくて」
「そっか……」
 手のひらから滲む汗をズボンで拭きながら、怒られませんようにと願っていた。けれど、お母さんは細く息を吐いただけだった。
「ごはんこれから炊くね、ごめんね」
 リビングのテーブルからお母さんが立ち上がろうとする。その動作はいつもよりもずっとゆっくりで、理科の授業で見た亀が海辺を歩く動画みたいだった。
 電話が鳴り、お母さんが出なくていいよと力なく言った。あきらが学校で嫌なことをされているように、お母さんも嫌なことをされているのかもしれない。あきらは学校から家に帰れるけれど、お母さんは家からどこか別の場所に帰ることはできない。
 電話のせいで立ち上がるのを諦めてしまったお母さんの横顔を見ていた。
 お母さんはずっとここで、誰か、きっと翔吾くんママとかに、嫌なことをされ続けているのだ。お父さんは嫌なことをしないけれど、今日すぐには帰ってこない。あきらの味方はお母さんだけど、お母さんの味方は今どこにもいないのだ。
 あきらは、自分の寂しい気持ちなんて聞いてもらっている場合ではないと思った。あきらは子どもだけれど、お母さんのたった一人の味方になってあげないといけない。だってお母さんには、どこにも味方がいないのだから。
「ちょっと待ってて」
 声をかけ、勉強机の棚に置いた貯金箱から、お年玉を取り出した。封筒に「おばあちゃんより」と書かれていてどっちのおばあちゃんかわからないけれど、封筒とカギをポケットに入れて家を飛び出した。
 エレベーターで一階まで降り、走るとうちの前よりもちょっと広い道路に出る。車に気をつけながらマラソンみたいに走っていると、横断歩道のある通りに出た。
 いつもなら学校がある側に渡るために横断歩道を使うけれど、今日は広い通りに出たところで左に曲がり、こちら側を歩いた。
 お母さんがよく使うスーパーと、大和くんと一度覗いたことがある車屋さんを素通りすると、オレンジ色の看板が見えた。
 ――体に悪いからダメ。
 お母さんにそう言われたので、あきらはこの店に入ったことがない。だけど一年生のとき、お母さんのPTAの集まりが夜あって、達哉くんの家で夜ごはんを食べたことがあった。達哉くんのお母さんは働いていて、買ってきたものでごめんねと牛丼を食べさせてくれた。
 初めて食べた牛丼のおいしさを、あきらは忘れることができなかった。いつかまた牛丼を食べたい。そんな気持ちはむくむくと大きくなり、お母さんがごはんを作れないと言ったとき、少しだけ気持ちが高まってしまった。いつもなら牛丼を食べたいなんて言っても怒られるだけだけど、今日は緊急事態だから、きっとどさくさに紛れて食べられるはずだ。
 店内に入ると、店員さんに食券を買ってくださいと声をかけられた。言われるままに食券販売機に向かったが、背の低いあきらは食券のボタンに手が届かない。
「すみませーん!」
 店内にそう声をかけると、やさしそうな男の店員さんがやってくる。
「どうしたの?」
「食券、手が届かなくて」
 あきらがそう言って食券販売機を見ると、店員さんも納得したようにうなずいた。
「代わりにお兄さんが注文するから」
 そう言って、店員さんは慣れた様子で券売機に触れる。
「お持ち帰り?」
「はい」
「メニューは決まってる?」
「普通の牛丼二つください」
「並二つね。ぼく、お金はある?」
「これ、足りますか」
 封筒を渡すと、店員さんは中を見て、足りるよと笑顔で言ってくれた。機械から食券が出てきて、店員さんにそれを渡され、店内の奥にあるお持ち帰りの人用のベンチに案内される。
「二十五番さんって呼ばれたら、その券を渡してくれたらいいから」
「はい!」
「いい返事だ」
 それから店員さんは笑って戻っていった。あきらは店内を見渡して、一人でごはんを食べる大人がたくさんいると思った。
 そうしていると二十五番の方、と呼ばれ、あきらはずっと手にしていた券を、さっきの店員さんとは違う店員さんに渡す。女の人だった。
「牛丼並二つね、ぼく、お箸はいる?」
「家のを使うから大丈夫です」
「そう。気をつけて持って帰ってね」
 お姉さんがそうにっこり笑うと、さっきのお兄さんがやってきて、気をつけてね、とお姉さんと同じことを言った。あきらはぺこっと頭を下げて、
「ありがとうございます!」
 と返事をした。
「どういたしまして!」
 店員さんは二人とも大笑いしていて、あきらもなんだか楽しかった。
 なんだかふわふわした気持ちで家に帰り、お母さんに牛丼の入った袋を見せた。体に悪いと怒られることを覚悟していたが、お母さんは怒らなかった。
「買ってきてくれてありがとうね」
「どういたしまして」
 お母さんにお礼を言われると、なんだかくすぐったい気持ちになる。そう思いながら食べる久しぶりの牛丼は、やっぱりおいしい。あきらはステーキの分厚い肉よりも、牛丼の薄い肉の方が好きだ。生え替わったばかりの歯でも噛めるし、噛めなくても飲み込める。
 寂しさを打ち明ける必要がなくなった今、何を話したらいいかわからない。テレビをつける気になれないし、お母さんも何も言わずに少しずつ食べているので、テーブルはとてもしずかだった。
 洟を啜る音がした。少ししてお母さんにティッシュちょうだいと言われたから、近くの箱ティッシュから一枚手渡した。
「ありがとう」
 お母さんがそう言ったので、
「どうも」
 と返してみた。どういたしましてはさっき言ったので、違うことを言うべきだと思った。
「ダメな母親でごめんなさい」
「え?」
「でしゃばってごめんなさい」
 あきらの返事も聞かず、お母さんは一人で喋っている。
「無能でごめんなさい」
 何と返したらいいのかまったくわからず、
「牛丼、おいしいね」
 と言ってみた。お母さんは涙をこぼしながら笑顔でうなずいてくれて、そのとき、あきらはお母さんの見守り隊になってあげようと思った。いつも見守ってもらっているばかりのあきらだが、お母さんのように隊長になれなくても、見習い隊員くらいにはなれるはずだ。

 学校に行くと寂しい、家に帰るとお母さんがもっと寂しい、そんな日が続いた。お父さんは本格的に忙しくなり、毎日夜ごはんを外で食べてきていた。お母さんはあきらが出かけるときも帰ってくるときもテーブルでぼんやりしていた。なのであきらがお母さんの代わりにお使いに出かけ、冷凍食品やレトルト食品も使いながら、夜ごはんを二人で用意した。これまで朝ごはんはいつもお母さんに作ってもらっていたのだが、レトルトごはんに納豆をかければあきらは満足なのだと気づいた。お父さんは朝も早いので、朝ごはんを用意する必要もなかった。
 家から出ると通学路にはやはり見守り隊のおばさんがいて、だけどあきらのお母さんはいなかった。お母さんは外に出られないのだから見守り隊ができなくて当たり前だ。学校に行くのがゆううつになったのはお母さんが隊長になったからだと思っていたけれど、お母さんが隊長じゃなくてもその気持ちはちっとも変わらない。もしかしたら今日は、角を曲がったらお母さんがあいさつをしてくるかもしれない。そんなふうに思った日もあった。ドキドキしながら角を曲がると、お母さんじゃなくて翔吾くんママが立っていたので、あきらはできるだけ下を向いて「はざます」と唇だけを動かした。
 いたずら電話や机の中のゴミ、下駄箱の葉っぱやマンションのポストに入れられる落書きしたチラシは事故から日を経るごとに減っていった。学校では相変わらずひとりぼっちだったけれど、家への嫌がらせはほとんどなくなっていた。
 そんなこともあってお母さんは、外には出かけられないけれど、家では元気に笑うようになった。学校の見守り隊はお休みしていて、あんなにうっとうしかった「今日はカレーよ」が、ほんの少しだけ懐かしい。再開したら、きっとあきらは無視してしまうのだけど。
 事故から十日ほど経ったころ、お母さんを起こさないようしずかに宿題をしているとインターホンが鳴った。ここしばらく宅配便はあきらが出ていたので、いつものようにあきらがモニターの前に立つ。
「はーい」
「あっ、あきらくん。お母さんいるかな?」
 この前うちに来たおばさんの顔が、レンズに丸く映っている。両サイドにもおばさんが何も言わずに立っているのが見える。
「どうかなぁ」
 モニターに出られるかわからず、あきらはそう答える。
「おばさんたちね、お母さんとお話ししたいことがあるの」
「そう」
 あきらは振り返り、お母さんに聞きに向かった。
「宅配便? いつもありがとう」
 机に突っ伏したままのお母さんに、あきらはジェンガを引っ張るときみたいに恐る恐る話しかける。
「なんか、お母さんと喋りたいって」
「え?」
 お母さんが顔を上げた。あきらはお母さんの表情をそっと見守る。見守り隊の仕事は、目の前のお母さんとちゃんと向き合うことだ。
「この前来てたおばさんと、他にも何人か」
 そこまで言ってから、前回来ていたうちの一人が来ていないことを思い出す。
「翔吾くんママはいないよ」
 怖いのが翔吾くんママなら、お母さんはあきらの今の言葉で外に出る気になるはずだ。
「わかった」
 お母さんはそう言って、ため息をついた。モニターのボタンを押し、しばらくその場でぼんやりとしていた。
 ピンポーン、とインターホンが鳴って、お母さんがゆっくりと玄関に向かう。あきらは前回と同じようにリビングのドアを少しだけ開けて、その後ろ姿をそっと見守った。
 お母さんがドアを開けると、お母さんの背中越しに数人のおばさんたちが入ってくるのが見えた。みんな、眉毛を下げた顔で間抜けに立っている。
「三浦さん、お忙しいときにごめんなさい」
「ああ、いえ」
 おばさんたちは硬い表情で、お互いに見合っている。少しして、センターのおばさんが口を開く。
「これ、あの、お詫びというか」
 そう言って、センターはデパートの紙袋をお母さんの手に押し付ける。ライトとレフトのおばさんたちは、俯いて黙っていた。お母さんは紙袋を受け取ったが、何も言わない。
「ええっと、とにかく、今日はお詫びがしたくて」
「はあ」
 ため息のような、細く小さい声が、お母さんの口から漏れる。
「前にここに来たとき、私たち、三浦さんにひどいこと言ってしまって」
 お母さんはセンターの言葉に俯くだけで、何も言わなかった。あきらはあの日の翔吾くんママのキンキン声を思い出し、胸がむかむかした。
「だけど本当に子どもを守ろうとしていたのは三浦さんだって、ようやくわかって、三浦さんに本当にひどいことをしたなって、後悔していて」
 おばさんの言葉の意味があきらにはわからなかった。急に怒って急に謝って、おばさんたちは忙しい。
「昨日、PTAで説明会が開かれたんです。それで今日も保護者会だったんですけど」
 センターがプリントを取り出す。
「これ、そのときの資料です。三浦さん、いらっしゃらなかったから」
「はあ」
 お母さんがプリントを受け取った。紙袋もプリントもあって手がいっぱいで、大変そうだ。
「本当にごめんなさい」
 センターがそう言って頭を下げると、続けてライトとレフトも頭を下げる。
「自転車に乗っていたの、翔吾くんママの知り合いだったらしくて」
 え? あきらは声が出そうになるのを慌てて手で押さえた。前回一番怒っていたのは、翔吾くんママだったはずだ。
「これは本当に三浦さんには関係のない事情なんですけど、翔吾くんと達哉くんは同じサッカークラブに入っていて、翔吾くんはずっとレギュラーだったのに、ある日急に達哉くんにレギュラーを取られたそうなんです。それを翔吾くんママが許せなかったみたいで。あの日、自転車で事故を起こした犯人は、翔吾くんママにお願いされたらしいんです」
 ええ? あきらは今度こそ声が出そうになった。
「達哉くんを轢いてくれたら、借金をチャラにしてあげるって」
 シャッキンをチャラ。よくわからなかったが、達哉くんを轢いたらご褒美があるということだろう。
「それで、翔吾くんママって見守り隊での遅刻やドタキャンが多かったじゃないですか」
「はあ」
「それを三浦さんに注意されたことを逆恨みしていたみたいで、三浦さんが当番の日を犯人に伝えて、三浦さんが目を離した隙に轢くように言っていたらしくて」
「逆恨み」
 お母さんがようやく言葉を発した。するとセンターが黙ってしまったので、続きをライトが話し始めた。
「だけど達哉くんが歩いてて三浦さんが目を離すなんて偶然、普通ありえないじゃないですか。だから事故があった日は通算で五回目の挑戦だったらしくて。あれはたまたまじゃなく、三浦さんが目を離した隙に轢こうと故意にやったことだったそうです」
 お母さんが俯いていると、センターがまた口を開いた。
「だから私たちが三浦さんにいろいろと言ってしまったのは本当に的外れというか、三浦さんも被害者だったというか……」
 話がだんだん難しくなってきて、あきらは半分くらいしか理解できなかったが、おばさんたちの態度が変わった理由はなんとなくわかった。
「しかもそれだけじゃないんです」
 ライトが再び喋り出す。
「翔吾くんママ、事故が起きたあと、犯人に言ったらしいんです。本当にやれとは言ってない。私は関係ないからお金を返せって」
「自分が頼んだくせに、往生際が悪いっていうか」
 レフトも便乗して、翔吾くんママの悪口を言い始めた。まるで前回お母さんの悪口を言っていたような雰囲気で、あきらは嫌だなと思った。
「事故の日に三浦さんがすぐに救急車と警察を呼んでくださったじゃないですか。翔吾くんママはお金を返せって言って以来、犯人からの連絡を無視していたみたいで。どうせ連絡がつかないならって、警察に正直に話そうと決めたみたいですよ。いずれにせよいろいろと捜査されて、その中できっと嘘でもついたんでしょうね。嘘がバレるよりは自分から正直に話した方が心証がいいとでも思ったんでしょう」
「なんだかひどい話ですよねえ?」
「そんなリスクのあることを頼んでおいて、お金も返せだなんて。まあ、元々は人にお金を貸す方が悪いんでしょうけど」
 ライトがそう言ったが、お母さんは何も言わなかった。するとセンターが慌てたように二人に目配せをした。
「なんだか、長居しすぎちゃいましたね。私たち本当に三浦さんに謝りたい一心で、今日は取り急ぎそれをお伝えしたくて、なんだかすみません、長々と」
「あ、いえ」
 お母さんがそれだけ言うと、おばさんたちは居心地悪そうにソワソワとし、センターが「三浦さんもお疲れみたいだし、これで失礼しましょうか!」と唐突に言って、バタバタと出ていった。お母さんはカギも閉めずに項垂れていたので、あきらはリビングのドアを開けて玄関に向かう。
 がちゃん。カギを閉めて、あきらはお母さんの方を振り返る。ついでにデパートの袋の中を覗くと、あきらの嫌いなフルーツゼリーがずっしりと入っていた。
「聞いてたでしょ」
 お母さんに問われ、あきらは怒られると思い、慌てて首を横に振った。
「ぜんぜん聞いてないよ。聞こえちゃっただけで」
 そう言うと、お母さんは俯いたままふっと笑った。てっきり怒られると思っていたので、お母さんが笑ってくれて、あきらも嬉しかった。
 二人でリビングに戻り、テーブルにつくと、お母さんはデパートの袋を重たそうに持ち上げてテーブルに置いた。この重たい荷物の中身が全部チョコレートだったらどんなにいいだろうと、あきらはぼんやり思った。
「変な話聞かせちゃってごめんね」
 お母さんはあきらの目を見て言った。
「でも、お母さんは悪くなくって、悪いのは翔吾くんママなんでしょ?」
「悪いっていうか……」
 お母さんはもらったプリントをめくった。ぺら、と紙が動く音がして、あきらはそっと見守る。
「先週ね、警察の人がうちに来たの」
 お母さんはプリントに目を向けたまま、ゆっくりと話し始めた。
「え?」
「あきらが学校行っている間だけど」
「お母さん、捕まっちゃうの?」
 遮って聞いたが、お母さんは怒らない。
「捕まらないわよ。でも事件性があるって判断したって言っててね、翔吾くんのお母さんについていろいろ聞かれた。事故を起こした人の写真も改めて見せられてね。とにかく、お母さんが見守ってなかったから事故が起きたんじゃなくて、お母さんが目を離した隙に事故を起こそうと計画してたとも言われた」
「達哉くんを怪我させたかっただけじゃなかったんだ」
「そういうことね」
「じゃあ、お母さんのせいじゃないって知ってたの?」
「ただの事故じゃないとはわかってて、だけどあきらにそんなこと言ったら混乱させるかも、って思って。黙っててごめんね」
 どうして謝られているのか、あきらにはわからなかった。けれど、いってきますと言ったらいってらっしゃいが返ってくるように、ごめんねと言われたらいいよと言うのがあきらが思うルールだった。
「いいよ」
「でも、まだ外に出るのは怖くて。お母さんに責任があるわけじゃないって、頭ではもうわかっているのに」
 そう言って、お母さんは泣きそうな顔になる。あきらは胸がぎゅうっと締め付けられるような気持ちになる。お母さんは悪くない。悪くないのに、つらい。自分にできることはなんだろうと、あきらは何度も考える。何度も考えて、ゆっくり、だけどはっきりお母さんに言った。
「お母さん、悪くないよ」
「そうかな」
 お母さんはまだ、自信がないようだった。
「だって、僕はお母さんの見守り隊だし」
 恥ずかしくなり、語尾がどんどん小さくなる。それでもお母さんはちゃんと聞いてくれて、目尻の涙を人差し指で拭った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 大人にお礼を言われるのは、やっぱりなんだか照れくさい。
「お母さんもあきらの見守り隊だからね」
「まあ、お母さんは隊長だからね」
 腕の腕章を示すように二の腕を叩き、あきらはおどけたように言った。
「そうそう」
 お母さんはそう言って笑った。それを見てほっとしたのか、あきらのお腹が鳴った。あくびがうつるように、お母さんのお腹も鳴った。
「今日のごはん、どうする?」
 今朝、出がけにお父さんが、今日も遅いから夕飯は二人で食べてと言っていた。
「お母さん、わがまま言ってもいいのかな」
 お母さんは俯き、恥ずかしそうに笑った。
「あきらと一緒に、牛丼食べたい」
「わかった」
 あきらは使命感に燃えながら封筒を取りに勉強机に向かった。すると後ろから、
「ちょっと待って」
 と声がした。
 後ろを向くと、お母さんの吐く息がふるえる音がした。
「あきらが見守ってくれるんだったら、久しぶりに外に出られるかも」
 お母さんが家を出なくなって十日以上が経つ。今さら、いきなり外に出られるのだろうか。心配するあきらをよそに、お母さんは財布とカギをポシェットに入れている。
 半信半疑で玄関に向かい、お母さんがスニーカーを履くのを見ていた。いつもならすぐに履けるのに、今日は指がふるえてうまく靴紐を結べていない。だけどあきらは何も言わず、手も出さない。小さいころにあきらが道で転んだとき、自分で立ち上がるのを待ってくれたお母さんを思い出す。手を差し伸べるのは簡単だ。だけどそうしてしまったら、お母さんはもう二度と、一人で立てなくなってしまう気がした。
「お待たせ」
「はーい」
 あきらも続いて靴を履く。あきらのスニーカーは靴紐がゴム素材なので、解いたり結んだりをしなくてもすぐに履くことができた。
「まっすぐ行くのよー」
 見守り隊をするお母さんの真似をして声をかけながら、ドアを開けた。
「はーい」
 その返事が小学生みたいだったので、あきらとお母さんは顔を見合わせて笑った。
 エレベーターに二人で乗り、マンションを出るときは息をひそめた。誰にも見つかってはいけないスパイのつもりで、あきらたちはマンションの脱出に成功した。
 牛丼屋に行くまでに信号はないから、きっと誰にも見つからない。あきらは見守り隊として常に左右の確認を怠らず、後ろから車が来たときにはお母さんに教えてあげた。
「あきら、見守り隊向いてるね」
 お母さんがくすくすと笑う。あきらはお母さんと二人で歩いているところを見られるのが恥ずかしくて、あえてキビキビと行動していたのだ。そんなことは言えず、あきらは左右の確認をずっとしていた。
 牛丼屋に着くと、お母さんが牛丼の並盛りの券を買ってくれ、空いていたテーブル席に座る。前回はあのお持ち帰りの人用のベンチに座ったのだと思い出していると、
「お母さんね、本当は牛丼が大好き」
 唐突に言われて、あきらは驚いた。
「そうなの?」
「あきらのために栄養バランスが取れた食事を作らなきゃとか、いいお母さんでいなきゃとか、ちょっと頑張りすぎてたみたい。バナナケーキを作っていたのも炭酸を禁止していたのも、あきらの栄養のことを考えて考えて、お母さんなりに決めたことだったの」
 バナナケーキは確かにあまりおいしくなかったな、と思いながらも、あきらは何も言えずに黙っていた。
「だけど今回思ったの」
 そう言ってお母さんは水を飲み、スッキリしたような表情に変わった。
「完璧じゃなくても、ダメな母親でも、でしゃばりでも無能でも、別にいいのよね」
 お母さんはあきらを見ていなかった。テレビに話しかけるような、遠い目をしている。
「だからこれからは、あきらと楽しく過ごせたらそれでいいかもって、そんな気がする」
「あと、お父さんも」
「そうね……」
 遠い目をしていたお母さんはゆっくりとあきらの顔を見た。顕微鏡のピントを合わせるみたいに焦点をすうっと合わせて、
「あきら、ありがとうね」
 としんみりと言った。一体お母さんに何を感謝されたのかわからないあきらは、返す言葉が思いつかなかったので、
「牛丼、楽しみだね」
 と返した。
 それから店員さんがやってきて、
「並二つでーす」
 と牛丼を置いて戻っていった。
 目の前に現れた牛丼は、茶色いお肉がつやつやと輝いて、達哉くんの家で食べたものよりも、この間うちで食べたものよりも、ずっとおいしそうに見えた。思わずお腹が鳴ったので隠すように押さえると、お母さんも同時にお腹を押さえて笑っていた。

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