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曇天と山行の話|風まかせ文芸部《黄金の記憶》

「黄金の記憶」は、綺羅星の如く輝きをる、
というのが世間一般のイメージだろう。
けれど、わたしの黄金は日常にこそ宿る。
今日は、そういう記録を求めて試行錯誤(しながらぐうたら)したお話。

はじめに

わたしはしばしば山登りに出かけるが、その実行は天気に左右される。
わたしは南の島の某大王なので、基本的にぐうたらなのである。
今日は、わたしは山に登らない。
なぜなら、朝から重い雲が垂れ込めているからである。
こういう日は、新たな山ではなく、黄金の記憶と向き合わむ。

あらかじめ雨や雪だと分かっている日は、計画を取りやめる。
団体登山だったり、予約があったりという事情がない限り、最初から行かない。
わたしはソロの日帰り登山者なので、そうした制約を受けることはほとんどない。
厳しい気象条件は、危険というより、安全の冗長性を削る要因となる。

そもそも、わたしの山行の根底には現地の植生を記載する目的がある。
雨天は記録が困難で、眼鏡は曇り、写真も撮れない。
よいことはひとつもない。

曇りの日は、さらに悩ましい。
最近は歳を取ってきたせいか、視力が光量に大きく影響される。
光量さえ十分なら問題はないのだが、曇天では見え方が大きく悪化する。
見たいものがよく見えない。これは大きなストレスである。

写真にも色が乗らない。
カメラは人間の視覚より性能が低いので、見えないものは写らない。
しかも、わたしの写真は記録写真である。求めるのは「正確な記録」であって、演出や補正ではない。
強コントラストや白飛び、不自然なクローズアップは適していない。
薄暗い林内でも、曇天でも、夕暮れでも、強光下でも、これは変わらない。

では、思索や観察を抜きにして、ただ歩いたらどうか。
そう思う御仁もあろう。
しかし、わたしにとって二足で歩む行為は思索に直結する。
それを切り離すことは、なかなかに難しい。
わたしは不純である。山を愛する純粋なヤマヤではないのだ。

曇天では記憶は沈む。
光が満ちた日だけ、記憶は黄金色に立ち上がるのだ。
斯くして、今日のような曇天、わたしは確信をもって惰眠を貪るのである。
惰眠は、記憶の整理をも意味する。いわばデフラグメンテーションである。
故に、今日も山に登らない。

教育番組から、懐かしの歌が流れている。
ちなみに「カメハメハ」大王ではない。それはホンモノ。または悟空。
幼い頃に聴いた歌詞を、わたしは長らく「大王=カメハメハ=ぐうたら」と記憶していた。
ところが、ぐうたらなのは大王の妻と子どもたちだけだったらしい。
女王はお寝坊さんだし、王子(王女?)は天気という外圧で学校をサボる。
彼自身は、星と風を愛する、ただの情緒主義の極北であった。
それなのに、とんでもなく失礼な記憶違いをしてしまっていた。

ロマンチストの執政は、外圧でいちいち停滞する失政よりはるかにましだ。
おまけに、世界が今より少しだけ美しくなる。
あとは、南の島に優秀な記録官と執務官を置いて欲しい。
その三位一体で、世界は滞りなく回るはずだ。
それから、女王とは、“ほどほどに”仲良くして欲しい。

ほら、記憶とは斯くの如く曖昧である。
黄金の記憶を求めるが故に我、記録せむ。
そしてこれが、わたしと山の付き合い方である。

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