曇天と山行の話|風まかせ文芸部《黄金の記憶》
「黄金の記憶」は、綺羅星の如く輝きをる、
というのが世間一般のイメージだろう。
けれど、わたしの黄金は日常にこそ宿る。
今日は、そういう記録を求めて試行錯誤(しながらぐうたら)したお話。
わたしはしばしば山登りに出かけるが、その実行は天気に左右される。
わたしは南の島の某大王なので、基本的にぐうたらなのである。
今日は、わたしは山に登らない。
なぜなら、朝から重い雲が垂れ込めているからである。
こういう日は、新たな山ではなく、黄金の記憶と向き合わむ。
◇
あらかじめ雨や雪だと分かっている日は、計画を取りやめる。
団体登山だったり、予約があったりという事情がない限り、最初から行かない。
わたしはソロの日帰り登山者なので、そうした制約を受けることはほとんどない。
厳しい気象条件は、危険というより、安全の冗長性を削る要因となる。
そもそも、わたしの山行の根底には現地の植生を記載する目的がある。
雨天は記録が困難で、眼鏡は曇り、写真も撮れない。
よいことはひとつもない。
曇りの日は、さらに悩ましい。
最近は歳を取ってきたせいか、視力が光量に大きく影響される。
光量さえ十分なら問題はないのだが、曇天では見え方が大きく悪化する。
見たいものがよく見えない。これは大きなストレスである。
写真にも色が乗らない。
カメラは人間の視覚より性能が低いので、見えないものは写らない。
しかも、わたしの写真は記録写真である。求めるのは「正確な記録」であって、演出や補正ではない。
強コントラストや白飛び、不自然なクローズアップは適していない。
薄暗い林内でも、曇天でも、夕暮れでも、強光下でも、これは変わらない。
では、思索や観察を抜きにして、ただ歩いたらどうか。
そう思う御仁もあろう。
しかし、わたしにとって二足で歩む行為は思索に直結する。
それを切り離すことは、なかなかに難しい。
わたしは不純である。山を愛する純粋なヤマヤではないのだ。
曇天では記憶は沈む。
光が満ちた日だけ、記憶は黄金色に立ち上がるのだ。
斯くして、今日のような曇天、わたしは確信をもって惰眠を貪るのである。
惰眠は、記憶の整理をも意味する。いわばデフラグメンテーションである。
故に、今日も山に登らない。
◇
教育番組から、懐かしの歌が流れている。
ちなみに「カメハメハ」大王ではない。それはホンモノ。または悟空。
幼い頃に聴いた歌詞を、わたしは長らく「大王=カメハメハ=ぐうたら」と記憶していた。
ところが、ぐうたらなのは大王の妻と子どもたちだけだったらしい。
女王はお寝坊さんだし、王子(王女?)は天気という外圧で学校をサボる。
彼自身は、星と風を愛する、ただの情緒主義の極北であった。
それなのに、とんでもなく失礼な記憶違いをしてしまっていた。
ロマンチストの執政は、外圧でいちいち停滞する失政よりはるかにましだ。
おまけに、世界が今より少しだけ美しくなる。
あとは、南の島に優秀な記録官と執務官を置いて欲しい。
その三位一体で、世界は滞りなく回るはずだ。
それから、女王とは、“ほどほどに”仲良くして欲しい。
ほら、記憶とは斯くの如く曖昧である。
黄金の記憶を求めるが故に我、記録せむ。
そしてこれが、わたしと山の付き合い方である。
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